父のこと、①を書いてからずいぶんと時間が経ってしまいました。
父は病気が見つかった時、ぽつりと
「もう少し、生きたかったな」と言いました。
肺炎で高熱が出て体がキツイ上に、レントゲン画像にあまりにもハッキリ写っていて、良い方に考える事なんてできなかったと思う。
とにかく肺炎を治すためにクリニックへ入院。
肺炎が落ち着いたら、紹介状をもらって医療センターへ。
医療センターで検査をいろいろとしました。
PETCTで、肺、鎖骨近くのリンパ節と副腎が光り転移だろうと。
気管支内視鏡で肺の腫瘍の細胞を取った結果、肺腺癌と診断名が付きました。
手術はできない、入院して抗がん剤と放射線治療です。
主治医は「根治を目指しましょう!」と言ってくれて、
父は全幅の信頼を寄せていました。
2017年11月 シスプラチン+ドセタキセルを3週おきに投与予定
この治療1回目の投与、主治医も驚くほど副作用が酷かった。
あっという間に食事が取れなくなり、敗血症になりました。
白血球が500を切りCRPは爆上がり、輸血をしたり、抗生剤の治療をしたり。
12月には生死をさまよい、お正月も家に帰れないと‥
お正月に家に帰るのを楽しみにして父は治療を頑張っていたのに。
年末の最後の面会の日、
「父を連れて帰れない」私はとうとう父の前で泣いてしまいました。
我慢していた分、涙が止まらず小さな子供のように号泣してしまった
立派なオバサンなのに‥ヤバすぎる
「そんなに泣かないでいい、気を付けて帰って。帰って家族のためにご飯を作ってあげなさい。お父さんは大丈夫だから」
と逆に慰めてもらいました。
ほとんど食事が取れないまま3月になり、父は小枝のように痩せて寝返りすら困難になっていました。
胃ろうを作るかどうかの話も出ていました。
そんな状態でも放射線治療は続けていました。
看護師さんに車椅子に乗せてもらい連れて行ってもらえて、感謝です。
父は諦めないから、私も諦めない。
毎日父に会いに行きました。
毎日顔を見て無事を確認しないと安心できないほど状態が悪かったのです。
化学療法の病棟は高校生以下は面会できないと決まりがあったのですが、父が孫に会いたいと。
主治医の許可が出て、私の息子と久しぶりに会うことができました。
父がこんなに痩せている事を息子は知らなかったので、
痩せているけどビックリしないようにね、と教えてから会わせました。
久しぶりの対面。
私の子「じいじ…」
父「○○君…」
2人とも見つめ合ったまま、何も話さない。
長ーい沈黙です。
そして息子がぽつり。
「ガリガリやん」
この一言で父が爆笑
久しぶりの笑顔と大きな声。
ひとしきり笑った後は、学校はどうだとか、病院のご飯が口に合わないなど、いつものじいじと孫の会話です。
面会時間いっぱい話して、別れ際には
「じいじは○○君のスーツ姿を見るまで死なんぞ、がんばるからね」
すっかりいつものじいじの顔に戻って、表情が明るくなっていました。
この翌日から父はご飯を少しずつ食べれるようになりました
ここから旅行へ行けるほど復活するのです。
孫パワーとはすごいものですね