おっと。井口阿古←茶々→完子→勘、でした。四代…いや、阿古と茶々、完子と勘の間で一代とんでいるので、正確には六代にわたってしまっております。収拾つかないけれど興味は尽きない!! RT @itoko_akaishi 茶々→完子ときて、ここに来て→勘と来ました。
posted at 23:04:00
用があって京都大学付属図書館へTEL。一般人なので京大ってだけでドキドキでした。あとは大谷大学や龍谷大学も行きたいんだけど、暇と時間ががggg…どこでもドア欲しいです。したら行きたいところの選択肢が増えて、さらに時間とお金ががg(ry …となるわけですがorz
posted at 18:28:57
茶々→完子ときて、ここに来て→勘と来ました。なんと魅力的な系譜なのでしょう…。勘の肖像はありそうでなさそう。出自、輿入れ先から考えてあっても不思議ではないけれど、顛末からして処分されてそう。あるとしたら東本願寺側でしょうか。
posted at 17:46:27
訂正「通の次女」→「次女通の長女」。失礼しました。 RT @itoko_akaishi 完子の孫勘(通の次女)は姫路本徳寺の准円昭澄の妻となりましたが、彼女は後妻で、先妻は鷹司房輔の娘(妙顕院円妙)だったそうです。子どもは男の子が二人いたみたいですが、惜しくも夭折した模様…
posted at 14:24:13
はあ…勘ってとても凄い女人でした…。その筋では有名な女傑だったのですね。うっかりこんな時間まで読み耽ってしまった。西派宗主の嫡女でありながら、西派と対立して東派に転派とか…確かに母通の姉は東の宗主裏方序なのだから、勘は東の宗主一家とも近しい血縁な訳でした。
posted at 02:52:58
完子の孫勘(通の次女)は姫路本徳寺の准円昭澄の妻となりましたが、彼女は後妻で、先妻は鷹司房輔の娘(妙顕院円妙)だったそうです。子どもは男の子が二人いたみたいですが、惜しくも夭折した模様…
posted at 00:27:49
『石川日記』承応三年十二月二十二日条に、完子の娘通(「貞梁院様」)の「御影像」が出てきます。どんな御顔だったんだろう。今でも東本願寺さんに残ってたりしないのでしょうか。
posted at 00:27:29