平成の花咲爺さん灰をまいて大金を | ちゃかのブログ

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 私は朝起きて、パソコンでニュースを見て仰天した。インドに2000億円援助で合意とあった。その時心に浮かんだのが、花咲爺さんの話。この国の首相は、灰をまいて大金を咲かせている。安倍首相は、他国を訪れては、灰をまき散らし大金を生みだし、不気味な笑いを浮かべて握手するのがお好きと見える。灰をまき散らかすのは、輪転機でただの紙を刷ることである。ただの紙を刷れば大金が生まれ、その国の首脳は大にこにこといった次第である。その国の首脳も首脳である、このおめでたい花咲首相のせいでそれにより国民がどれほどの負担に苦しむことになるか分からないわけであるまい。しかしこのおめでたい首相を生んだのはほかならぬ日本国民、その付けかどんなに重くても耐えるしかあるまい。しかしその先に武力衝突や、戦争が待ち構えているとなれば、それはおろかでは済まない。命をかけてでも阻止ということになる。これも悪名高きダンピングに等しいアベノミクスによるとなれば、黙っていられまい。昨日のことが明日起きないとも限らないからである。昨日のことは言わずと知れた先の大戦と敗北、いわば日本の破滅である。このおめでたい花咲首相、こうして原爆の灰ならぬ灰をまき散らかして、大金を生み出しているのかもしれない。全くおぞましい話である。


 さてダンピングとアベノミクスについては、いまだに反論の声がない。私のブログは、そんなに届かないのであろうか。ペタだけは二日前にも26を超えていたのに、経済専門家も学者も口を御閉ざして何も語らない。マスコミに至っても同様である。私が声を喉が裂けるまで叫んでも沈黙が帰ってくるだけ、反論するコメントもない。この有様で、原爆の灰ならぬ輪転機のズリ、ズリと刷る音だけか世界のどこかから聞こえてくる。この首相が外国に行けば、この国の不安が高まるばかりである。一日も早くダンピングとアベノミクスついて否定してくれる人が現れて欲しいと願っている。この不安は私だけのものだろうか。この不安私が笑われようが、払しょくできれば本当に有難い。


 昨日は、私のことを少し書かせていただいた。宗教上の小さないさかいのことで辟易された方もいよう。申し訳ないことをしたと思う。これは確かに聞く人にとっては、小さないさかいかもしれない。しかしこれには破門がかかっているのである。というのは、この男によって破門された信者は私の周辺だけでも数人はいる。破門はこの男の伝家の宝刀といってもよい。信仰上でもすでに血が流されているのである。信仰であれ、戦場であれ私には血が流されることには我慢ができない。血の匂いがすると私には耐えられない。ダンピングはすでに血を流した、円安誘導のアベノミクスは? ということになる。


 私の本ということになると、私の考えを受け入れてくれた人は、本を買ってくれて直にその旨を伝えてくれた数人しか私は知らない。本を出して以来、英語専門家にも、大学の学者にも無視されっぱなしである。あまりの無視に焦って聞きまくったので、今は両耳ともつぶれて、言葉が明瞭には聞き取れない。それでも、 正直言って、英語物差しが、これほどまでのことをと知って舌を巻いた。つい2,3日前までは、全く知らなかった。よく聞き取れないながらも今ようやくそれが実感できた。驚きはこれに留まらない、日本語も同じく二本の線で聞ける。同じ原理原則が通用する。多分他の言語にも!!それは兎も角これでようやく私は妄想に陥っているという神の下した呪縛から自分を解放できたのである。これまで私を縛り付けてきた、神と教会からの呪いと罰という恐怖から本当の意味で解放されたと思っている。勿論、これで病気と死の二重苦の恐怖が去ったということではない。それが去ったという保証がないからである。目に見えない者からの恐怖ほど空恐ろしいものはない。逆らうすべを持たないからである。しかし、悪質な宗教はこれを最大限に利用して、人を縛る。これは政治家も同じである。一旦、選挙に勝って権力を握るや、善悪を問わず最大限に振りかざし留まるところを知らない。三年間は選挙がないので、あらんかぎりの力を振り回す。血が流されてもお構いなしである。まるで当たるところ敵なしである。NHKの人事や経団連まで譲ることを知らない傍若無人さである。輪転機を回しさえすればすべてが手に入るのである。平成の花咲首相、これで何がなんでも伝説をつくるというわけか。今の私、それに巻き込まれるいわれはない。それにしても、ダンピングとアベノミクスの謎、すべてがこれにかかっている。でも反論はなしで終わるのか。破滅がかかっているというのに。ここに日本を駄目にする元凶、いわゆる、言わざるという昔ながらの猿が潜んでいる。彼らの口は開くことはない。ということは、専門家や学者の間では、暗黙の了解があるということである。ほとんど同一ということで。ならば退陣を求めて当然ということになる。