評論「いまモリッシーを聴くということ」は思いのほか楽しめた。というのはザ・スミスは好きでよく聴くが、モリッシーのソロは今まで聴いたことがなかったし、まして歌詞に思い入れはなかったからだ。

ザ・スミスは90年代海外ドラマのオープニングに結構使われているし、いつも身近に曲がある印象があるが、さすがに2018年現在は、そうした機会もないし日本では、同時代フォロワーもほとんどいないようなのである種の感傷の気持ちもあって手に取ったが、「左と右、上と下、グローバリズムとナショナリズム。いろんな軸が交差し、いったい誰がどっち側の人間なのやら、英国のカオスをモリッシーは12年前に予告していた」とあり、なるほどな、と思う。

 モリッシーは当時から文学的な、きわめて陶酔的な歌詞を書く人との認識があった。ただここまで政治のことを際どく風刺した歌詞であるとは、当時はわからなかった。

 あらためてザ・スミスを聴き直すと、言葉の弾丸というか、英語に疎い私ですら「え?今のなに?」と思わず聞き返したくなることがある。詳しくは上記評論に興味ある方は読んでもらいたいが、その事実は結構衝撃的だ。それで「この感覚は、どこかで感じたよな。。。」ということでCDを漁っているとトレイシー・チャップマンにたどり着いた。

 トレイシー・チャップマンはデビューCD「tracy chapman」で1988年デビューし、瞬く間にその年のグラミー賞を受賞した。アフリカ系アメリカ人で、フォークギター引き語りで、テリー・キャリアーの後継のように社会問題を扱った歌詞を歌った。昔から彼女の声が好きだった。「fast car」という曲が日本でもヒットした。なぜか4月はモリッシーとこの曲ばかり聴いていた。日本人で矢井田瞳がカバーしている。

You got a fast car

We go cruising, entertain ourselves

You still ain't got a job

And I work in a market as a checkout girl

I know things will get better

You'll find work and I'll get promoted

We'll move out of the shelter

Buy a bigger house and live in the suburbs

You got a fast car

Is it fast enough so we can fly away?

You gotta make a decision

Leave tonight or live and die this way 

 

 

 この曲でうたわれるテーマは、絵に描いたような貧困だ。この曲は若い女性のストーリーである。彼女の交際相手は、スピードの出る車を買った。父はアルコール依存で、飲んだくれてばかりで働かない。母は別の人生を求めてそんな夫と娘を棄てた。彼女は学校を辞めてコンビニで働き、父の世話をしている。彼女はこの町を出さえすれば、新しい人生が開けるのではないかと思い、彼のクルマで町を出ようとを提案する。

 そして二人は逃げるように町を出て、シェルターに流れつく。いつか郊外に大きな家を買うことを夢見て、彼女はスーパーのレジの仕事につく。彼はまだ職がない。

曲の後半は、そんな二人の顛末が綴られる。

 二人は結婚して子どもをもうけたが、夫はいっこうに仕事に就かず、友達と飲み歩いて子どもの世話もあまりしない。生計を支えるために働くのは彼女ばかりで、彼女はもう、どこか他所へ行ったら今より生活がよくなるとは思わなくなった。

 そして彼女は彼にこう言う。

「あなた決断して。今夜ここを出るか、この町の中でこうやって生きて死ぬのか」

 曲の前半ではWe だった主語がここではYouになり、彼女は暗に彼に出て行くことを迫る。

 前半でささやかな貯金とありったけ勇気を振り絞り、彼と幸せを築く希望を持って息苦しい貧困の町を脱出した彼女は、行きついた先で全く同じ円環に陥る。

 この曲の魅力はなんだろう。誰もが人生で直面する「自立」「自然に好きになる感情」が「車のスピード」「恋のスピード」に乗って歌われて、やがて生活が行き詰まって。。。という共感できるオーディナリー・ストーリーだから、だろうか?「ああ、自分たちもかつてそうだったな」と考えることができる、ノスタルジーだろうか?

 この年彼女はネルソン・マンデラの釈放を記念するコンサートに出演する。アパルトヘイトからの解放を訴え何度も投獄されながらネルソン・マンデラは何を思い、日々過ごしていたのだろう。彼の「動機」はなんだったのか?

 

 春になり、日差しも爽やかだけれど何とはなしに心は晴れない。何が原因だろうか、と考える。例えば。。。仕事のこととか、生活のこととか、人付き合いのこととか、体調とか。一概にはまとまらないけれど一つの仮説としては何か生活以外のソーシャルなことへの「連帯」がここのところ希薄で、おそらくそれを渇望している、が挙げられる。

 それは年取ったということかもしれないけれど、まだ若くて、「演劇公演」を連続で打っていた頃の経済的にも人間関係的にも困窮しながらも、「満たされていた」社会との繋がり、のようなものを、再びまた欲しているということなのかもしれない。とそんな気持ちになったのは久々に映画「汚れた血」を観たせいもある。

 「汚れた血」は30年前のフランス映画で、監督はレオス・カラックス。カラックスは正統派ゴダールの後継者と目され、当時は大スター監督だった。どちらかというと「ポンヌフの恋人」で有名だが、私は圧倒的に前作「汚れた血」が好きだ。その理由は、こだわり抜いた色彩美もさることながら(高感度フィルムをわざと低感度にセットし、それを減感現像することで強烈な色彩を表現)、疾走感のある映像、音楽で一気に観せてくれる。何より犯罪者や何か、世間のアウトサイダーたち演じる「愛と死の」物語であるところが、たまらない魅力だ。しかしこの映画の一番の見所は女優たち・・・ジュリエット・ピノシュ、ジュリー・デルピーだろう。

特にジュリー・デルピーの存在が素晴らしいと今にして思う。スリムな肢体は妖精のようだし、役柄のアレックスの恋人であり不良。といういかにもカラックス的な登場人物を見事に演じている。たぶん彼女の演技がこの映画で一番ではないだろうか? カラックスが当時目論んでいたであろう世間への挑発や、映像作家としての挑戦や、社会の中で自己を見つめ、より自己を高めていくため映画製作諸々が、映画の中で非常に緊密に交歓できているように思う。

  モリッシーも、トレイシー・チャップマンも、カラックスも「動機」みたいなものは同じだった。それは世間の中で、自分の存在が否定されそうなくらいの激しい風から、「自分はこう考える!」という声を上げることで、世界にしがみつこうとした「行為」が歌であり、映画だった。なぜならそれが彼らの「存在理由」であり、世界と繋がるための唯一の方法だったからだ。

 しかしながらモリッシーではないけれど「もうあの旧きよき夢にしがみつくことはできないんだ」ということで、何かを始めたい、出発したいモヤモヤが、心のアザーサイドで湧き上がっているのかもしれない。例えば社会貢献を目的としたNPO活動への支援とか、専門知識を持った若年層の就職支援とか「寄付行為」以外で自分にもできることがあればはじめてみたいなと思う。ネクスト・ソサイエティではないにせよ。で、心の渇望には「神秘的な体験をしてみたい」というのも横たわっている気がする。

 

 

書籍「いまモリッシーを聴くということ」

2017年/ブレイディみかこ 著 

 

映画『汚れた血』

1986年/フランス/ヴィスタ/2時間7分