茶々の出生と徳勝寺合同位牌の謎 | 茶々姫をたどる汐路にて

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茶々が浅井長政の嫡女であることは今更言うまでもありませんが、何故か近年茶々には長政の子ではないのでは?とする俗説が見られるようになりました。
茶々の生涯を追いかけていると、亡き家族の菩提供養や、浅井一族・家臣の面倒を見ていることなど、長政の嫡女として疑う余地はありません。
小説『茶々と○○』シリーズでは、信長と市の娘として描かれていますが、このような小説はともかく、実際まことしやかにささやかれているのには正直疑問に感じざるを得ません。

wikipediaなどでも、『浅井三代記』に茶々誕生の記事がないことや、徳勝寺に茶々のみ位牌がないことなどを例に、茶々が長政の娘ではないという説が書かれていました(さきほど確認したら、『浅井三代記』に関する記述は無くなっていました)。

ちなみに『翁草』における茶々の年齢に関する記述は「元和元年五月八日、大坂城中に於て生害し給ふ、于時四十九歳。〔割註〕或は四十歳三十九歳共あり、別本に淀殿は天正十一年柴田勝家自殺のとき十三歳、同十七年十九歳にて、秀吉公の側室と成給と云、此の説によれば四十五歳なり。」とあり、四十九歳説以外にも数多く挙げられています。ただし、長政の亨年や妹たちの生年などから、四十九歳以外の説はありえないことから四十九歳説が採られ、近年まで定説となっていました。
この生年も茶々が長政の娘ではない説の根拠とされていますが、同書には茶々を長政の娘(ただし、次女と記録)、また同書に引用されている「永夜茗談抜萃」では長政の長女と明記されています。

『翁草』については、先ほど述べた通り、姉妹の順に揺らぎが見られたり、江が秀忠との間に産んだ子女についても長丸を含めた「八人」としていることなど、記述の整合性には疑問点があります。近年これが見直され、亨年四十七歳説(永禄十二年生まれ)が採られていることは井上安代氏の『豊臣秀頼』や福田千鶴氏の『淀殿』に見える通りです。ただ、これも市の輿入れを永禄十年とし、その上で「八白土星」に該当する年が永禄十二年であることから特定されているようで、市の輿入れ年前提が崩れると永禄十二年説以外でも当てはまるというのは楠戸義昭氏の指摘されるところです。
(私は、信長の生前に茶々の輿入れの話が見られないことから、天正十年までに適齢期に達していなかった=そんなに早い生まれではなかったと考えています。)

そこで、『浅井三代記』の茶々に関する記述についてですが、私が見た限り、三代記には茶々のみならず、三姉妹とも誕生の様子は描かれていません。落城時に長政の遺言とともにその存在が記されているのみです。
「此時御子五人有、内三人ハ女子二人ハ男子なり。(中略)一人ハ秀吉卿ノ妻ト成、秀頼卿ノ御袋、一人ハ相国秀忠公ノ御台、大猷院殿家光ノ御袋、一人ハ若狭宰相高次ノ妻ト成給フ」
「御子」というのはおそらく長政の子という意味で、市の子とまでは明記されていません。また、『浅井三代記』の記述自体誤りも見られ、史料として用いる際に注意を要するとされています。しかし、この記述を見る限りでは、茶々の生まれに疑問を感じるものはなさそうです。(見落としがありましたらご教授いただけると助かります)

続いて、徳勝寺の位牌についてですが、私もこれは気になっていたため、先日徳勝寺へお参りし、位牌を拝見して参りました。
「初や江の位牌はある」とされていますが、厳密に言うとあるのは江・寧・初の合同位牌です。中央に江の戒名(「崇源院殿一品夫人昌誉和興仁清大禅定尼」)があり、右に寧(「高台寺殿従一位湖月紹心大禅定尼」)の戒名、そして左に初の戒名(「常高寺殿松岩栄昌大姉」)が刻まれています。
徳勝寺に寧の位牌があることは、特に不思議なことではありません。秀吉によって小谷城下にあった徳勝寺は長浜城下に移転され、当時の徳勝寺住職は嫡子であった於次秀勝の師を務めるなど徳勝寺と羽柴家との関係は深く、秀吉や朝覚(次郎。一般的に石松丸秀勝と同一人物とされている人)の合同位牌もありました。
ただ、不自然なのは、江・初・寧三人の合同位牌であったという点です。中央に御台所であった江の戒名があることは特に不自然ではありません。ただ、姉妹関係である初と江だけ、もしくは養母子関係であった江と寧だけならまだしも、江や初とともに寧の戒名があることを不自然に思うのです。
やはり、本来此処に入るべきなのは茶々の戒名ではないでしょうか。「秀吉の妻」という立場で、寧が茶々と混同され、寧の戒名が記されているようにしか思えないのです。

もともと、江の位牌は寛文十二(1672)年に和子によって納められたものであったと『徳勝寺授戒帳』に記されています。ご住職さんに伺うと、この年徳勝寺が再興された際、将軍御台所である江の実家の菩提寺として井伊家によって再興されたため、茶々の供養は出来なかっただろうというお話されていました。そのとき、既に初も寧も亡くなっていましたが、当初は江個人の位牌が作られたようです。

くどいようですが、徳勝寺で寧が供養されているのがおかしいのではありません。当初は寧個人の位牌があった可能性は充分に考えられます。その後、何度か移転再建をくりかえす中で(その際過去帳などの当時の史料も散逸してしまったとか…)、長政の三人の娘の菩提を弔うために、合同位牌が作られたと思われますが、その際、ともに秀吉室であった茶々と寧が混同され、姉妹の位牌に寧の戒名が刻まれたのだと考えます。(もしもともと寧の位牌があったのであれば、それを茶々のものとして混同されたのではないでしょうか)

徳勝寺の位牌に茶々の戒名がないから長政の娘ではないのでは?という理屈が通用するのならば、では寧は長政の娘なのか?ということになります。もちろん、いくらなんでもこれはありえません。

これが、徳勝寺の位牌を実際に拝見して抱いた私の考えです。
(徳勝寺にお参りした際の記事にもちょっと書いたのですが、改めてまとめました。重複するところがありますがご了承ください。)

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徳勝寺にある案内掲示。再興の経歴、羽柴家との関係なども記されています。