悲しみは愛情のそばに | まもなく上映です Way Back In to Love

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宣伝、勧誘、友達作りや何らかの利益を得る目的でもなく、単に自分の記憶&雑想整理の為に書いてるだけなので、どちらかと言うと寄り道がメインの、わがまま気分屋ブログである事を御承知おき下さい。。

『群盲(ぐんもう)象を評す

………王の命により、盲人(もうじん)達が動物の象の元に連れて行かれた。

目の見えない彼らの中には、足を触(さわ)る者、尾を持つ者、或(ある)いはシッポの根元(ねもと)を持つ者がいたり、腹や脇腹、背や耳や頭、牙や鼻等々、人によって様々であった。

家臣(かしん)は王のもとに彼らを連れて帰った。

王は「象とはどういうものだ?」と聞いた。

足を触った者は「大王様、象とは立派な柱のようなものです」と答えた。

だが尾を持った者は箒(ほうき)のようだと答え、その他、どこを触ったかでそれぞれの回答はマチマチだった。

「杖(つえ)のようでございます。」
「太鼓(たいこ)のようでございます。」
「壁のようでございます。」
「背の高い机のようでございます。」
「団扇(うちわ)のようでございます。」
「大きなかたまりのようでございます。」
「角(つの)のようなものでございます。」
「太い綱(つな)のようなものでございます。」

そして彼らは、王の前で「大王様、私が言っているものが本当の象です」と言い争いを始めるのだった………


視野の狭(せま)い者が多く集まり、各々(おのおの)の観点から理解したことが真実だと述(の)べ、結果として物事の本質や全体像が見失われている状態を喩(たと)えたものだが、近年では、人によっては"視覚障害者に対する差別的意味合い"として受け取られかねないという事で、使う事自体が避(さ)けられる傾向にある諺(ことわざ)だ。

政治・経済・外交・安保、科学、歴史、宗教、哲学、社会時事問題、芸能等々、果ては地域や個人レベルに至るまで、我々は群盲(ぐんもう)となりがちである。

主義や主張、支持や賛同、批判やアジテーションのあるところには、どの立場であっても必ず《視野の限界》がある。

人間の脳というものは物事や現象に対して何らかの法則や結論を無理矢理にでも早く見出(みい)だそうとする傾向があり、そこに我々の思考や判断の盲点がある。

脳は瞬時に複雑な現象や構造を認識する事が出来ない。

情報を削(そ)ぎ落とし、シンプルに理解・納得することで、脳は情報を認識しやすくなり、心地良いと感じるのだ。そこには、過去の記憶や概念(がいねん)のフィルターから情報を認知しようとする働きが作用している事を忘れてはならない。

大人と子供との脳の柔軟性(じゅうなんせい)の違いは"概念(がいねん)"である。

子供の頃は「概念」という思考が弱く、つまりは柔軟性が高いと言える。

これには脳の中でターミナル駅のような働きをしている「線条体」の活動に関係があるとされている。
子供では、この線条体が活発に働くので、柔軟な思考が出来、逆に大人の場合は概念が強いので、この線条体の働きが鈍(にぶ)くなるというわけだ。



生きる意欲を作るホルモンであるドーパミンのような《神経伝達物質》は、行き先がなければなにもしない。

神経伝達物質とそれが働きかける受容体(じゅようたい/細胞表面や内部に存在し、特定の刺激効果を持つ分子と結合する蛋白(タンパク)物質…)は、鍵(かぎ)と鍵穴(かぎあな)のように特別な関係にある。

そして脳の中でドーパミン受容体が集中している場所であり、感覚や情動、あるいは認知機能に関する情報など、運動の発現に影響を与える様々な情報をインプットするための入り口として機能しているのが「線条体」なのである。

・・・

やる気が全(まった)く起こらず、いくら休んでも元に戻らない状態は、場合によっては「やる気低下病」と診断される事がある。

「やる気」が出ないのは、この「線条体」が反応しなくなっている事が原因であるケースも多い。

「やる気低下」を軽くみてると《隠(かく)れ脳梗塞(のうこうそく)》につながる恐れもあるので、心身のサインには注意するに越したことはない………まあ、あまり神経質になるのも問題だが。

線条体を鍛錬(たんれん)するには、眼球運動や指先の運動、それにタイムゲーム、つまり5秒や10秒間の時間経過を当てるなどの刺激が効果的で、それによって活性化は年齢に関係なく可能である。
ただし、活性化はあくまでも一時的なもので、脳の構造そのものが変化するわけではないということは理解しておいてもらいたい。

線条体の活動が鈍(にぶ)り、生きていく上で壁にぶつかり、悶々(もんもん)としている者は過去の記憶や固定概念、固定観念ばかりに囚(とら)われてしまい、安易(あんい)なレッテル貼りや決めウチに勤(いそ)しんで他者を攻撃する事に走り勝ち(というか逃げ道)だが、そこに自由への扉はなく、まるで、鎖(くさり)に繋(つな)がれたまま暴れている象のようなものである。

*****

ところでサーカスのゾウ使いは調教の初めの段階で、ある一定の期間、ゾウを鎖に繋ぐそうだ。仮に、その鎖の長さが10メートルとすると、ゾウの行動範囲は半径10メートルに限られてくる。

そして、その期間が過ぎ、鎖を外(はず)してもゾウは半径10メートル以上の行動をしなくなる。

自分の中で“それ以上は行けない”という固定概念を作ってしまうからである。


🎬🎬🎬……………

『………今朝(けさ)、どの靴を履(は)いて行けばいいのか、私には分からなくなっていた………。』

不動産会社の営業として働く薫(かおる/ミムラ)。ある日、フッと気持ちの糸が途切れ、有給休暇を取って行きつけの釣り堀に行く。



そして馴染(なじ)みの店長(寺田農)から店番を頼まれ、そこにいた小学四年生の女の子の釣針にエサを付けるのを手伝う事に。

その子は、兄と自転車でやって来たという………《私は小学校四年生の夏休みにやっと自転車に乗れるようになった》と、薫は自身の四年生の刺激的な夏休みを回想する………


【↑映画『サイドカーに犬』……根岸吉太郎(ねぎし きちたろう)監督作品(代表作:遠雷,探偵物語,雪に願うこと)/2007年6月23日公開/94分/製作:ビーワイルド,スターダストピクチャーズ,読売広告社,ポニーキャニオン,Yahoo! JAPAN,トゥモロゥー,ビターズ・エンド,ムスタッシュ/配給:ビターズ・エンド/キネマ旬報ベストテン日本映画第6位&最優秀主演女優賞(竹内結子),日本映画批評家大賞最優秀主演女優賞(〃)】

🎬🎬🎬………「あんた、無理に結婚しなくてもいいからね。そのかわり、手に職をつけなさい。もう大きいんだから言ってる意味、分かるでしょ………(ハァ~ッ!とため息)……結局、いつも悪いのはお母さん!」

明日から夏休みという日………念入りに、そして神経質にキッチン周(まわ)りを掃除しながら母(鈴木砂羽)は小学4年の娘・薫(子役/松本花奈)に言う。

勝手に会社を辞めて、収入の当てのない怪しげな中古車販売業を始めた夫(古田新太)に愛想をつかした母。

………その後、母は家を出た。

映画『サイドカーに犬は、芥川賞作家・長嶋 有(ながしま ゆう)のデビュー作で、第92回文學界新人賞を受賞した小説を映像化したものであり、内気で甘え下手(ベタ)な少女と、母親が家出した家庭に突如入り込んできた大雑把(おおざっぱ)で豪快で自由な精神にあふれた"父の愛人"との、尊敬と憧れと友情の混在した不思議な交流を描いた作品だ。



………「オッス!」

ドイツ製のロードバイクに乗って、その女性………ヨーコさん(竹内結子)はやって来た。

今日から食事の世話をしてくれるそうだ。

不安と混乱と少しの興味の入り交じった表情の薫………《この人は誰なんだろう?》。



二人は食材を買いにスーパーに行く。

<ヨーコ>「お菓子、何がいい?」
<薫>「麦チョコ。」

躾(しつけ)に厳しい母と違い、ヨーコさんは麦チョコを何袋もカゴに入れる。

薫は何だか状況は掴(つか)めないけれど、表情が自然に綻(ほころ)んでいた。

その夜の夕食後、薫がいつものように小さなガラス容器を持って麦チョコを入れてもらおうとすると、ヨーコさんは構わずカレーの大皿に袋を開けて中身をドバッと出し、「ほれ、餌(えさ)だ。」と差し出した。

薫は喜びながらも弟の透(とおる/谷山毅)に不安を確認した。

<薫>「カレーのお皿に麦チョコよそったら、お母さん、怒るよね。」

その翌日………

<薫>「あの人、また来るのかな。ヨーコさん………お母さん、もう帰って来ないのかな。」
<透>「オレ、あの人でもいいよ。麦チョコ買ってくれるなら。」

そして………自動販売機の釣り銭口に手を入れてお金がないかを探っていた薫の元に、ヨーコさんが再びやって来た。



<ヨーコ>「コーラ飲む?」
<薫>「歯が溶けるって。」
<ヨーコ>「私も中学生ん時、言われた。
じゃあさ、石油はあと何年でなくなると教わった?」
<薫>「30年!」
<ヨーコ>「私も30年って教わった。アレ、変だね。
飲んでごらんよ、どんな味がするか。」

*****

自転車に乗れない薫は、公園でヨーコさんに乗り方を教わった。
錆(さ)び付いていた薫の自転車を、ヨーコさんは綺麗に整備してくれていたのだ。

<ヨーコ>「自転車乗れるようになると世界が変わるよ。」



自転車のサドルを盗(と)られた事のあるヨーコさんが、隣の自転車のサドルを自分のモノに取り付けたと以前に話していた事が気になっていた薫は、ヨーコさんに「(ヨーコさんがサドルを盗った)その盗られた人はどうしたの?」と尋(たず)ねる。

<ヨーコ>「そっか………そういうことが気になるんだ~~そういう時、薫だったらどうするの?」

無言の薫………。

<ヨーコ>「"人は正直であろうとすると無口になる"って何かで読んだ。でもそういう人はなかなかいないし、私もなれない………だから尊敬する、薫のこと。」

コーラを飲んでいた二人は、ゲップを出しながら和(なご)やかに笑い合った。

ヨーコさんの左側に座っていた薫は、心地よい空気を感じ取っていた………。

*****

近くにあるという「百恵(山口百恵)ちゃんの家を探しに行こう」というヨーコさんの提案で、夜の探検を二人でする薫。

<ヨーコ>「誰かを手下に置いて言うことをきかせるのと、誰かの言うことをきいて、おとなしくしてるのとーーどっちが性(しょう)に合ってる?」

答えに困った薫は、前にサイドカーに犬が乗っているのを見た話をした。

家族で旅行に行った時に見た、サイドカーに乗っていた犬の様になりたいと言う。

飼い主が運転してくれている左側のサイドカーに堂々と座り、すこしも動かず、優雅にすら見える犬。

猛スピードでも安心して旅が出来るサイドカーの犬。

そんなサイドカーに乗った犬になりたいと思ったのだ。



<ヨーコ>「薫はいつも人の左側にいようとするね。私も昔はそうだった………でも、大人になったらどーでも良くなった。」

夜の道に迷った二人………ヨーコさんは薫の父に電話をかける。

迎えに来たのはサイドカー付きバイクに乗った父だった。

サイドカーに乗った薫は、満面の笑みと、どこか得意げな表情をヨーコさんに見せていた。

薫の父・誠は揉(も)め事を好まない。
自分のせいで誰かが争う事を嫌う。
子供にもやかましい事は言わない。
しかし、子供だからとバカにもせず、対等に話をする。
几帳面(きちょうめん)な母親とはまるで正反対だ。

*****

ヨーコさんは吉村という男(椎名桔平)と喫茶店で会う。誠との縁を切らせる為だ。

彼は誠の仕事仲間で悪友であり、どうやらヤバい橋を渡っているようなのだ………二人が会った事を知った誠は、もう食事の世話に来なくても良いとヨーコさんに告げる。

<ヨーコ>「薫は、一度もおねだりをした事はないの?」
<薫>「前に一度だけ猫(捨て猫)を飼いたいって、お願いした事がある~~飼えたけど、スグいなくなっちゃった………たぶん、お母さんがこっそり遠くへ捨てたんだと思う。」

涙を乾(かわ)いた笑いでごまかそうとするヨーコさん………

<薫>「もう、ここへは来ないの?」
<ヨーコ>「分かんない、私も………でも、来なくていいって言われたら、もう来ちゃいけないんだろうね。」



………誠からの手切れ金とも受け取れる金を持ったヨーコさんは"大人の夏休み"だと言い、薫も誘われ、二人で伊豆に行く。

旅館はどこも満杯で、地元の干物(ひもの)屋に泊めてもらう事に。

そこで干物屋の婆さん(樹木希林)に図星をさされる。

「あんた、男がいるね。この子、その男の子供だ。あんた、惚(ほ)れちゃいけない男に惚れて、にっちもさっちもいかなくなって、ついその子を連れ出しちまったんだよ。男の気を引くためだよ………」

部屋に戻った二人の間に流れる微妙な空気………

<薫>「さっきのヨーコさん、私の知らない人みたいだった………。」
<ヨーコ>「そういう私は見たくない?」
<薫>「自分がどうしていいか、分かんなくなる。



やがて二人は東京に戻り、そこにタイミング悪く、薫の母が戻ってきた。

ヨーコさんと鉢合わせをする母。

<母>「人様の家に上がり込んで何様のつもり?謝りなさいよ!」
<ヨーコさん>「許すつもりのない人に謝っても仕方ないの。」

母からの平手打ちに始まり、二人は掴(つか)み合いのケンカをする。が、母は頭を打って気絶してしまった。

家を出るヨーコさん。それを追う薫。

<ヨーコさん>「私、薫の事、好きだよ。お友達になれて良かったと思ってる。」

*****

やがて離婚が決まり、薫は山形にある母の実家に引き取られる事になった。

薫は父に体当たりをする。

「ワンワン!ワンワン!」

サイドカーに乗って、安心できる心地よい場にいる優雅な犬でありたかった。

だが、不安と混乱とさびしさしかない今の自分………

娘の心の叫びを、父は黙って受け入れるしかなく、かろうじて小さな声で応(こた)えるのみだった。

「………ワン。」

………小学四年の薫の夏休みは、こうして終わった。



………大人になった現在の薫は、遠い日のヨーコさんの逞(たくま)しい姿を思い出していた。

<ヨーコ>『私の脚かたいよ。触ってみる?』
<薫>『………ほんとだ。』
<ヨーコ>『毎日乗ってるからね、自転車。』

さっぱりとした表情になった薫は、心の中で呟(つぶや)いていた。

《私も毎日、乗ってるよ。》

……………🎬🎬🎬🎬🎬



映画では母の家出、愛人の存在、大人の修羅場(しゅらば)、親の離婚等々、子供にとっては辛(つら)いことばかりだ。

子供には大人たちの複雑な事情は分からない。
不穏(ふおん)な空気は感じとる事は出来るが、彼らはただ、立ち尽(つ)くすしかない。

子供にとって安心できる場所は、愛情のあるところだ。それは大人でもそうだろう。

だが、現実の世の中は愛情を欲(ほっ)するところに悲しみは必ず存在する………まるで、バイクと連結するサイドカーのように。

………人間は愛情を持てるし、悲しみも生む。

作品中、争いを好まない薫の父が「兄弟仲良く、みんな仲良く。」と言うセリフがあるが、それは誰にとっても理想であるはずなのに実際はそうはならない事が多い。

世の中は分からない事だらけだ。

自分がどうしていいか、分かんなくなる。

だからこそ薫はサイドカーという安心できる場所がほしくなる。

薫が素性の分からないヨーコさんに親しみを感じたのは、子供の自分に対して対等に接し、未知なる広い世界との付き合いかたを教えてくれたからだ。

大人の教える事は絶対的なものではない。

既成(きせい)概念に囚われることなく、自由に物事を見て、自由に考えれば良い。

自分に巻き付いた見えない鎖を取り除けば、分からない事だらけの世の中との付き合いかたも変わってくる。人一倍内気な薫に、ヨーコさんの言動は荒っぽいけれど、色んな事を教えてくれる。

大人ほどには概念が強くない薫にとって、それは怖くもあり、魅力的にも映(うつ)ったであろう。

象を象として捉(とら)える事の出来る自由な眼………

その時こそ、サイドカーは不要になるのかも知れない。


《余記》………………

☆薫の子供時代を演じる松本花奈がスゴい。
演技をしているという感じもなく、本当にそういう境遇(きょうぐう)にいる子供がそこにいると思わせてくれて、観ている側が自然に感情移入が出来る。

☆対して大人の薫を演じるミムラは作品の性質上、目立たない存在ではあるが、内面にドラマを持つ表現が出来る数少ない女優であり、刺激的な子供時代を経(へ)た大人の姿として納得させる好演をしていると思った。