ヤスユキブログ -27ページ目

喫煙事情

僕は普段煙草は吸わない。
なので煙草の煙というのは大の苦手であり、可能な限り避けて生活したいと思っている。

最近では分煙化も進み、煙を浴びる機会もだいぶ減ってきた。

たが、お酒を提供しているお店に関して言えば、まだまだ灰皿の置いてある所は多い。

酒と煙草はセットであり、それを切り離してしまうと客足が遠退くからだろう。

僕はそんな店に一人で晩御飯を食べに行くことがある。
酒は飲まずに定食屋の感覚として利用している。
そこで頼む料理が美味しくて、足繁く通っているのだが、お一人様なので当然カウンター。

後から来た客に両隣から挟み撃ちにされることも多々ある。

苦痛なのが、その両人が喫煙者だった場合である。

煙草とライターを手に持ちながら、酷いときは火を付ける直前に“煙草吸ってもいいですか?”と聞いてくる。

それは是か非を問うものではなく、ただの義務的な確認作業に過ぎない。
ドアをノックした瞬間に開けるのとよく似ている。
こちらの意思を完全に無視。

当然嫌だと言えずに煙にまみれてしまうのである。

残念なのが、刺身を注文している時。

喫煙吐息が刺身をすっぽりと雲のように覆ってしまう。

これは萎える。

昔“美味しんぼ”という漫画の中で、煙草を吸った手で調理した刺身を出した板前が、海原雄山に見抜かれ追放されるという話があったのを思い出す。

僕は彼ほど鋭敏な舌は持ち合わせていないので、味の劣化まではよくわからない。
が、やはり目で見てしまうとダメ。食欲無くします。

他人の痛みは自分には分からないもの。

だからこそ喫煙者はもっと神経質なまでに周囲に気を配るべき。

せめて人が刺身を食べている時ぐらいは。

余命

人生の折り返しを過ぎると、あと自分はどれだけ生きられるのか。やり残したことはないか。
など、焦りにも似た感情が涌いてくる。

感覚的に自分の選手生命ももう折り返しは過ぎている。
肉体的なピークはまだ先だと思っているが、以前と比べて一日一秒に対する意識が強く重たくなった。
考えすぎて心を乱してしまうことすらある。

生まれたての赤ん坊にあと余命80年などと誰が考えるだろうか。
デビュー当時は何も感じない。漠然とした希望の雲に包まれている。

たが月日が経つと雲が晴れ、見えてくる。
自分の実力、伸びしろ、そして余命。

その現実に抗いたい。
抗って抗って新たな自分を手にしたい。

明日じゃ駄目。
今の今。

刻々と時計の砂は落ちているのだから。

強くなりたい症候群にかかるとほんとに大変です。
それ以外の全てを排除してしまわん勢いです。
でも、何でそんなに強くなりたいの?と問われてしまうと何も返す言葉がありません。

理由なんて何もない。
病気なのです。


新年

一発目からいい映画を観ました。

ロバート デ ニーロ 、ロビン ウィリアムズ主演の“レナードの朝”という20年以上も前の映画。

原因不明の脳神経症患者レナード(デニーロ)と医師であるセイヤー(ロビン)の、治療に対する苦悩を描いたものだが、この話はノンフィクションでとても切ない。

セイヤーの投与した薬物によって自分の意思を取り戻したレナード。30年振りに目覚めた彼だったが、それも束の間しばらくすると薬の副作用があらわれる。

レナードはその間にある女性に恋をしてしまう。
自分と同じ病気に苦しむ彼女の父親が同じ病院に入院しているのだった。

薬を投与している間は彼女の前で平静を保てるのだが、だんだん耐性が出来てしまい、効力が薄れてゆく。

彼女の前で惨めな姿をさらしたくない。
壊れゆく自分との葛藤。
彼は完全に壊れて自分がわからなくなってしまう前に、彼女に別れを告げる。

ここで思わず泣けてしまった。

そんなレナードを彼女は優しく抱き締めるのだった。

結局症状は元の状態に戻ってしまい、意思のない植物状態に。

セイヤー医師は“彼に残酷なことをしてしまっただけなのでは…”
と自分を責める。

結末は切なくてやりきれない映画だったが、観れて良かった。

僕は昔から、幸福の定義は“健康であること”が全てだと思っているので、この映画はそれを改めて考えさせてくれるものだった。

何もいらない。何者にもならなくていい。だが、欲がそれを邪魔する。

今ある幸せに何度でも何度でも感謝しないと。