スキなものだから残念に思った。遺憾の意を表する、そんな感じ。

こんにゃくが好きで、やっぱりこれも好き、蒟蒻畑。製造中止を聞いて、無くなる前にと買い集めに行った。


子どももお年寄りも年齢に関係なく誰だって、美味しいものが食べたいし、食べたいものを食べたい。当たり前。
食べた方、食べさせた方を悪いと、個人的には本当は言ってしまいたいけど、食べたい物を食べるのは当たり前のことで、注意書きがあったからってそれを見ずに食べさせた方をただ悪いと言っていいのか分からない。

危ないものだって認識は自分としては薄かったかもしれない、子どもでもお年寄りでも無い自分は、危ないと思ったことが無い食べ物だから。
でも、子どもとお年寄りは食べないで、と食品としては制限して注意喚起しつつ販売してたメーカーだけを責められないようにも、思う。



危ないものを遠ざけることが、果たして守ることになるんだろうか。



怪我の危険性があると言って今では撤去された遊具で昔、自分らは遊んで来たし、それと共に育ってきた。
大小の怪我をしょっちゅう作って、泣く目に遭っても、次の日にはその怪我をしたものでだって遊んだ。
怪我をする可能性を身を以て知ってて、怪我をしないような遊び方を覚えて行った。

危ないものなんかそこいらじゅうに溢れてて、その中でどうやって怪我をしないで遊ぶかを、そんな深い考えもなしに自分の中で築き上げていった。

そういうものじゃ無いんだろうか。

遊具で亡くなったりした子どもが居なかったから言えるのだと言われれば確かに、でも、大きな怪我は割合にあったし、そのことが当たり前だと思ってた。身の回りにあるもの全て、危ないんだと分かってた。だからこそ怪我だけで済んだんだろうし、怪我をするもんだと思っていたから、怪我をしたって自分も周りの大人も驚かなかった。注意が足りないと、怪我をしたことを怒られはしても。

(あ。当然ながら遊具の製造メーカーの、危険を無くす努力を不要だと言ってるのでは全く無く。またメンテナンスなんかを怠ったりするのは言語道断だとも思ってる。その上で、のこと)


火は危ないから、なんて遠ざけたとして、火を全く使わずに生活出来るだろうか。
遠ざけた結果、危険性も付き合い方も知らないで不意に火と遭遇した時、対処出来るのだろうか。
危険性を考え付くあらゆるものを排除していったら、何ひとつとして残らない。ひとだってひとに危害を加える可能性があるから、ひとさえも残らない。



危険性のあるもの程、保護者なり教育者なり、年長のもの、周りのものが一緒に居ながら小さい内からその危険性と付き合い方を教えるべきなんじゃなかろうか。


大事だからと言って、知り得られた筈のものを遠ざけ、与えない権利なんてあるのかな。
大事にすると言うことは、そんな一方的なものなのか。



命を軽んじるつもりは無いんだけれど、余りに、マスメディアに煽られ過ぎていないかと不安になる。
危ないものに近付いて欲しくない、怪我なんて、ましてや命を落とすなんてことの無いようにと願うその思いは尊いと思うからこそ、大事に慈しむことの方法を考えて欲しいと思う。