アッサラーム・アライクム | まもなく上映です Way Back In to Love

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宣伝、勧誘、友達作りや何らかの利益を得る目的でもなく、単に自分の記憶&雑想整理の為に書いてるだけなので、どちらかと言うと寄り道がメインの、わがまま気分屋ブログである事を御承知おき下さい。。

★★★………ムスタファ・アッカド監督作品……
アンソニー・クイン、イレーネ・パパス、ジョニー・セッカ出演の1976年公開のモロッコ・クウェート・リビア・サウジアラビア・米国合作映画を紹介する。



この三時間に及ぶ大作映画『ザ・メッセージ』は、イスラム教の開祖・ムハンマド(…ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフ・イブン=アブドゥルムッタリブ/570年頃~632年/西欧表記ではマホメット…)を主人公とする映画という意味では、相当に希少な位置に存在する作品だ。

製作・監督のムスタファ・アッカドは他にも、20世紀初頭のイタリア・ムッソリーニ政権のリビア占領政策(リビア…東にエジプト、南東にスーダン、南にチャドとニジェール、西にアルジェリア、北西にチュニジアと国境を接し、北は地中海に面した北アフリカに位置する国…)に敢然(かんぜん)と立ち向かったリビアの国民的英雄・オマル・ムフタールの生涯を描いた1981年のアンソニー・クイン主演の名作『砂漠のライオン(リビア・アメリカ合作/日本公開版163分)』でも製作・監督をしており、また、2002年には人気ホラー映画シリーズ『ハロウィン』2本の製作総指揮をしている……余談だが、『砂漠のライオン』は、イタリアでは上映禁止となっている。

撮影は「トパーズ(アルフレッド・ヒッチコック監督作品/1969)」のジャック・ヒルドヤード、音楽はモーリス・ジャール(史上最大の作戦,アラビアのロレンス,ドクトルジバゴ,パリは燃えているか,ライアンの娘,ゴースト~ニユーヨークの幻)が担当している……『ザ・メッセージ』では、第50回アカデミー作曲賞にノミネートされている(…因<ちな>みに受賞したのは「スターウォーズ」のジョン・ウィリアムス)。

日本においての配給は日本ヘラルド映画で、英語版が公開された。尚(なお)、アラビア語版も勿論(もちろん)あるが、これには西欧スターの出演場面はカットされている。
DVDも2001年、2004年、2005年に各々パラマウントから発売された。

イスラム教は正式には『イスラーム』。これは「神への帰依(きえ)」を意味すると解釈されている。

周知の通り、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教は宗派は違えど、同じ神を信仰する謂(い)わば兄弟のようなものである。

教典にしても、ユダヤ教は旧約聖書だが、キリスト教はそれに新訳聖書が加わり、イスラム教には更に【コーラン(クルアーン)】が加わる。

イスラム教においては聖書に登場する聖人は皆、尊敬され、イエスも偉大なる預言者として認められている。但(ただ)し、最後の預言者は開祖・ムハンマドであるという結論ありきではあるが。

しかし、ここで注意しなければならないのは、イスラム教徒にとって、開祖・ムハンマドは偉大なる最後の預言者ではあるが、彼は決して神でも神の子でも天使でもない。他のイスラム教徒と同じ普通の人間であるという扱いだ。ここがキリスト教におけるイエスの扱い方と決定的に違う。

因みに【ヤハウェ】とは旧約聖書における唯一神の名ではあるが、神の名を示すヘブライ文字を欧文表記すると『YHWH 』の4文字となり、そこから推測される発音については『ヤハウェ』以外にも諸説ある。
古代ヘブライ語には母音が無かったと一部では誤解もあるようだが、正確には母音記号が無かったという事。但し、神の名をエホバと発音するのは、今では余り信用されていない。

【ヤハウェ】は旧約聖書における唯一神の名ではあるが、神の名は人間の姓名のような意味ではなく、どこまでも民と共にいるという神の本質を意味するのだそうだ。
日本語訳聖書では一般的に、原文において【ヤハウェ】とある箇所については【主】と訳している。

聞いた事のある方も多いと思うが、イスラム教で言うアラー(アッラー)とは神の御名(みな)・固有名詞ではなく、一般名詞としての神を表すアラビア語である。

イスラム教においては【神はただ一つのみの存在】であるから、一々神の御名を言わずとも、『神様』と言えば何を指(さ)しているのかは信者達には直(す)ぐに分かるという事であり、だから一般名詞の『神』で十分なのだ。
したがって、昔の映画の吹き替えや漫画等でよく使われていた台詞(セリフ)『アラーの神よ!』というのは【神の神よ!】と言ってるようなものである。

キリスト教の普遍性(ふへんせい)については端的(たんてき)に言うと『』、つまり無償(むしょう)の愛(アガペー)だが、イスラムの普遍性は『平等』である。
イスラムは皮膚の色、民族、国家、言語、血筋、出自(しゅつじ)、身分などで人間の優劣をつける事は無いので、皆が兄弟のように一列に並んで礼拝をする。

礼拝で、必ず人々が横一列に並んでお祈りをするのは、イスラムの教えである神の前での「平等」の精神に則したもので、人間と神とを隔(へだ)てる障害物となる聖職者もいなければ神殿も無い。

因(ちな)みに、知識を持つ者を表すアラビア語「アーリム」の複数形である【ウラマーと呼ばれる法学者はいるが、ウラマーは他の宗教の聖職者のように一般信者よりも神に近い存在という事ではない。

ムスリム=神に帰依(きえ)する者…つまり、イスラム教徒になれば誰もが公平なるイスラム共同体の一員なのである。

イスラム教の本来の実用的な意味合いとしては、ムスリム達が貧困や攻撃の受難を適正に治(なお)す、正に公正・公平な社会を創(つく)る責務を担(にな)う事にあった。

彼らの聖典であるコーラン初期の道徳上のメッセージは、善行と分かち合いを強く説いている。

ところで、【アジア】という名称は本来、ローマ時代における現在の小アジア(アナトリア)西部の属州を指す名前であり、北を黒海、西をエーゲ海、南を地中海にはさまれ、東にアルメニア、メソポタミア、シリア地方につながる地域を指し、ほぼ現在のトルコ共和国のアジア側の半島部にあたるのが所謂(いわゆる)小アジアなのだが……それが次第に、ヨーロッパに対しての東方世界全体を意味するようになった。

その小アジアであるアナトリアの片隅に生まれた小君侯国(しょうくんこうこく)から発展したイスラム王朝が、かの『オスマン大帝国』(1299年~1922年)である。

オスマン朝は、やがて東ローマ帝国などの東ヨーロッパキリスト教諸国、マムルーク朝などの西アジア・北アフリカのイスラム教諸国を征服して地中海世界の半分以上を覆(おお)い尽(つ)くす世界帝国へと発展してゆくのだが、17世紀に入ると衰退(すいたい)の道を辿(たど)っていった……。


(↑オスマン朝最大支配地域)

14世紀から16世紀にかけてのオスマン朝時代、余分な富の社会への還元(かんげん)というイスラムの理念のもとに、社会の余剰(よじょう)資金は経済活動より、どちらかというと社会資本の方へと向かった。
その受け皿となったのがアラビア語で「止める」という意味を持つワクフと呼ばれるものである。ワクフとは、現代のNGO、NPOのルーツのような組織で、集めた寄付金で病院や学校など、社会的弱者の為の公共性の高い施設を作っていった。


………意外に知らない方も多いようなので、敢(あ)えて簡単に説明すると、NGOとは【Non Governmental Organization…(非政府組織)】の略。
NPOは【Non Profit Organization…(非営利組織)】の略。
NGOは政府か非政府かという対比で、NPOは営利か非営利かという対比で使われる用語である。

地球的規模の課題(開発・環境・人権・平和など)を解決するために 非政府かつ非営利の立場で活動している団体を指している……その実態には色々と問題のある組織も一部あるようだが………


………オスマン朝時代以外にも、イスラム社会の文明度は、西洋文明よりも遥(はる)かに進んでいた時代があった。


(↑現存する世界最古のコーランの一つ/大英博物館蔵)

イスラム教徒にとっては神の言葉である聖典「コーラン」は絶えず、自己啓示としてイスラム教徒が世界を見ることを強く命じ、知力として神の「しるし」或いは「伝言」を判読する必要を常に力説しており、それらの根拠(こんきょ)が揺らぐ事は無いが、イスラム教徒はたくましい好奇心で世界を注意深く注目し、研鑽(けんさん)・理解・吸収をしようとした………それも彼らにとっては神の道なのである。

イスラム圏(けん)では既(すで)に研究が進んでいたユークリッド幾何学の体系や、アルキメデスも、プトレマイオスヒポクラテスガレノスの事も、西洋は12世紀まで知らなかった。


ユークリッド幾何学………ザックリとした言い方をすると、平面や歪(ゆが)みのない空間の図形の性質を探求する学問/点や線などの基礎的な概念に対する定義を与え、一連の公理を述べ、公理系を確立し、それらの上に500あまりの定理を証明するという現代数学に近い形式

アルキメデス………紀元前287年 ~紀元前212年/古代ギリシアの数学者、物理学者、技術者、発明家、天文学者。

プトレマイオス………83年頃~168年頃/古代ローマの天文学者、数学者、地理学者、占星術師/天体観測の方法や天体の軌道計算、太陽までの距離やその大きさといったあらゆる知識をひとつにまとめたことが天文学における彼の業績である。

ヒポクラテス………紀元前460年~紀元前370年/医学を宗教から切り離し、病気は神々の与えた罰などではなく、環境、食事や生活習慣によるものであると信じ、主張した最初の人物とされている。

ガレノス………129年頃~200年頃/ローマ帝国時代のギリシャの医学者。臨床医(りんしょうい)としての経験と多くの解剖(かいぼう)によって体系的な医学を確立し、古代における医学の集大成をなした人物。


………527年、ビザンチン皇帝ユスティニアヌス1世(…483年~565年/東ローマ帝国ユスティニアヌス王朝の第2代皇帝…)は、【キリスト教の脅威(きょうい)になる】として、嘗(かつ)て、プラトンが創設し、900年の伝統を誇(ほこ)るギリシャ哲学・科学の中心的存在であったアカデメイアを閉鎖してしまった。


プラトン………紀元前427年~紀元前347年/『ソクラテスの弁明』や『国家』等の著作で知られる、その思想は西洋哲学の主要な源流となった人物。また、古代ギリシアの哲学者であるソクラテスの弟子にして、アリストテレスの師でもある。

アカデメイア………古代ギリシアのアテナイ北西部郊外にあり、紀元前387年、プラトンがここに学園を開設したため、この地名「アカデメイア」がそのまま学園名として継承された。


(↑写真:プラトンが創設したアカデメイア跡地)

それ以降、ギリシャ医学・哲学・地学・天文学等はアラビア・イスラム文化圈に受け継がれる事になり、結果的にギリシャ科学の世界への伝達とその貢献(こうけん)はイスラム文化にあると言っても過言ではなく、その影響は中国仏教ひいては日本仏教にまで及(およ)んでいる………日本の仏教各宗派の開祖が説(と)いた科学的示唆(~しさ)は、明らかにイスラム学の受け売りが感じられる。

他の宗教や、自らの教義に相応(ふさわ)しくない学説や観察・研究結果などを全く認めないという排他的(はいたてき)体質をもっていたキリスト教と比べると、イスラムの寛容性(かんようせい)は外来の学問であっても正しい知識を求めることはムハンマドの教えから見ても全く問題は無く、寧(むし)ろ、イスラムに相応(ふさわ)しい行為とされていた。

そういう環境もあって、ムスリム=イスラム教徒達は競(きそ)って哲学・天文学・数学・医学を学び、吸収していったのである。

長年に渡ってヨーロッパ医学の教科書であり続けたイブン・スィーナ著『医学典範(てんぱん)』は、包括的な体系と理論を有し、それまでのキリスト教精神による修道院医学を遥(はる)かに凌駕(りょうが)していた。

イスラームの医学者、哲学者、詩人でもあったイブン・スィーナは、10世紀から11世紀にかけて活躍した人物だが、彼は、人間の身体のなかには、いろいろなものが存在するけれども、それらすべては一つにつながって機能していると考えていた。その思考背景には、イスラームの根本原理が働いていると思われる。

因みに、試験を受けて合格すれば医師免許を取得出来るというシステムを初めて導入したのもイスラム社会である。

………イスラームの根本思想である一化の原理(ダウヒード)は世界観と存在論、 すなわち価値観の根本であり、政教分離もしないし、物事を白か黒かだけの単純に分けて考えることもしない。

法律も単なる二分法ではなく、「どちらかというとしたほうがいい」「どちらかというとやめたほうがいい」といった領域も入ってくる三分法、五分法になるという、多様性と一体性を重要視するのが、一化の思想である。

キリスト教社会が長らく自然科学を否定していた事もあって、ルネッサンス時代以前には、アラブの科学が世界をリードしていた。
実に700年間も科学では最先端に位置していたのである。ピッツバーク・ポストガゼッタの科学評論家マイケル・ウッズは『紀元1000年のイスラム医学は目を見張るような水準に達していた…中世ヨーロッパが夢にも描けないような域にあった』と書いている。

コンピューターの前史となると、アラブの存在を無くして語る事は出来ない。
古代バビロニアに端を発するアラビア数字から、十進法や算盤、さらにはノイマンのプログラム内蔵方式コンピューターのベースになったアルゴリズムとめじろ押しだ。

アルゴリズムとは、広域の意味においては、何か物事を行うときの「やり方」のことだと考えてよい。
「やり方」を工夫して、より良いやり方を見つけよう、というのが、アルゴリズムの研究である。

問題はその『解』を持っているが、アルゴリズムは正しくその解を得るための具体的手順を与える。さらに多くの場合に効率性が重要となる。

そのアルゴリズムの考え方を用いて、ギリシャ天文学を精密科学として世界で初めて咀嚼(そしゃく)したのもイスラム天文学なのだ。

イスラームの礼拝堂であるモスクの周(まわ)りにはマドラサ(※イスラーム世界における学院。元々はアラビア語で「学ぶ場所、学校」を意味する。近代に入ると世俗教育の普及によって、宗教教育の専門機関へと特化していった…)と呼ばれる学校、病院、市場、貧しい人々のための無料の食堂などを備えた、都市の中核複合施設が建設され、スルタン(※権威<けんい>を意味するアラビア語。主に君主などを指す…)や官僚、市民たちの余ったお金は、社会の格差を埋める為に使われていった。

このように、彼らはイスラームの精神に拠(よ)り、独自の進歩的な理想社会の建設に尽力(じんりょく)していったのだった………近年の西欧かぶれした一部のテロ組織のニュースだけで「イスラム教=野蛮(やばん)で知的レベルの低い殺人宗教」と決めつけ、すべてを分かったような気になっている単細胞な連中には永遠に理解出来ない事だろうが。


★……イスラム教の偶像崇拝(ぐうぞうすうはい)禁止については、同じく偶像崇拝を禁じているキリスト教とは比較(ひかく)にならないくらいに、かなり徹底しており、絶対唯一神であるアッラーは勿論、預言者であるムハンマドを描いた絵画や彫刻すらも一切禁じている。

人間が造った像を崇拝する事は、神以外のものを崇拝する事になり、絶対唯一神に対する冒涜(ぼうとく)行為になるというわけだ。



当然ながら、彼らの最大の聖地であるサウジアラビア中西部にあるメッカカアバ神殿(カアバ…アラビア語で立方体を意味する。実際の建物は縦に少し長い…)にも、所謂(いわゆる)神や預言者を描いた絵画や彫刻は一切無く、つまりは中身は空っぽである……まあ、正確に言うと、カアバの南東角には一般的に黒石と呼ばれる直径30センチほどの据えられた要石があり、これはイスラム教の見解ではアダムとイヴの時代にまで遡(さかのぼ)るという、ムスリムの聖宝になるのだそうだ。


(↑写真/カアバ神殿)

🎬🎬🎬🎬🎬………映画『ザ・メッセージ』の最初にクレジットが出るのだが、偶像崇拝を禁ずるイスラム教の教義にのっとり、この映画にはムハンマドの顔や姿はいっさい出てきませんとの注意書きが表示される。

弟子たちがムハンマドに語りかけるときは、カメラに向かって(つまりは見ている観客に対して)話しかけるなどの工夫がなされている。

但(ただ)しその分、実在の人物であるムハンマドのキャラクターがよく分からず、雲を掴(つか)む気分と言うか、観る側としては何とも歯がゆく、不気味な印象さえ受けてしまう。

しかしこの形態でも、イスラム社会の間では賛否両論もあったそうだ。
いくら姿を現さないからと言っても、偉大なる預言者が映画の中では存在しているかのように思わせるという時点で神経質になる信者も多かったらしい……。

撮影はリビアとモロッコで行われ、【リビアの狂犬】と呼ばれた国家元首カダフィ大佐(※2011年リビア内戦によって政権は崩壊、カダフィー自身も反カダフィー派部隊によって殺害された…)が軍をあげて全面的に協力、イスラム教徒とメッカの戦い(625年のウフドの戦い)のシーンには、リビアの軍隊が全面協力している。

監督のムスタファ・アッカド(※2005年に起こったヨルダンの首都・アンマンの同時多発爆破テロにて死亡…)はシリア系アラブ人だが、スタッフは殆(ほとん)ど欧米人であり、モロッコ、クウェート、サウジアラビアなど、比較的西洋諸国に近いイスラム国家である中東の金持ちがパトロンとなって、そのオイル・マネーで自分達の布教の為に西洋人達に自分たちの意向に沿った映画を作らせたという、何とも奇妙な唯一の対外向け作品だと言える………まあ、当時のアメリカとしても、対イスラム社会に余裕を持てる外交力と国力があったというわけだ。

本作ではムハンマドの意を受けた伯父(おじ)という役割で名優アンソニー・クイン(1915~2001)が主役を務(つと)めている。



アンソニー・クインはメキシコ系なのに、『その男、ゾルバ』ではギリシャ人を演じ、『アラビアのロレンス』ではアウダ・アブダイ酋長(しゅうちょう)、『砂漠のライオン』ではオマル・モフタールなどのアラブ人を演じており、多彩な民族のキャラクターに化ける事の可能な特異なマスクの持ち主とも言える。
勿論、その存在感と演技力の卓越(たくえつ)さについては今更説明の必要もない。


カチンコカチンコカチンコ……西暦600年、メッカ……。

当時メッカは、富裕な貴族たちが利己的な物欲主義にこりかたまり、奴隷(どれい)を持ち、貧富の差が激しかった。

それ以前のアラブ人達は遊牧(ゆうぼく)生活が殆(ほとん)どであったが、彼らの環境に、ある劇的な変化が起きたのだった……

……この頃、6世紀の後半、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)とササン朝ペルシアが慢性的(まんせいてき)な長期戦争をしていた結果、シルクロード(絹の道)が両国の国境で分断されてしまい、 その為、シルクロードがアラビア半島を迂回(うかい)する形となり、中国やインドなど東方の商品は、紅海(こうかい)沿岸のヒジャーズを通って西方に運ばれるようになっていった。



こうして、アラブ人の中に中継貿易を独占して、莫大(ばくだい)な富を得る商人が現れ、大商人クライシュ族などが力を持つようになった。メッカやヤスリブ(…後のイスラム三大聖地の一つであるメディナ…)といった都市は商工業で栄(さか)え、アラブ社会に貧富の格差が生まれ出した。

彼らはメッカのカアバ神殿に300以上の神を祀(まつ)り、偶像崇拝に明け暮れていた。

その頃、メッカ近郊のヒラー山の洞穴(どうけつ)で、一人の男が、天使ガブリエルによって啓示(けいじ)を授(さず)かったという噂が流れ、クライシュ族の若者に大きな反響を起こしていた。唯一絶対の神の使徒として、神の前の平等を説き、現状のままでは、世界終末の日も近いことを予言し、道徳的退廃とそれから生じる社会矛盾(~むじゅん)を改めるための正義を説くムハンマドの教えに、若者たちはしだいに共鳴していくのだった………。



ムハンマドはメッカを中心に布教(ふきょう)を始め、その人々の平等を説くイスラムの教えは、長い間貧富の格差に苦しんでいた貧しいアラブ人達の間に瞬(またた)く間に広がっていく。

ところが、メッカの有力者や大商人、多神教を信仰していた人々は、イスラム教の拡大が自分たちの地位や利益を脅(おど)かすのではと考えるようになり、ムハンマドやイスラムの信徒達は、こうした人々によって迫害されていく……。

目の前で、アッラーを信じる母を残酷な仕打ちで殺される若者、石の下に敷かれて拷問(ごうもん)される黒人奴隷───。信徒への迫害は目を覆(おお)うばかりの残酷さで、家族が引き裂かれる悲惨な光景があちこちで見られた。

メッカで完全に孤立したムハンマドたちは、メッカでの伝道を一旦断念し、メッカの北方480kmの町ヤスリブ(…現在のサウジアラビア・マディーナ州の州都のメディナまたはマディーナ。アラビア半島の紅海北側に面する…)に移った。

 このムハンマドがメッカから逃れた事件をヒジュラ(聖遷:せいせん)』と言い、この年、イスラム共同体が正式に発足したとされる西暦622年を、イスラム教においては【ヒジュラ暦またはイスラーム暦の元年】とした。
因みにヒジュラ』とは、アラビア語で「移住」や「新しい人間関係を築く」等の意味を持つ。

………映画の内容とは外(はず)れるが、このヒジュラが最初に行われたのは615年とされている。

ムスリムの一団がムハンマドの助言により、メッカでのクライシュ族からの迫害を逃れる為に、キリスト教徒の王の治(おさ)めるアクスム王国(…古代エチオピア地域に栄えた交易国…)に大移動をしたのだ。

同年、クライシュ族は彼らをアラビアに戻すよう使いを送ったが、アクスム王国はムハンマドと信捧者たちを保護した。ムスリムたちはアクスム王国に恩義と敬意を示し、彼らを守ったという。

イスラームとキリスト教徒も、嘗(かつ)ては仲良く共存していた時代もあったという歴史的事実の一つである………

ヤスリブは「預言者の町」という意味のメディナ』に改名される……(ムハンマドは現在のサウジアラビア・メディナの中心にある預言者のモスクの場所に住居を置き、イスラム共同体ウンマの建設とメッカとの戦いを指揮し、最後にはここで亡くなっている。こうしてメディナはイスラーム第2の聖地となった。)……メディナと改名したこの地で布教を進める彼らは、レンガを積み上げ、ささやかな聖堂を築いた。信徒のなかには、黒人奴隷ビラルもいた。彼は、礼拝時刻の告知者となり、聖堂の上に立ち、朗々たる声で信者たちに祈祷(きとう)を呼びかけるのだった。

ところが、メッカに残してきた家族が迫害され、所有物が押収(おうしゅう)されていることを知った信者たちは、自分たちの信念を守るためにメッカと戦わなければならないことを悟(さと)る。

624年、紅海沿岸のバドルで、イスラム軍はメッカの大軍を破るが、翌年のウフドの戦いでは、逆に敗れてしまう。過酷な戦いの連続は、イスラム教徒たちの団結をさらに強め、かつて一国家にまとまったことのない多数の部族のあいだに、初めて、統一の動きが現れてきた。



628年、1400名の信者を引き連れてメッカに向かったムハンマドは、メッカとの間に10年間の休戦条約を結び、メッカに凱旋(がいせん)する。そこでムハンマドが最初にやったことは何か。それは、カアバ神殿にまつられていた300余体の邪神(じゃしん)の像を破壊することだった。

神殿の屋上によじのぼったビラルは、「アッラーは唯一絶対なり。アッラーに祈ろう!」とうたい、これらの祈りのうたがクルアーン(…またはコーラン。イスラム教の聖典。ムハンマドの死後にまとめられた現在の形は全部で114章からなる。)のルーツとなる……ここにカアバ神殿は、アッラーへの礼拝の場となったのだった……カチンコカチンコカチンコ

アラビア世界では時間を「仕事」「遊び」ラーハの3つに分けて考える。そのうちのラーハが人生で一番大事な時間とされる。

イスラームというと、アメリカ等の意図的な情報操作圧力も加味してマスコミの報道するテロや紛争といったキナ臭い話題ばかりが目立ってしまうが、アラビア、イスラームの日常世界には、自然と溶け合うようなゆったりとした時間の流れがある。

コーランの神は元来、優しい慈(いつく)しみのある神である。
しかし、人間がこれを無視すると恐ろしい事となり、更には、復讐をする神になってしまう。
 
教典の解釈も信じるも実行するのも、結局は個々の人間次第である。

キリスト教も愛を謳(うた)いながら、現実、それとは真逆の言動を繰り返し、その歴史はイスラム教以上の血塗られた暗黒そのものと言っても過言ではない………そもそも、当初の開祖イエスの訴えたかった事が今のキリスト教の在り方とリンクしていない事は明白である。

仏教も、慈悲(じひ)を謳(うた)い、『縁起(えんぎ)の法』を掲(かか)げてはいるが、凡(およ)そ本当に理解しているとは言い難い、小さな視野と思考と感情とプライドに囚(とら)われて、頭デッカチな優越感に浸(ひた)るだけの自己満足レベルに止(とど)まっている面が多々見受けられる事も否定出来ない。

大いなる道を外(はず)れた信仰は、その教義や理論がいくら立派なものであったとしても、迷い道に入るだけだ。


立派な地図を持ったからといって、目的地にたどり着いたわけではない。

イスラームやその他の信仰を持つ持たないに限らず、人は例外無く、自己の喪失感(そうしつかん)を幻想や妄想で埋めてしまおうとするものだ。そして、それがやがては魂の奴隷化の始まりとなり、人間は神にも見放された怪物と化してしまう………



嘗(かつ)て、モスクは安息の場であり、宗教は平和と和解の声だった。説教は道義を正し、道徳的な暮らしを温かく指し示すものだった。

何を食べ、何を飲むべきか、老人に対する考え方、孤児の扱い方など日常の問題に至るまで事細かく述べている。

『両親に対して、やさしくしなさい。』

『言葉を荒げて叱ったりしてはいけない。』

『やられても、やられた程度にやり返すか、或いは我慢する事だ。』

イスラム教は初期段階を経て、信徒の共同体全てを対象にした時点から、現世に肯定的な宗教となった。来世や極楽浄土にあこがれたりする日本の念仏のような現世否定的な宗教ではなく、今を生きる現実を理想の社会に造り変えようという思想になった。

ジハード』の本来のアラビア語の意味は、欧米やマスコミが意図的に解釈したがる「聖戦」ではなく、『努力』である。

……アラビア語には、こんな美しい言葉がある。

『アッサラーム・アライクム(あなたの上に平安がありますように)』……

それを実現させるには、一人一人が対処療法や刹那的(せつなてき)な意味ではない、真の意味でのジハードが必要なのだろう。


小説『フランケンシュタイン』の作者、メアリー・ウルストンクラフト・シェリー(1797~1851)の残した言葉に再度、注目したい……

『人は悪を、悪だから選ぶのではなく、自分が求めている善や幸せと間違えるのです。』