茶々姫の立場と呼称①(~慶長三年まで) | 茶々姫をたどる汐路にて

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秀吉の没する慶長三年までの茶々姫の呼称等を今年表でチェックしている範囲でまとめてみました。

色分けは、
 オレンジが本名に由来する呼称
 赤が茶々姫の身分に関わると思われる呼称
 青が茶々姫の居所等に関わると思われる呼称(号)
 緑が茶々姫の実家に関わる呼称
 紫が子どもたちとの関係に関わる呼称
です。

福田千鶴先生は茶々姫が最初から秀吉の妻として近侍したとの見解をお持ちですが、やはり秀吉自身が茶々姫を「女房衆」と言っている(しかも小田原合戦のあたりまで)ので、最初は女房衆として秀吉に仕えたのではないかと私は思います。

しかし、鶴松が生まれて以降、豊臣家に近しかったと思われる人たちの記録には、茶々姫を「御上」や「上様」と記す様子が見えますので、茶々姫はやはり鶴松を身ごもってから、扱いは女房衆と一線を画するものを受けていたのでしょう。

その後、住居に由来する呼称などとともに、既に使われていた「御上様」のほか、「北の御方」「北政所」「御台様」などという呼称が出てきます。
しかも、「北政所」、「御台様」が初めて見えるのは鶴松の没後ですから、茶々姫の地位が鶴松の存在によるものだけではなく、やはり小田原在陣を境に盤石になっているように感じます。福田先生の仰る「小田原での功績」というのは確かに大きかったのかもしれません。

秀頼関係の音信から、茶々姫は鶴松や秀頼の幼いころ、「かかさま」と呼ばれていたらしいことが分かります。
しかし、秀吉がその頃の茶々姫に宛てた名は「かかさま」ではなく「御袋様」。
御袋様」は秀頼の生母を示す公的な呼称といった性質があるようです。
今回は秀吉の没した慶長三年までをまとめたので出てきませんでしたが、『兼見卿記』では茶々姫が普段「御上様」と呼ばれていたことを記しています。
公的には秀頼の生母である茶々姫は「御袋様」と記されていることが多いですが、実際は茶々姫自身を敬って「御上様」と呼ばれ続けていたようです。この「御上様」は茶々姫が鶴松を身ごもったころから使われ続けている呼称で、実は生涯を通して日常に使われていた呼称なのではないでしょうか。


  • 天正十三年
    一月十八日:「ちゃちゃ方」?(兼見卿記)

  • 天正十四年
    十月一日:「茶々御方」?(言経卿記)

  • 天正十七年
    五月二十七日:「淀の女房衆」(お湯殿の上の日記、言経卿記)
    五月二十七日:「淀ノ御内」(多聞院日記)
    五月二十七日:「淀ノ御上」(鹿苑日録)
    五月三十日:「御ふくろ」(お湯殿の上の日記)
    八月二十二日:「淀之上様」(北野社家日記)


  • 天正十八年
    二月九日:「殿下若公御母儀」(言経卿記)
    四月十三日:「よとの物(淀の者)」(五さ〔寧侍女〕宛秀吉音信/妙法院文書)
    五月:「北の御方」(太閤さま軍記のうち)
  • 五月七日:「淀之女房衆」(吉川広家宛秀吉朱印状/吉川家文書)
    五月下旬頃:「大さか殿(大坂殿)」(寧宛秀吉音信/篠崎文書)
    七月十日:「女房衆」(小早川隆景・吉川広家宛秀吉朱印状/吉川家文書)
    七月十二日:「よとの五(淀の御)」(寧宛秀吉音信/箱根神社文書)
    七月十四日:「御上様」(小早川隆景・吉川広家宛長束正家書状/吉川家文書)
    八月上旬:「おちゃゝ」(茶々姫宛秀吉音信/水野文書)
    八月上旬:「両人の御かゝさま」(鶴松宛秀吉音信/寺村文書)
    八月十六日:「御ふくろ」(お湯殿の上の日記)
    九月:「若君様御袋様」(櫻井文書)

  • 天正二十・文禄元年
    三月二十六日:「北政所」(太閤さま軍記のうち)
    四月二十五日:「よとの御前様(淀の御前様)」、「御台様」(平塚瀧俊書状)

  • 文禄二年
    五月二十二日:「にのまる殿(二の丸殿)」(寧宛秀吉音信/米沢文書)
    七月十三日:「大坂御袋」(時慶記)
    七月十六日:「御袋」(時慶記)
    八月三日:「浅井氏女」(時慶記)
    八月三日:「にのまる殿(二の丸殿)」(寧宛秀吉音信/山県公爵家文書)
    閏九月十二日:「二丸様」(駒井日記)
    十月四日:「二丸様」(駒井日記)
    十月二十五日:「おちゃ/\」(茶々姫あて秀吉音信/大橋文書)
    十二月九日:「二丸様」(駒井日記)
    十二月二十六日:「同(御拾様)御袋様」(駒井日記)


  • 文禄三年
    一月二十日:「若公御袋」(兼見卿記)
    一月二十九日:「同(「御ひろひ様」)御袋様」(駒井日記)
    二月四日:「二丸様」(駒井日記)
    二月五日:「二丸様」(駒井日記)
    二月十三日:「二丸様」(駒井日記)
    四月十七日:「二丸様」(駒井日記)
    四月二十一日:「御うへ様(御上様)」(駒井日記)
    四月二十二日:「二丸様」(駒井日記)
    四月二十八日:「御ひろひ様御袋様」(駒井日記)


  • 文禄四年
    三月一日:「御ひろいさまの御袋さま」(大阪城天守閣所蔵中大路甚介宛前田玄以文書)
    五月五日:「おかゝさま」(拾丸宛秀吉音信/前田侯爵家文書)


  • 文禄五・慶長元年
    一月十三日:「伏見」(義演准后日記)
    十二月二日:「御かゝさま」(秀頼宛秀吉音信/安田文書)
    十二月八日:「御ふくろさま」(茶々姫あて秀吉音信/原文書)

  • 秀吉の没する慶長三年まで
  • 慶長二年
    一月十五日:「秀頼御袋」(義演准后日記)
    三月二日:「御袋」(義演准后日記)
    三月二十日:「太閤御所ノ北御方」(義演准后日記)
    三月二十一日:「前関白秀吉公之北御方 江州浅井備前守御息女」(続宝簡集)
    四月二十日:「御上様」(生駒家宝簡集)
    五月十九日:「北政所」?(義演准后日記)
    九月六日:「秀頼御袋」(義演准后日記)
    九月二十四日:「北政所様」(鹿苑日録)
    十月二十六日:「秀頼公之御母儀」(鹿苑日録)
    十二月十二日:「北政所殿」?(鹿苑日録)


  • 慶長三年
    一月十三日:「秀頼御袋」(義演准后日記)
    三月十五日:「にしの丸さま(西丸様)」(太閤さま軍記のうち)
    四月七日:「秀頼御所御袋」(義演准后日記)
    四月二十四日:「御袋」(義演准后日記)
    五月十八日:「秀頼御袋」(義演准后日記)
    五月二十日:「御かゝ」、「かゝさま」(秀頼宛秀吉音信/大阪市役所文書)
    六月八日:「御袋」(義演准后日記)
    七月十一日:「御袋」(義演准后日記)



    十二月三十日:「御台所」(義演准后日記)
    この年:「浅井備前守長政女」(白鬚大明神縁起絵巻・本殿棟札)