寂光院木像に茶々姫を思う | 茶々姫をたどる汐路にて

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寂光院の建礼門院像 についてダイナゴン様のブログを拝見して、早速確認してみました。

確かに土橋治重氏の『平家物語 物語と史蹟を訪ねて 』(成美堂出版、1972年)の寂光院の項に以下の記述がありました。
寺には建礼門院の木像や阿波内侍の張り子の像と伝えるものがあるが、木像は寺の本堂を修理した豊臣秀吉の未亡人北政所の姿であり、張り子の像のほうが建礼門院の姿である、と明らかにされている。

(まず、「明らかにされている」という表現から何かを参考にされているように思うのですが、その出典先が明記されていないのが何より残念です。)

寂光院本堂の修理をしたのは寧ではなく茶々姫です。やはり「豊臣秀吉の未亡人」ということで、茶々姫と寧を混同しているとしか思えません。

茶々姫は、奈良県立美術館の伝茶々姫像と、養源院の「浅井長政卿室」の肖像の二つがありますが、どれも実際の茶々姫の姿を映しているとは言い難いものがあります。

寧や龍の出家姿の肖像に対して、茶々姫は秀頼の養育・後見のために出家は許されなかったともいわれます。しかし、寿桂尼など、夫の死後出家してなお「大方様」と呼ばれ、幼い息子たちを貢献している例もありますので、秀頼の養育・後見の役割と茶々姫の出家しないということを結びつけるのは早計に過ぎるのではないでしょうか。

実際、秀吉の死後に市井で徳川家康や前田利長との再婚説が囁かれたこともありますから、その時点では秀吉生前そのままの姿だったのでしょう。
しかし、雁金屋の注文票の研究で、秀吉の死後(少なくとも慶長六、七年頃には)寧や茶々姫は、揃って赤系などの鮮やかな色目の衣装を避けていた傾向が見られるそうです。出家剃髪とまではいかなくとも、落飾していた可能性が伺われます。

現在茶々姫の肖像と言われている画像は、二つとも鮮やかな赤色の入った衣装を身にまとっています。
画像は秀吉生前の茶々姫の姿には見えませんし、やはり生前に実際の容貌を描かせたというのではなく、秀頼肖像のように死後想像で描かれたもの、もしくは別人の肖像ということでしょう。

淡交社『寂光院』によると、秀吉病没の翌年、慶長四年から四年にかけて、茶々姫の寄進で本堂などが再興されたそうです。

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もし、茶々姫の容貌をモデルに建礼門院の像をつくったということではなく、「本堂を再興した豊臣秀吉の未亡人」そのものの像であるのならば、慶長の早い段階での修築であるにもかかわらず木像が尼姿であるのは興味深いところです。

平成十二年の火災で当時の木像を含め全焼してしまったのが本当に残念です。
現在は新しく建礼門院と阿波内侍木像が造られていますが、これは焼失前のものを再現されているものなのでしょうか。現在の建礼門院木像は、かなり端正な顔立ちでしたが…

焼失前の木像、画像ででもどこかに残っていないものでしょうか…