豊臣国松を守った女性たち | 茶々姫をたどる汐路にて

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井上安代氏の『千姫』を読んでいて、国松の戒名について考えました。

同書では、東慶寺で妹の天秀尼が「漏世院殿雲山智西大童子」という国松の戒名に「漏」→「満」、「西」→「清」特に二字諡号して「満世院殿雲山智清大童子」として慰霊しているという旨の記述があります。

もちろん、そもそもの「漏世院殿雲山智西大童子」という戒名を授けたのは誓願寺であり、国松の遺体を引き取った龍との関わりはいまさら言うまでもありません。
国松の供養に関わる事柄から、私は龍こそ国松の養育に大きく関わっていたのではないかと考えていました。

しかし先日常高寺に参拝した際、過去帳で国松の戒名を拝見すると「満舩院殿雲山知清大童子」となっていました。これを見て、やはり常高院(初)と国松の関わりは大きかったのだと思い改めました。
もちろんベースは誓願寺の戒名ですが、東慶寺で諡号されたとされる戒名との関連性も見られます。どちらが先であったかは断言できませんが、戒名だけ見ると東慶寺の諡号が先のようにも思えます。ただ、二人の年齢からして、常高寺のほうが先でしょうか。ただ、常高寺の建立と常高院の死が前後するので、戒名は常高寺が出来る前、常高院による供養の際諡号されていたのではないかとも思えます。

他に、趣を異とする戒名で「向陽院梅蕚童子」というのがあります。これは、秀吉の姉日秀による諡号で、日秀は秀頼、茶々にも全く異なる戒名を諡号しています。
お話を伺うと、日秀は縁者を分け隔てなく供養していたとのことですが、もちろんそのような方であっただろうことは否定するところではありません。ですが、個人的には本当に直接秀次の自害に茶々が関わっていたならば、さすがにそんな人物を懇ろに供養するだろうかと思います。
秀頼・国松という直系の男子だけならばまだしも、茶々をも供養している点においては、茶々の豊臣家での立場を思わせるところですし(少なくとも単なる「愛妾」では国松の母同様に供養されなかったでしょう)、日秀の茶々に対する意識を偲ばせます。
『幸家公記』では日秀が頻繁に孫の完子を訪ねている様子が見えます。日秀は秀勝を鍾愛していたといいますから、秀勝の一人娘である完子を何くれとなく可愛がったでしょう。秀勝の死後、完子を養育したのは茶々です。茶々が秀次の自害に関わったという話が後世作られた俗説であるばかりでなく、完子の成長を挟んで交流があったのではないでしょうかと私は思います。
これも、秀次と茶々は対立する立場にあったとする先入観による見落としなのではないでしょうか。

国松の乳母は『大坂陣山口休庵咄』曰く、砥石屋弥左衛門の姉妹で後家であったといいます。
彼女は大坂の陣まで内外に秀頼の子であることを秘して養育に努め、『武辺雑談』においては国松を辱める井伊直政を非難した勇敢な女性として登場します。また、死に臨んで勇敢であった国松を見る限り、彼を育てた乳母の賢明さも偲ばれます。
その夫について、『元寛日記』や『塩尻』では乳母が真野豊後守家人坂部(元「坂邊」)彦助の後家であると名乗っています。
真野豊後守は真野頼包のことで、秀頼の侍女である青柳(木村重成の妻)の父です。青柳は大蔵卿局の姪ということから、大蔵卿局は真野家出身かもしれないということをサイトで触れていますが、この乳母が大蔵卿局の縁で選ばれたとすれば、その可能性も一層強まったと言えるかもしれません。
千以外に秀頼の嫡子が生まれることを良しとしなかった茶々ですが、常高院に預ける際、この乳母をつけて送りだしたことに初孫である国松に対する憐れみを感じます。

話がずれました。
戒名と言うのはまだまだ不勉強ですが人物像や人間関係までもが垣間見えて面白いですね。

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旧豊国神社・太閤坦にある龍〔右〕、国松〔左〕の墓。もとは誓願寺竹林院にあったそうです。
元和元年、龍が国松の遺骸を引き取り供養し埋葬した際、自身の墓碑を逆修したものと思われます。