一つの驚いたことがあった。12月9日のTVの番組である。テレビナビの番組予告では、テレビ東京の8:54真相解明 実は日本人はデフレが大好きだったとなっていた。私はそれを見ようと待機していた。ところが、前の番組が3時間に延長され。サマーズのくだらない番組が延々と続いていた。最近、自民党の安倍総裁がインフレ政策をぶち上げ、デフレ脱却を景気回復の一番の策として喧伝し始めている。これに大新聞、TVが乗って大合唱が始まった。その中でデフレ大好きなどというのは、テレビ東京の立場上具合が悪いというわけで、急きょ中止延長となったわけだろうか。企業家や金持ちを基盤とする自民党の主張に逆らってはいけないということか。


 私のブログもこのところ選挙色が強くなり、私自身が困ったことだと思っている。このブログではずっと英語を扱ってきたからだ。一国民として気になる徴候が続いているからなのだが、早く選挙が終わって欲しい。政治家に都合のいい言葉が聞かされる選挙ではないのだから。選挙だけは、国民の願いが反映されるものであってほしい。私の場合は、景気が良くなることだけが願いではない。政治家が未熟なままで勝手に憲法を改正してもらいたくない。しかし、安倍総裁がインフレ政策を唱えだしてからマスコミの動きが変わり始め、その方向に動き始めた。これが憂慮される。景気さえよくなれば、憲法改正、教育の改悪もOKとなっては大変である。英語教育という立場からいっても影響なしとは言えない。というわけで今はもっぱら気持ちが選挙に向いている。私の立場は、民主主義、社会主義でも、共産主義でもない。専制君主や封建的身分や官僚に支配されるのはまっぴらごめん。我儘勝手ではない真の自由と平等がほしい。民主党の今の状態に満足できなくても、この方向にあればいいと考える。少しでも逆回転の徴候があれば敏感に反応する。これは戦争によるトラウマかもしれない。しかし私の本当の心と思っている。


 戦後に続いている平和ボケといわれるかもしれない。戦後レジームからの脱却をと叫んでいる政治家もいるし、それに同調する岡崎某などの外交官もいる。でもやはり平和であるほうがいい。戦争や争いよりは。活発な議論や批判は大いに結構、たとえそれがどんなに激しくても暴力をともなわなければ。でもやはり平和をと願う。子供心にかえって。素直にそう願う。 






 先のブログで、政治家は何もしないのがいいという旨の内容のことを述べたが、今日のべたは、今までのところ一人だった。これを見ても、日本の国民は政治家にべったり依存していることが分かると言ったら過言だろうか。これまで何度も、何度も裏切られて一体何を政治家に期待しているのかと不思議に思う。政治家は自分自身のために立候補するのであって、誰かのためにわざわざ高い金をかけて他人のために働くと考えることの方が虫がいい。とはこの国の国民は思わないのだろうか。その上この国の国民は、税金を払わされて政党を援助している。正に踏んだり蹴ったりの状態が続いている。この選挙でも同じことが繰り返されるかと思うとうんざりと感じているのは私だけであろうか。これまでの働きを見ると確かに民主党はだらしなかった、政権交代に示された国民の期待には十分応えられていない。


 民主党が駄目だったから、次は自民党に乗り換える。これが大新聞の選挙予想に示されているの国民の気持ちである。このような安易な気持ちで選挙するのはやめてほしいと思っている。これまで、二大政党政治を成熟した制度の様に政治評論家などはほめそやしてきた。一つがダメならもう一つの政党に乗り換えることができるというのが第一の理由にあげられてきた。しかし、今回の選挙では、二つ以上の政党が、名乗りを上げて複数の政党が争う形となっている。これも表面だけで、自民党が分裂して、複数の党に分かれただけに過ぎない。選挙で自民党が勝利したら、復党し元のさやに納まるのではなかろうか。結局選挙のための看板の架け替えに終わるのではなかろうか。というわけで、私は、鷹がうじゃうじゃいる自民党に安易に乗り換えるのはこの際はやめてほしいと思っている。例え、民主党の働きに満足ではなかったとしても民主党は、針を逆に回さなかったという点を評価すべきと私は考えている。私は、民主党の支持者ではないし、この選挙でも必ずしも民主党に投票するわけではないが、これまでの民主党を見て景気の問題などでこれ以上の働きや成果を期待することは、無理ではないかといいたかった。兎に角政権の交代を期待しそれを果たしたのだから、国民はあまり焦らないで、政権交代の結果を続けて求めることが肝心で、だめだからやめるというのは、筋が通らないことではなかろうか。未熟なものは未熟なりに育てる努力も求めらるもので、駄目だから見込みがないから他の者に乗り換えるのは危険すぎる。イソップの話にあるように、強いリーダを求めた愚かな蛙がコウノトリを送られて食べられてしまったというような結果を招かないように賢明な判断と行動を願っている。


 日本人の困った性向は、物事をよく考えないで付和雷同しがちであるとよく言われる。自民党をはじめとする狡猾な政治家は、わが国民のこの性向につけこみ、二大政党制を建前にとって、民主党は駄目だから、次は自民党が政権をとるのが当然として、国民に迫ってくることが憂慮される。このような二大政党制の原則は、国民が認めたものでも、政治制度として確立されたものでもない。だれに投票するかは国民の自由である。決して騙されてはならない。私のブログに対する反応に危機感を覚え一言述べさせていただいた。

 私は、無党派の一人である。憲法をこよなく尊び、高く評価している国民の一人である。民主党に対して、何もしなかったとか、公約を実行しなかったとか、だめな政党という評価がずいぶん聞かれている。しかし私は、そうは思わない。その失政の大半は、一個人のせいであると私は思っている。ある一人の政党員が、利益を独占する体制を政権内に築こうとした行為が、民主党に対する信頼を落としたと私は見る。それ以外は、独善的にふるまうことにブレーキをかけ、余計なことはせずにマニフェストで国民が納得する部分は、ある程度実行に移すことができたという点が評価に値すると考える。特に野田首相は、途中で財務省官僚に振り回されるところが目立ってきた点では、承服しかねるが、画策して強引に政策を押し付けるところがなかったところがよい。武器の製造で米国の言いなりになったことは私の立場から認めることはできない。


 これが自民党や公明党であれば、独善的な政策を強引に押し付けてくることは目に見えている。特に景気が悪いと不満を述べる国民がいるが、特に景気政策は、政策的に見て、物足りない程度に振る舞うことが、私にとっては最もいいことである。やたらに政治家にリーダシップを求める国民もいるが、このような国民は大企業の勤め人に多く、極めて身勝手だ。政治家にリーダシップを過度に求めた結果は、ドイツのヒットラーなどの独裁者を生み出し、大翼賛政権などの独裁体制に導き、戦争という悲惨な結果に導いたということを忘れてはならない。政権政党が張り切りすぎないで、まあまあの程度に政策を実行することが今の政治家に一番求められていること思っているので、特に民主党を失政呼ばわりしている自民党に自粛を求めたい。政治家に政策の実行を求めたり、リーダシップを求める論調が大新聞にみられるが、今の大政党の政治家にそのような能力を備えた人がいるかまた永田町には、その様な志がみられるかをお聞きしたい。もしいるという人がいて具体的名前を挙げる人がいれば私はその人を大嘘付という。特に政治評論家にこういうう人が多くてテレビは見る気がしない。その様な政治家は一人もいなかったこれまでの日本には。何故かと言えば、日本には古来から天皇制度という専制君主制度、引き続いて江戸幕府に代表される武家の封建制度が連綿として続いており。これに逆らって暗殺された革新系の政治家もいる。ほとんどの政治家は、例え、戦後においてもこれに影響されないでは済まなかったからである。このような脅しと恐怖の渦巻くでたらめで弾圧的な日本において、個人がこうした体制とは独立して自由に考え、政策をたて、主張し実行することは至難の業であり、それだけの勇気はいまの政治家にはない。やたらに数を求め付和雷同させ当選するや平気でそれを裏切る。たとえ出ても今の民主党の様に図太い官僚や既成の利権勢力や団体に抑え込まれてしまうからである。


 したがって、民主党の場合でも、政権を交代したからといって、これまでの政治が、一転してすべての国民が受け入れられるようなものになると期待することは、ほとんど夢物語に過ぎない。これを理想として政治家に求める国民は空しい夢を政治家に求め続け、ため息をつき続けるl。こうした中にあって私は、今の政治は、まあまあの状態でいい、その方がかえっていいということを戦後の長く続いた自民党の政権と今回の民主党の政権を経験して知りました。政治家は何もしない方がまし。今回の総選挙では、朝日新聞などの予想では、自民党が圧勝するとしているが、私は、民主党の支持者ではないがそのことを憂慮している。自民党が政権をとれば、またまた一方的に独善的な政策を公約として我々に押し付け、憲法改正など国民から権利を露骨に奪うことまで平気でやりかねないからである。暗黒政治に逆戻りは目に見えているのに大新聞は、破廉恥に国民をその方向に煽り立てる。それよりも、民主党の様にまあまあで終始した政党の方がましである。民主党は、まあまあで終わったが、それでも公約としていた政策を実行しようと努力していた事は高く評価すべきで、福祉政策という面では、一応の成果が見られたし、公共事業の削減、さらには、官僚から政治を取り戻すという点でも進展が見られた。このように見ると、私は民主党の支持者ではないが、政策をゴリ押ししなかったという点で民主党の方がいい。あまり大した成果が見られないのに、この状態でいられることは、私にとってはありがたいことで大した期待はしていなかったが大成功でもある。今後も私は、民主党に大した期待はしていないし、期待することはかえって民主党の妨げになると思っている。しかし、こうしたわずかな喜ばしい成果も心ない一人の政治家のせいでかなり台無しにされて残念な結果に終わった。かなり皮肉に受け取られようが、私としては、このままである程度満足している。特に、自民党のインフレ政策は、戦前、特に戦後の一時期の二の舞になる恐れがある。今のデフレは、我々のような貧乏のどん底にいる者にとっては本当にありがたいが、金持ちや政治家には我慢ができないものらしい。特に、禿鷹のような企業家にとっては。このような貪欲な富裕層からは、税金をたっぷりとって我々庶民に重圧をかける消費税を緩和すべきと思う。





 憲法は国民のもので今75才になった私は当時子供ながら喜んで受け取りました。選挙のたびごとにその喜びを繰り返し、繰り返し思い出している。その時からすでに50年以上たっているが、憲法による日本の変革、向上は行われているかというと私にはそうは思えない。憲法の改正は声高に叫ばれ、既に教育基本法は変えられ、歴史の針は時々刻々と逆に回されている。これを戦後の社会のからの脱却といい。日本を取り戻すなどと勇ましいことを言いまわっている人もいる。彼らの画策は、憲法によって失われたかって彼らがほしいままにしていた権利、権益を我々国民から奪い返すことに他ならない。私はそのことを肌に感じており、憲法が発布、施行された日のあの解放された喜びを今の戦争を知らない世代特に40歳以上の世代の人々に知ってもらいたかった。


 既に、私と同年代ないしそれ以上の世代の政治家や、知識人の間では、憲法に窮屈さを感じてこれを一日も早くかなぐり捨てようと必死になってもがいている人がいる。そればかりではない。世襲的に言ってこれらの世代に続く世代の者たちの中にその先兵となるものたちが続々出てきている。 それが、かってと同様に、警察、裁判官、弁護士、政治家、官僚、役人、地元の有力者というように続々現れてきている。こう言った顔ぶれは、たとえ憲法があるからといって油断ができない。適当な法律や条例を作って国民に押し付け、憲法によって与えられた国民の権利や権益を最小限度に制限しようと躍起になっている。こうした実態は既に心ある国民には見え見えのことであるが、真綿で首を絞めるように我々国民の手足を縛ってきているのは疑いの余地もないことである。日本には、封建、専制君主の時代が世界では珍しいほど長い間続いてきたという歴史的事実が存在し、それが、国民の間に身分制による差別意識を根強く培っていて、一般の国民同士でもこうした身分意識による差別観が無意識のうちに植え付けられているといって良い。このような世界でも珍しい民族感情が血の中に流れている日本という国は、上から下まで世界常識からかけ離れた特殊な群れをつくっている。

 

 このような状態で、個人、個人の自由と平等をよしとし、これを尊ぶ現代憲法が与えられたわけで。一時は、仕方なしと諦めかけていたのに、なぜか息を吹き返し始めたのである。この何故かを知ることが肝心である。難しいことではない、戦争に負けるまでの何千年もの間甘い蜜をすすってきたからである。こうした事実があったことを知られては都合の悪い者たちが真っ先に手掛けたのが、教育の改革と称して子供たちの意識を変えることであった。それが、教育基本法の改革だった。一旦広がった言論の自由までを根こそぎ奪うことはできないが、子供たちが習う歴史からこれらの階層に都合の悪いものを除こうとしたのである。こうしたことに本格的に取り組もうとした矢先、非自民を旗頭とする政権交代の嵐が起こり、いわば反動勢力といわれている者たちは抑えられることになった。しかし、我々国民は、騙されてはいけない。民主党の中に隠れ反動勢力が隠れているのを。民主党の議員の大半は、自民党の議員たちとは変わっていない。あまりにも、反自民の国民感情が強かったので、そこから離脱して同じような勢力を結集したに過ぎない。船の中の鼠が、いち早く地震などの災難が起こるのを察知して逃げ出したに過ぎない。結局、脱アメリカを叫び、沖縄の駐留軍の移転を叫び、敗戦による屈辱から独立することを叫ぶことで終わった。憲法による国民の自由と平等を米国による占領からの解放にすり替えたにすぎない。憲法によって国民に認められた自由と平等を完全に国民に回復しなければならないと本気で考えている政治家はほとんどいない。政治家や弁護士の中にもほとんど見当たらないというのが、日本の悲劇である。日本人が、政権交代に期待したのは何であったのだろう。インターネットの予想でもそうだが、今回の選挙で民主党の惨敗はわかるとして、自民党の勝利を予想しているものが多いという事実は、日本の国民の大半は、自民党の復帰を期待しているということなのだろうか。憲法による我々国民の自由と平等を奪いさらに我々に認められた権益を取り上げようとするものに強い指導力を期待するとはこの国民は一体どういうことなのだろう。やはり狂犬病の再発なのだろうか。


 子供心に抱いた期待があまりにも無残に引き裂かれるのをみて、我慢ができなくなり一筆書かせていただいた次第です。その結果がいかなるものであれ、選挙の結果は国民の総意。私としては、それに従わざるを得ないと思っています。私は、民主主義者であり、社会主義者、共産主義者、資本主義者ではありません。私を駆り立てているのは、ただ子供心に喜んだ憲法を大事にしたいというこの国の国民が長年抱いていた素朴な気持ちです。政治や選挙については、このくらいにとどめ、次回からは英語に戻ります。

  私のブログに対する関心はますます薄くなっている。私は、先に書いたように、一種の世論調査をしている。タイトルをかなりどぎついものにし目立つようにもした。私は、メデアのような専門機関ではないし、そういう意味では国民に広く知られた存在ではない。しかし多いときは、1日最高で102ものアクセスを記録している。人は平素から問題意識を持って生活していたら、それに少しでも関わるタイトルを見たら敏感に反応するはずである。それには知名度は全く関係がない。むしろ知名度がない方が本音が解るというものではなかろうか。しかしこれだけどぎついタイトルに対しての反応は、ペタ一つという有様だった。これは何を意味しているのだろうか。それはお前は何様だという差別意識が今の日本人に蔓延していることを意味している。特にメデアにはこの差別意識が強いことを証明している。憲法のもとでは言論の自由が謳われ、平等が叫ばれているのにこのように国民同士の間では差別意識が強い。これがまさに日本人気質なのである。特に、メデアや知識人の間ではこの差別意識が強いことが分かる。口先では、自由、平等を言いながら実際にはお互い同士が差別し合う。正にこの意識こそ長く続いた武家や天皇制の支配下で培われたものであり、封建時代や専制、独裁時代の遺物が血潮となってこの国の人々の気質をつくりあげてきたといえる。


 特に我が国では、メデアの関係者、政治家、官僚の間ではこういう差別意識や高慢不遜な傾向が強く、憲法の自由や平等を奪う者たちの先兵となっている。彼らには、人を尊敬しあう気持ちはまるでなく差別し、蔑視する意識が無意識のうちに働いている。このように指摘すると必ず返ってくるのがそれは僻みだという言葉。この有様が差別意識の存在を如実に語っている。こうした状態は、先の戦争の前に強くみられたもので、いまの日本人の心は非常に危険なものを孕んでいるといっていい。私が、狂犬と呼んでいるのは、このような差別意識と侮蔑意識で凝り固まった日本人の封建時代が抜け切れない根性や気質のことである。このような意識が強い人々の多い中では、憲法の要求する民主主義は育たない。根こそぎ刈り取られてしまうからである。別の言葉でいうと出世主義ともいえるだろうこの哲学も思考や思索や反省が欠如した人々は、信念や識見を欠如しているので、都合さえよければころころ変わる全く信用できない者たちでもある。反省は自虐という言葉で置き換えられる。私が大学時代こういう日本人の気質についてよく議論したものである。それから数十年の年がたってみるとまだこの有様である。メデアでもてはやされることが多くなってこの気質はますます強くなっている。お互い同士を差別するさもしい根性が強い日本という国に民主主義を望むことは絶望に近いといっていいだろう。


 このまま政治家や特にメデアの関係者の中にみられる自己礼賛型の無反省な状態が続き、自衛隊が国防軍に名前を変え、軍隊としての体裁を整えるとかってのように民主主義を抹殺する方向へとまっしぐらとなるのではないかと恐れる。この国民に宿る封建意識、強いものにはへいこらし、弱いものには差別と侮蔑をあらわにする。このような意識は憲法では変えることのできない極めて根強いものでこれを民主主義の方向へ意識的に転換しない限り、社会主義、共産主義に包囲されている状態の日本には勝ち目がない。原爆や科学装備やミサイルに頼ればなんとかなると気楽に考えている向きもあるが、そんな甘さが通らない程世界は緊迫した状態にあるとは言えまいか。確かに、私のような知名度が低いブログに対する反応を見てこのように判断するのは早計かもしれない。しかし、そんな封建時代の遺物をいつまでも抱え込んで民主主義を拒み続けることが世界に通じると考えることはもっと危険ではないだろうか。私は、この無神経さに驚くとともにこの国の将来は自滅しかないのではないかと憂慮している。特に、政治の中枢にいる政治家、官僚、知識人を自認する人たちに対して一言いいたい。いわゆるガキ大将にみられる小児状態を脱却して早く心の広い大人になれと。私がこういえるのは、この国には、憲法で言論の自由が認められ、単なる一国民として感じたことを自由に言える余地がまだあるからで、こういうことも許されないということであれば、この国の病はさらに進んでおり、その病根は深い。私は、医者ではないがそう診断する。このようなことを言っている私は、この国ではますます孤立するだろう。その孤立こそが危険の度合いを表すバロメーターでもある。


 



 私のブログに対する反応が、国民の世論を反映しているとは思はないが、それにしても恐るべき結果を見たような気がする。大半が憲法は押し付けられたもの、そこで保障されている自由も平等もいらない。憲法を放棄したいというのが今の人々の考えであることが分かり慄然としている。自衛隊を国防軍と言おうが、軍隊として他国に攻め込もうが全くお構いなしというのだろうか。この日本人の変わりようはどこから来るというのだろうか。このような結果を見て喜ぶには政治家と官僚、自衛隊関係者。私は、先に書いたように、資本主義者、社会主義者、ましてや共産主義者ではない。憲法を占領軍憲法などといって押し付けられたものとは全く感じなかった人間に過ぎない。そればかりではない、自衛隊が国防軍などと名称を変えると、その矛先は、中国でもなく韓国でもなく真っ先に私のような人殺しを好まない臆病な国民に突き付けられる。かくして、警察も、裁判官、官僚、役員もこぞってかっての官憲同様にふるまい始め、国民を恫喝、威嚇し始める。これが日本人気質というものである。


 日本人は自分のなかに流れている血について全く知らない。この血は、日本の建国以来ずっと流れ続けている。それは最近の自民党に代表される様な血、傲慢で、好戦的な血ということだ。私のブログに対する反応がそれを一番物語っている。私は元来臆病な人間なので、臆病さゆえに人と戦うことを何よりも嫌ってきた。闘うことを好む日本人は、反面、卑怯な人間でもある。決して他人のことは考えようとしない。自分の利益や利権だけしか興味がない。これが小沢一郎や今の自民党に共通する気質である。彼らは日本国をとりかえすと主張する。しかし彼らのいう日本国は、彼らに都合の良い日本国で、国民から自由と平等をはぎ取ることに通じる。それに異を唱える私のブログに関心を示さない反応を見て、私はこの国の国民をますます恐れるようになった。正にそう狂犬病が蔓延し始めた。。


 私は、中国人や、韓国人が今の日本の状態を見ればまた戦前の再来かといって警戒するのは当然と思う。憲法は日本人の好戦的、自己中心的気質を抑える働きをしてきた。それを今の日本人は窮屈に感じるようになってきた。私は、このような結果と状態を見て、狂犬を思い浮かべた。狂犬が憲法で縛られているのに耐えられなくなり牙をむき出し始めたと。世界の狂犬、檻につながれていた狂犬が騒ぎ出すとき、またまた世界に不幸や悲劇が始まる。私は、今の中国や韓国の日本に対する態度は、多少常軌を逸していると思う。日本には世界に誇ることのできる憲法がありそれは国民の自由と平等を表明している、軍備の放棄も謳っている。私は、これは人類のつくりあげた最も優れた憲法で、正に人類の叡智の結晶と思ってきた。その憲法のもとに生まれ変わったこの国をもっと尊重してほしい。日本には、石原に代表される狂犬ばかりではない、まともな人間もいることを知っていただきたい。それが真の民主主義というものである。日本国民が憲法を窮屈に思うとき、またそう思って行動に走る時、それは一億玉砕の時で、狂犬の自殺行為である。日本は、共産主義や、社会主義国家ではない、国民すべてが、金の制約を受けないでその意思により自由に政治に参加できる平等を重んずる真の民主国家に生まれ変わった国である。狂犬のための国家ではない。最早強権国家ではないのだ。民主党はもとより、一握りの者だけがそれを夢見て政権を奪い合っているのだ。今回の総選挙は、狂犬が暴れるか、再び檻につながれるか、総自殺に走るのを果たして抑え込まれるかこの結果を見て不安になる。


最後にくれぐれも申し上げたいことは、私については誤解の無いように。大のスポーツ好きで、何時も日本を応援しているただの爺。ゴルフなどでは最近強い韓国勢を見て腹を立てている汚い爺でもある。

 私は、これまで何度も述べてきたが75才。わたしにとってはあの忌まわしい戦争が終わって50余年になる。戦時中一番嫌だったのは、威張り腐っていた軍事教官。長い軍刀を腰からぶら下げいつも肩をいからしていたあの恐怖を今でも思い出すとゾートとする。一番うれしかったのはそんな戦争が終わったことと、戦争中に威張り散らしていた軍人が猫のようにおとなしくなったこと。軍人ばかりではない、それまで同じように人を顎で使っていた役所の役人や地主などの地方の有力者、なんといっても嫌いだったまるで犬のように嗅ぎまわり居丈高に恫喝して回るおまわりさんと呼ばれる警官の面々どもまで手のひらを返したようにおとなしくなってしまったことだ。このように嫌な連中をコロッと変えてしまったのは、憲法であった。このように憲法というのは、魔法のように人を変えしまうのを目の当たりにした私には、大歓迎であった。憲法発布は今でも覚えているが、お祭り騒ぎだった。これであの嫌な奴らから解放されると思うと興奮して体が燃え立つ思いだった。子供心にも嬉しかった憲法発布、それ以来私の関心はもっぱら憲法に向けられてきた。待ちに待った選挙の日は飛び立つ気持ちを抑えきれないほど喜んだ。しかしその喜びは、つかの間であった。選挙のたびに、誰でも選挙に出れるという期待は、裏切られていった。大人たちが議会で掴み合いをする光景まで見られるようになった。憲法によって誰でも選挙に立候補できる自由が与えられ、それまで国民から奪い取られてきた、様々の権利を取り戻すことができたというのに、その結果喧嘩や犯罪が一挙に増え、なおさら恐怖の世の中になってしまった。こうした有様を見た時小さな私は恐怖にちじみ上がり、夜になって外に出ることが恐ろしくなったことを覚えている。一挙に臆病になってしまった。


 子供心にわかったことは、憲法によって人の心まで変わらないということだった。それを知った時私は、気の知れない大人を恐れるようになった。あのコロッと手のひらを返すようにおとなしくなったのも同じ人間、その様にころころ変わる大人の姿を見せつけられた私には、到底大人を信じられなくなったとしても不思議ではない。その間にこのような大人が憲法にしたことは、先に述べたようなその憲法が保障する自由と平等、その他の権利を国民から取り上げ奪い独占することであった。戦時中に人を弾圧し、恫喝し、脅しまくった地方の役人、権力者たちがすべての国民に平等に与えたはずの権利を取り上げ独占しようと暗躍し始めたのである。役人と政治家が結託し、選挙に供託金を設け金がなければ選挙には立候補できないことにした。驚くことにこれには、地元で選出された公平であるべき選挙管理委員会が協力した。演説で旅行すると、選挙カーが必要になるなど、選挙に金がかかるという風潮をつくりあげ、選挙に金がかかるので一般の国民には手の届かないものというように国民を思い込ませ断念させるように工作もした。こうした選挙にかかる金がつくれるのは、戦時中からせっせと金をため込むことができた地主や、皇族とつながりのある旧華族さらには、地方の役人有力者たちであった。造り酒屋なども小金を貯めこみ、戦後の混乱に闇の商売で儲けた成金も金を使って選挙による利益の独占をはかり、かくして、憲法によって認められた当然の権利を奪い、取り上げた。自民党が政権をとるとそれまでの旧華族や、その親族である内務官僚など官僚たちや地元の有力者が結集し、その傾向はますます強まっていった。 それにつれて、憲法は、占領憲法と呼ばれ、占領軍が押し付けた屈辱的産物と喧伝され。憲法そのものは敗戦国の屈辱の象徴といわれるようになった。


 こうした基調は、政権交代でもやむことはなかった。民主党では、政治改革の声は上がっているが、政治家である彼らが国民から奪い去った当然の権利を国民に回復するということは一度も上がったことはなかった。政党助成金を廃止し、選挙の費用は国が負担しすべての国民がその意思があれば誰でも立候補できる制度を作るということを主張している政党は、共産党を含め皆無である。これを見ればいかに国民が無視され、政治家、官僚をはじめ地方の有力者、役人の餌食にされているかがわかる。基本は、我々国民がすべて憲法に保障され、与えられている権利を回復することである。選挙には金がかかるという欺瞞をはぎ取り、国が金のかからない公平で平等な選挙を確保できる制度を樹立することこそ急務ではないだろうか。私が子供心に抱いた憲法に対する夢と希望と期待をもう一度見たいという私の願いは、幻で終わっていいのだろうか。75才にしていまだに真の民主主義に目覚める今日この頃である。

 野田首相が、解散に踏み切り、総選挙一色という事態になっているが、このいまのわが国において極めて危険な傾向がみられる。それは、一つは、隣国に中国という人口13億以上の国があって共産主義による世界覇権を密かにたくらんで国民をその方向へと誘導し、軍事を強化拡大しているからである。私は、平凡な一国民、今は生活保護でほそぼそと生かして頂いている身。しかし今の憲法では、参政権もあり、国民の一人として政治に参画する平等の権利を有している。この国をどうするかわ、政治家や政党が決めるものではない。まして天皇や皇族それに連なる旧貴族がしゃしゃり出てきて決めるものでもない。日本の憲法は、人によっては占領憲法などといってまるで占領軍に押し付けられた敗戦国の屈辱的遺物の様に言い、まるで価値のないもののように言いふらしている者もいるが、私にとってみれば、この憲法こそ私のようなものに平等の権利を認め堂々と臆することなく政治に参画し、その意思があれば立候補し代議士として働き、と同時に自由人として、自由に語ることができる立場を与えそれにより、、時には辛辣な批判することもできる身分に浴している。この憲法は、民主憲法で、日本という国が世界に誇ることのできる初めて人類がこの世界にもたらした尊い産物であることを特に今の政治家は忘れてはいけない。


 こうした本来は、自由に参画できる立場にある我々国民からその平等な権利と立場を今奪っているのは、こうした政治家たちやそれに連なる官僚、皇族たちであることを国民は忘れてはならない。そもそも、選挙には金がかかるとしていることがおかしい。 むしろ選挙には金がかからないようにして自由に立候補できるように制度を改めなければならない。わたしには、分からないことだか憲法には立候補の資格に対して金の制限を設けているのであろうか。憲法のほかに、様々な行政法や地方の定める条例というのもある。こうした様々な法の網によって憲法に制約を設け、本来なら自由に政治に参画できる国民の権利を奪う仕組みが出来上がっていることに、国民は抗議しないことが不思議でならない。こうした制約の網を設けたのが、官僚主導の政治家であった。それには社会党も責任を免れないかもしれない。勿論、その元凶は、戦後の政権を独占してきた自民党である。社会党であれ、自民党であれ、いまの民主党であれ、政治改革などと物々しい言葉使ってはいるが、本当の政治改革をごまかしているにすぎない。この点は法の番人といっている最高裁判所をはじめとする裁判官たちも同罪である。政治の参画には、金をかけてはならない。これが憲法により保障された国民の最大の要求である。これをいろいろな理由をつけて拒み、奪い取りほしいままにしている政治家、裁判官を国民は憲法の名のもとに断罪するところからこの度の選挙はスタートすべきであると私が主張したら、直ちに公安と呼ばれている警察は飛んできて私を逮捕しようとするだろう。それが自由で、民主的で、言論が保障されている日本の実態である。


 私は、今私の主張する本来の意味での民主主義もできない国がこの日本であると心底思っている。国民はこのことに怒りを覚えないのであろうか。できないのではない。させないように妨げてきた国である。石原のような知事たちもその先兵となって働いてきた。維新の会に集まっている元知事や市長たちも日本の民主化をいかに妨害するかでその地位を獲得してきた者たちである。本来ならば、立候補する資格もない失格者たちである。特にそこに群がる弁護士たちはその義務に目をふさぎ、同様に日本の国民から正当な権利を奪う仕事をしてきた。しかも彼らは、司法試験により与えられる特権をほしいままに駆使し、この基本的な権利を国民から奪うことしかしてこなかった。その意味では、彼らも断罪すべきである。小沢一郎の検察審査会による一連の法廷を暗黒人民裁判と呼んだ記者がいるという。わたしのいう断罪を人は何というだろうか。戦後の混乱を乗り越え、高度成長時代に入り欲ボケしてしまった記者たちは民主主義の基本すら忘れてなすべき仕事を放擲し、今の地位に得々として満足しきっている。これを体たらくといわずして何と表現しようか。


 このようないわば破廉恥者が支配する日本に、社会主義、共産主義を掲げ世界覇権をたくらむ中國が挑戦してきた。私は、社会主義者でもなければましてや共産主義者でもない。私は、憲法の保障する権利が奪われることなく正当に保障されていさえすれば、民主主義で十分と思っている。社会主義も、共産主義も労働者階級による独裁を標榜する。ある社会の階級が政治を独占することを認める国は、当然民主主義を抹殺しようとする。民主主義とは共存できない犯罪国家といっても過言ではない。かって、共産党による人殺し革命をバラ色のように描いてきた者たちがいた。しかし社会主義や共産主義は、すべての国民を平等に扱うことをしない思想が基本となっている。日本が本来の意味での民主国家になった時は、共存はできない国である。だからといって日本の民主主義すらできないように妨げてきた政党太陽や維新の会がこの国を守るために原爆保有を持ち出すののは筋違いもはなはだしい。そんなことをする前に弁護士なら毅然として国民に本来保障さるべき、政治に参画する自由と平等を確保すべく働けと言いたい。すべてはそれからである。この意味において太陽や維新の会に群がる自称政治家を欺瞞者集団という。私が主張する本来の民主主義は、資本主義とは全く異にする。今日本の国民から本来の自由と平等を奪っている元凶こそ資本主義だからである。資本主義は、民主国家を誇ってやまないアメリカが宗主となって主張してきたもの。しかし資本主義の実態は、金による支配である。その証拠はアメリカの貧富の差にある。アメリカが民主国家というのは真っ赤な偽りで、1%の富裕層が金で支配する拝金国家である。今回の選挙でも二人の候補は献金と称して金を奪い合った。あれが本来の民主主義てあるとはだれが思うだろうか。


 このように見るとき、いまこそ日本国民は、金に支配されない自由と平等をとりかえすべきで。これこそ今の憲法がすべての国民に保障している基本的人権である。世界の憲法の中で一番日本国民が誇りとすべきものこそ人類が長い暗黒の時代から人間を解放すべく闘った結果つくりあげた夢の憲法である。この夢の憲法の保障する政治に参画する自由と平等を国民の手から奪ってきたものを今こそ断罪しなければならない。それが今回の総選挙である。その権利を国民がその愚かさゆえに放棄する選挙でもあることを肝に銘じなければならない。これまでの偽りの民主主義、幻想の民主主義を断ち切り、中国の共産主義に劣らない民主国家を樹立するときこそ、必要とあれば、自国を守るべく原子装備もできる、最強の平和主義国家となると大いに期待している。このことを無視し私を理想主義者と呼ぶ者も出てくるだろう。しかし、これは理想ではなく憲法に約束されたものを実現することを求めているだけのことである。これまで我々から真の民主主義を奪ってきた者の化けの皮をはがす最大のチャンスが今目の前にある。それが今回の総選挙であると言ったら、これまた無視されるだろうか。

 以前にこのブログで、英語物差しを使った聞き取りはピンとこないところがあると書いたことがあるが、それはとんでもない間違いであったことが分かったので訂正したい。そもそもこれは、言葉を聞き取るのが目的なので言葉が点と線の形で感知されると考えることのほうがおかしい。言葉は言葉の形でとらえられ即脳に記憶され、それが言葉として聞こえると同時にほとんど反射的に引き出され反応すると考えられる。もしこうした極自然な反応が言葉を点と線に分解して聞くことにより妨げられるならば、そうすること自体間違っていると言わねばならない。こうした間違いが起きたのは、点と線にあまりにも過敏になっていたからで、それが、極自然な聞き取りの反応を妨げることになっていたということと思われる。この自然の反応は脳に直結されており、こうした脳の瞬間的反応を意識化し、言葉を音として遅滞なくキャッチするにはどうしたいいか。遅滞なくとしたのは、私の経験上、音のキャッチにおいては、早く発音される音ほどには意識化されるまでの時間的ずれが大きく、このずれを最小限度にすることが聞き取りのカギとなる。点と線による英語物差しの目的とするのも正にそれで、それにより正確な聞き取りが確保できる。しかし残念ながら英語物差しを使ってもこのずれが完全になくなることはない。それは、点と線を使うということが、人為的なことであり、自然なことではないからでしょう。 それでも逆に人為的なことが意識化を速めるということもあり、英語物差しはその点で大いに役に立っている。


 それに気づいて、言葉優先に変えたところピンとこないということもなくなり、自然な聞き取りができるようになり、しかもかなり高速で、瞬間的な聞き取りも可能になったというわけで、このことを報告するために夜中に起きてブログを書いている。私が英語物差しをわざわざ作った理由は、日本語に翻訳することなしに直接生のままで英語を聞くためで、お蔭でほとんど日本語を頭に浮かべることなくまた英語の文字すら浮かべることなく英語を聞いている。ただ、こんなことをし続けていると体に相当響くので、夜中のブログは早く辞めたいが今はそうするわけにいかないほどこのことは私にとっても肝心なことである。あまり馬鹿正直にしているとかえってご迷惑をおかけすることになるかもしれない。今回は結果が良かったこともあり、訂正すことで済んだが、二度とこんな間違かどうかを確かめることなく早計に認めたり、語ることの無いように注意したい。すべては、自分に都合が悪いことでも隠さずに述べるという私の姿勢のなせる業で、申し訳なく思っています。夜もかなり更けてきたのでこの辺で勘弁願いたい。

 ここ2,3日私はTVにくぎ付けでした。英語どころではありません。侍ジャパンの方はあの強豪キューバが相手ということと、アメリカ大リーグの日本人選手が誰も出場しないということで、正直なところ真面な戦いはできないのではないかと思っていました。結果はご存知のように2戦全勝とあのキューバを一蹴しました。勿論、大リーグ組なしで、国内の若手選手が堂々と戦う様には本当に感動し、勇気とエネルギーを貰いました。また日本の将来についてもこうした若者の手に十分ゆだねることができると確信致しました。日本の若者よ、明日の日本をよろしく頼む。そんな気持ちになりました。目を転ずると、永田町は、解散、総選挙一色。まるでこれから戦争でも始まるように、決選とか頑張るとか威勢のいい言葉が飛び交っています。一体彼らは誰のために戦うのか。この国を前進させ、国民一人一人の生活と幸せを安定向上させるためにどんな策を国民に訴えようとするのか一向に見えてこない。やはり国民生活を第一にすると言いながら、目の前の利権に血眼になって群がり取り合いをすることで終わるのではないか。選挙は、利権の分捕り合戦に過ぎないとしか見ていない議員はこの際潔く引いていただきたい。若くても理想に燃えアイデアに富んだこの国の将来に希望を持たせてくれる方々にこの国の未来を託したい。特に、中国とは尖閣諸島、韓国とは竹島の領土権を巡って、対立も激しくなっている中、戦前に立ち返って一戦も辞さないと息巻く強硬で強引な圧力主義の政治家や政治姿勢は断固お断りする。


 さて、森光子さんの方だが、特別番組が放映されその人柄の優しさがにじみ出ている素晴らしい女優さんであることが分かった。私は、いつの頃かわからないが、あの放浪記の前からその名前は知っていたし、フアンの一人でもあった。この放送を通して今の芸能人が彼女に励まされ、勇気づけられ努力を重ね今日に至っているかその陰の力と働きを知っていまさらながら一人の人の偉大さを感じさせられている。2000回以上の放浪記の出演回数も驚異的だが、私には、彼女が歌手として戦地の兵士たちを慰問した体験の中で味わった若い兵士を死が待つ戦場に送る時に遭遇し経験した様々な苦悩に触れて、これまで聞かされてきたような歓呼の声で送るような光景とは別に失われゆくその命をいとおしく思うような深い悲しみをあの戦争の中で感じていた人もいたということを知りました。一見、いつも明るく振る舞ってそんな気配を全く見せなかった女性、時には冗談やだじゃれを言っては人を笑わせていたこの人のひょうきんなふるまいの陰にはあの戦争をめぐるその何倍もの悲しみと苦悩があったということです。この人は本当に平和を求めてきた人であることをつくづく知らされました。それに比べれば私は75才のはなたれ小僧、92才のこの女優さんとは17歳も違います。わたしよりも17年も前からあの戦前、戦中の暗黒ともいえる時代を生き抜いてきた彼女には敬服以外の何物もありません。日本女性の鏡であり誇りでもあります。そのように感じて特別番組を見てまいりました。選挙に浮かれ騒いでいる代議士先生には、いささかなりともこの女性の味わった苦悩を顧み、再び隣国との戦争や抗争を賛美するような言動は慎んでもらいたい。誰のための政治かを熟慮し、熟考し、特定の人のための政治ではなく本当に平和に役立つ政治を心がけてほしい。異を唱えることや、一国だけの利益を求めることだけが政治ではなかろう。今この重大な時期にこのような女性の存在を知り、自分がかなり以前からこの女優に惹かれていたことを誇りに思っています。