今回は茶々姫からちょっと離れて大谷吉継の母と妹について。
『時慶記』、『兼見卿記』で見つけた記事からいろいろ勉強させていただきましたのでまとめておきます。
(2010/12/13-14)
文禄・慶長年間の兼見卿記が届いたので見ていました。「東殿御祓、同子息形部少輔…」これが東殿が大谷吉継の母であるという説の根拠なのかな?後に妹さん(「ひかし殿息女廿五歳」)も出てきます。文禄四年時点で倉の責任者だったようですが、盗みに入られて責任問題になったようです。
posted at 23:16:39
兼見卿記で見つけた大谷吉継の妹、普通に『時慶記』に登場していました。名前は「こや」さんというそうです。大坂城で倉の管理をしていた人ですが、関ヶ原合戦の後、母東殿とともに捕らわれの身となったらしい…
posted at 23:53:52
(リプライにて『華頂要略』に「大谷刑部少輔妹コヤ」、太宰府天満宮に寄進された鶴亀文懸鏡の銘に「願主同 東・小石・徳・小屋」と出てくる旨教えていただく。)
@ そうなんですか!また『華頂要略』をチェックします。ありがとうございます。『時慶記』ではひらがなで「こや」でした。「小屋」と記すのですね。母・息子・娘そろって豊臣家に仕えていたんですね。
posted at 00:26:25
@ これを拝見すると、小石、徳も大谷家の娘さんのように見えますね。こちらこそ勉強になります。
posted at 00:37:44
@ わざわざありがとうございます^^東殿の娘としてではなく大谷吉継の妹として書かれているんですね。
posted at 14:03:11
『幸家公記』にも小屋(「こや」)さんが出てきました。東殿の娘で、秀吉に仕えていたということが書いてあり、元和九年には秀勝の生母日秀(「瑞竜寺殿」)のもとに身を寄せ、ここで忠栄と初対面していました。
posted at 10:41:42
はじめ、『時慶記』に「東殿コヤ」と続けて記されていたため、東殿の名前が「こや」なのかな…?と勘違いしていた時期がありました(汗)