出雲大社 | 茶々姫をたどる汐路にて

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慶長十四年七月に秀頼の名前で遷宮が行われたところ。
慶長拾余年といえば、秀頼は数えて十七歳。秀吉の遺言によれば、十五の年に成人を迎えた後に行われたもので、遷宮の主体は茶々と言ってしまってもいいものか微妙な時期です。

神在祭のこの時期に参拝したのですが、お参りもそこそこに宝物殿へ入り浸り。


○銅製鰐口(重要美術品)

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上部:「出雲/大社」
右方:「正二位右大臣豊臣朝臣秀頼公辰御再興也」
左方:「御奉行堀尾帯刀佐吉晴慶長十二二(十四)年七月吉日」

(解説文)

 鰐口とは、社寺の軒先に懸け、拝礼のとき前面に垂らした綱でこれを打ち鳴らすもの。その形状は中空の扁平円形をなし、「鰐口」という名称は下方に横長の口が大きく裂けている様に由来する。
 本品は青銅鋳造の大型鰐口である。撞座(つきざ)には二条の圏線をめぐらし、その中央には子持ち八葉蓮弁の蓮華を陽鋳している。
 この外区の上部両耳の下に、「出雲」、「大社」また右方に「正二位右大臣豊臣朝臣秀頼公辰御再興也」、左方に「御奉行堀尾帯刀佐吉晴慶長十二二年七月吉日」とその奉納の趣旨と年記を陰刻している。
 つまり、慶長十四年(一六〇九)遷宮に際し、豊臣秀頼の命を奉じて奉行の堀尾吉晴が奉懸したことが知れる。

(感想など)

時期的にいえば、慶長五年前後の寺社再興の波とは外れた時期であり、また秀吉の遺言した秀頼の成人年齢(十五歳)をすぎて行われた遷宮を証明する鰐口です。
両手で抱えるほどの大きさで、はっきりと銘が読めました。
当時秀頼が畿内を超えても影響力があったという証拠の一つとしても良く登場します。

なお、奉行の堀尾吉晴は、関ヶ原合戦後出雲の国主となった武将だそうです。


○豊臣秀吉佩刀(重要文化財)

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(解説より)

j鎌倉時代・中期
西暦 十三世紀中

銘 備前長船住光忠
長さ 二尺二寸七分(六八、八センチ)
反り 七分(二、一センチ)

光忠は、備前長船派の巨匠。
慶長十四年(一六〇九)の造営遷宮の際に、豊臣秀頼が奉納した。

(感想など)

慶長十四年までは秀頼のもとにあった秀吉の佩刀。
刀としてもかなり由緒正しいもののようで、実際に秀吉のものだったのだろうということが偲ばれます。

大坂の秀頼と茶々、京都の寧を対立関係にとらえる方は、よく秀吉の身に着けていたものは寧が京都へ持ち出した、という言い方をされますが、大坂方にも秀吉の遺品はあったわけです。
寧が持ち出したのではなく、単に形見分けが行われたにすぎず、大坂方に残されたものの多くは戦火に焼かれてしまったというのが真相ではないでしょうか。