第十一話「猿の人質」【大河ドラマ感想】 | 茶々姫をたどる汐路にて

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感想を書いた紙をなくしてしまい、もう一度見直しました。
初見の感想ではないのでご了承ください。

なにはともあれ、「人質」とは誰にとっての人質なのでしょうか。
茶々のこと?でも、誰にとっての人質?江にとって????
…と頭にハテナがいっぱいですが、大した問題でもないと思うので進めます。

前回の感想で北庄城爆発について書きましたが、地味に(?)爆発していたんですね。
すみません、気が付きませんでした…

①三姉妹の行先

北庄城から脱出した後、ドラマでは秀吉の本陣へ送り届けられています。
秀吉の本陣は「村井重頼覚書」によると愛宕山とのこと。醍醐の花見と同じ史料ですが、この戦いには前田利家が参戦していますので、信用してよいのではないかと思います。当時は分かりませんが、現在は越前市にある高さ103mの山だそうです。
それから、安土城に入って京極龍子(龍)に会いますが、安土城で龍の保護下にあったという説は、時代考証の小和田先生の説です(『戦国三姉妹物語』)。

1- 一乗谷へ逃れた後、秀吉によって安土城へ送り届けられる(『柳営婦女伝系』)
2- 「遥の谷」へ逃れた後、秀吉によっ安土城へ送り届けられる(『玉輿記』)
3- 越前大野へ逃れた後、秀吉によって迎えられる(『新撰豊臣実録』)
4- 京にいた京極龍に預けられる(「京極家年表」/小和田哲男『浅井三姉妹物語』、『常高院殿』)
5- 織田有楽斎に預けられる(「広瀬曾市氏所蔵文書」/桑田忠親『淀君』)
6- 織田信包に預けられる(新書太閤記)
7- 山崎城にて秀吉の庇護をうける(楠戸義昭『お江』)
8- 小谷城下実宰院にて叔母見久昌安尼の庇護をうける

この頃、秀吉が山崎城に拠点を置いていたことから楠戸氏は三姉妹の居所を山崎城と推測されました。
しかし、この頃勝家と結んだ信長の三男信孝は自刃させられますが、次男信雄は健在でした。信雄が秀吉と講和を結ぶ小牧・長久手合戦までは三姉妹の身柄は織 田家縁の人間と考えられていたとされ(宮本義己氏はそもそも三姉妹の身柄が秀吉ではなく織田家の管理下にあったとされています)、一次史料ではないながら も安土城に身柄を移されたという説は妥当なものであろうと推測されています。

保護者については、ドラマに登場した京極龍のほかに、信長の弟織田有楽斎が挙げられています。これは、天正十八年の有楽斎宛千利休書状がその根拠です。手 紙の内容は、「淀で御茶しましょう」という内容なのですが、有楽斎が常に淀城にいたかどうかまでは分からないこと、また天正十八年の文書なので、今回のドラマ内(天正十一年)まで遡ることは難しいことから、近年では疑問視されています。
織田信包については、これも小谷落城時に信包に預けられたであろうという『浅井三代記』や『総見記』の説によるものでしょう。近年宮本氏などによって小谷落城後に市と三姉妹が伊勢安濃津や上野などで預かられた説が否定されていますが、信包は大坂城時代にも茶々姫を支える存在の一人ですので、どこかで関わっている可能性は充分にあると思います。

ちなみに、この時龍が安土城にいたかどうかはわかりません。三姉妹が安土城に預けられたという史料から、保護した龍も安土城にいたのだろうということなの だと思います。ドラマ上では本人が「京極龍子」と名乗っていましたが、当時の女性の名前を鑑みて、「たつ」と名乗っていたのでしょう。後世、「子」が付さ れて系図に残されると言ったことはよくあり、初も「初」→「初子」、江も「督(ゴウ)」→「督(トク)」→「徳」→「徳子」と記されていますが、本名と異 なることはご承知の通りです。ちなみに、龍は「龍子(竜子)」「辰子」という名で残っています。

そして、茶々の台詞で登場した「京極マリア」(長政の姉)ですが、これも当時「京極マリア」と名乗ったり呼ばれたりしたことはなかったと思います。ただ、 彼女の本名が残っておらず(以前「慶」という名前がwikipediaに載っていましたが、これは渋谷美枝子氏が戒名〔養福院殿法山寿大禅定尼〕から推測した名前だと思われます。そして、今もう一度wikipediaを確認したところ、「福」という名前になっていましたが、これも戒名〔養院 殿法山寿慶大禅定尼〕から推測したものでしょう)、残っている数少ない史料がキリスト教の史料であり、そこで彼女が「京極マリア」と書かれているために、 現在ではその名前が一般的に使われています。あと、良く指摘されることですが当時は夫婦別姓ですので、いかなキリスト教徒であろうとも「京極マリア」と名 乗ったり呼ばれたりすることはなかったようです。その京極マリアですが、安土で授洗し、京や大坂で布教活動に努めたと言われます。そのため、聚楽第→大坂 城西の丸と居所を変えた龍と行動を共にしたと言われます。常に龍と生活を共にしていたかどうかまでは分かりませんが、秀吉の庇護をうける龍の傍にいたであ ろうと思われ、年若い龍よりもマリアのほうが三姉妹の保護者的存在だったのかもしれません。三姉妹を扱うならば、龍と一緒にぜひ出していただきたかった。

浅井家縁の庇護者候補として長政とマリアの長姉、昌安見久尼を挙げましたが、これは実宰院の寺伝によるものです。ただ、寺の伝承では小谷落城の際、三姉妹 を保護したという内容になっています。ただ、小谷落城の後は市と共に織田家へ帰ったことが通説になっていますので、実は市も亡くなった北庄落城後のことで はないかとも言われます。実宰院には茶々姫が作らせた昌安見久尼の木像があり、また秀吉の朱印状も存在し、更に寺院の跡目について秀吉が口出ししているこ となどから実宰院が三姉妹とゆかりの深い寺院であることは間違いなく、小谷落城もしくは北庄落城に何らかの形でかかわっているだろうことが察せられます。 寺伝に市の姿が見えないことから、小谷落城時、姉妹をまず見久尼に預け、市がまず織田家へ降って信長に娘たちの安全を保障させ、織田家で母子揃って引き取 られた、もしくは、北庄落城後すぐに秀吉は加賀平定へ向かったとのことですので、とりあえず決戦地であった賤が岳からも近い実宰院に預け、改めて安土城へ 引き取ったかのどちらかでしょうか。

なにはともあれ、このあたりについて書かれているどれもが一次史料ではないので、はっきりしたことは何とも言えないのが実情です。

②秀吉が茶々を傍に置いたわけ

前回、市の遺言で折角「一番長政に似ている」と言われたのに、今回結局市に似ているからという理由で秀吉に一目ぼれされてしまった茶々ですが、秀吉が茶々に目を付けたのはそれが理由だったのでしょうか。
やはり人柄が秀吉の好みだったのではないかなーなんて、思います。龍と茶々を比べると、どちらも実家や親族を一身に背負っていて、責任感の強い長女タイプ です。お寧さんもどちらかというと守ってもらうタイプではなさそうです。これが原因で後の世に個性派ぞろいとか言われてしまうわけですが…。あくまで私の 想像ですが、当時の事情を横に置いて「貴種好み」とか、「市の面影」とかよりもよっぽど私にとっては納得できる妻たちの共通点だったりします。

ドラマ内では、「絶対に許すことはない」と言われてしまった秀吉ですが、実際はどうだったのでしょう。親の仇であることは間違いないのですが、勝家や市がくれぐれも秀吉に三姉妹を頼んでいることから、三姉妹にも秀吉への恨みつらみなどは離さなかったのではないでしょうか。
結局、秀吉の最期までには茶々は妻となり、初は個人的に所領が与えられるほどに頼みとされ、江は娘となって徳川と豊臣のかすがいとして嫁ぐわけですから…

③「我ら姉妹はこの世に三人きりとなったのじゃ」 ~今週の茶々姫 其の壱

辛い台詞ではありますが、これは本当に茶々姫が感じていたことなのでしょう。
もしくは、この時からじわじわと思い知らされることになったのかもしれません。
毎回引用していますが、「我々はかばかしき親にも持ち候ははず、談合申候はん相手も候はぬに…」です。

④「案ずるでない、そなたたちはこの私が守る故ゆえな」 ~今週の茶々姫 其の弐

散々例に出している映画『天涯の貴妃』でも、北庄から妹たちをかばって脱出する茶々姫や、大坂落城時に侍女たちを逃がす茶々姫に涙腺崩壊した私ですが、とりあえず茶々姫が何かを守ろうとするシーンにめっぽう弱いらしいことが今回再確認できました(苦笑)
色々なドラマの茶々姫をご覧の方には実はこの台詞にも元ネタらしきものがありまして、『渓心院文』では、

「御姫様方(茶々・初・江)は、羽柴殿(が)御受取り(の)まま、ご秘蔵に て、御姉様へ御使いにて、御主とご一緒にならせられ候様にとの御事に候えども、御十三(十五歳)にても御智恵良く、ご内証無沙汰の様子、お聞き及びも御座 候ゆえ、ご返事に斯様に御親様なしになりまいらせられ、お頼みなされ候うえは、如何様ともお指図次第なら、先ず御妹様方を御在り付けまし給わり候へ。そのうえにて、御主様の御事はともかくもと給わられ(候ヵ)を御喜び、急ぎ常高院様は、御筋目も御座候ゆえ、京極宰相高次様へ御遣りまし給わり候」
(姉妹は、羽柴秀吉が身柄を受け取り、大切にしていた。そのうち茶々へ遣いが来て、秀吉と一緒に暮らすようにとのことであった。しかし茶々は十五歳ながら 賢く、まだこの話が正式に決まっていないことを聞いていた。秀吉が親代わりとなった以上、どのような指図にも従わなければならないというのならば、まずは 妹たちの縁辺を調えてください。その上できちんと御返事をさせていただきたいと伝えると、秀吉は喜んで、早速初については筋目も整っているので、京極高次 へ嫁がせることにした。)

今回は『誰も知らなかった江』の釈文を引用し、訳を参考にしました。他に『常高院殿』にも同じ個所が引用されているのですが、釈文が所々違ったりしています。違う写本なのでしょうか。良くわかりません。
なぜ長幼の順のとおりではなく、江、初の順に嫁がせたのかということが長い間疑問に思われていたのですが、初の侍女縁の『渓心院文』ではそれが茶々姫の意思であったと伝えています。
そして、早速嫁がせたのが初であるというところも、通説とは違いますね。『江の生涯』で福田先生が江が実際に佐治一成に嫁がず婚約に終わったと仰られてい ますが、それと通じるものがあります。そして、「筋目」という言葉。『誰も知らなかった江』では「家柄や血統」と解釈されていますが、私はやはりもともと 信長によって考えられていた結婚なのではないかなと思います。その辺りがこの「筋目」という言葉に表れているのではないでしょうか。

⑤寧と龍

寧と龍の関係は、桑田忠親先生の頃から何故かかなり仲良しな解釈をされています。醍醐の花見の仲裁でさえ、龍が寧に代わって出しゃばりな茶々姫にぎゃふんと言わせた話になっていたり、仲裁した寧も龍の味方だったなんて展開にされてしまうことが往々にあります。
根拠は、関ヶ原合戦の折、寧の侍女(孝蔵主)が龍を救出したこと(龍の救出は寧の指揮の元茶々姫の共同で行ったものです。)、そして秀吉の死後湯立などを一緒に奉納していることくらいなのですが…。これはご近所に住んでいたのですから、交流がないほうが不思議です。
そもそも、一番の理由は茶々姫で、茶々姫を敵に回して二人が手を携えていたに違いないという解釈から来ています。そして、秀吉死後の茶々姫と二人の交流がないことが前提となっているようにも思います。これは、前回の記事 に通じますので、よろしければご一読ください。
仲が悪かったと言いたいわけでは決してありません。特別ベタベタしていたわけでもないし、特別ドロドロしていた訳でもないだろう、と思うだけです。

でも、「秀吉の功績の陰にお寧さんあり」というのは、それは私も本当だと思います。

龍子の部屋 (←リンクしてみました。ご覧になっていない方は是非)

公式サイトを見てびっくりしました。良いのか、NHK!
いや、私はそういうの大好きですけれども!
思っていたキャラクターとちょっと違うけれども、今大河の龍子さん、かなり素敵です(笑)

⑥予告 ~今週の(来週の?)茶々姫 其の参

初見から、今までで一番リピートしまくりました…
いいですねえ宮沢茶々様の打ち掛け姿…うっとりしました。美しい。
次回を見るのがずっと楽しみでした。
これを書いていなかったので見れませんでしたが(汗)

意外に時間がかかりました。火曜日の講演までに一通り見ておかなくては…