ジキです。

 

被控訴人の準備書面1が届いてから、

準備書面(2)及び(3)を書いたので、

今週は頭がヘロヘロでした。

職場でも失敗多数で

頭が疲れているときはほんとダメですね。

トホホホ―ですチーン

 

さて、

今日は職場の出来事について書きます。

所属する学校で本校にいた時、

校長も教頭も尊敬できるような人物はいませんでした。

昨年、

本校から離れた今の職場で、

なかなか頭の切れる、

自分の言葉を持っている教頭がいたので、

管理職にも賢い人がいるんだなと思っている矢先、

今年度は新人の教頭が来ました。

 

配置された当初、

職場になかなか凄い老講師がいて、

なかなか指示に従わなくて、

その教頭が困っていたので、

年齢的に強く言えないのはお気の毒と思いながら、

老講師にやんわり苦言を言ったりもしてフォローしていました。

 

ですが、

契約が切れてその老講師がいなくなってからは、

マウント取ろうとしてくることが

嫌に鼻につくようになってきた今日この頃です。

 

  学習指導要領至上主義

先日、

学校研究の方針について話し合いがありました。

 

担当者の説明があって、

それに対してジキが意見を述べた時に、

「この考え方は儒教をベースにしている。」と指摘しました。

そうすると教頭はすかさず被せてきて、

「学習指導要領です。」と言ってきました。

 

なので、

もう一度「儒教をベースにしています。」というと、

「学習指導要領です。」と言っていました。

 

この手の輩って、

学習指導要領至上主義で、

その内容を自分の言葉で解釈しようとすることを

嫌う傾向にあって、

自分の言葉で説明しようとすると、

否定してくる傾向にあります。

 

そもそも、

過去の思想や哲学を無視して、

文科省職員が独自のアイディアで

学習指導要領を作っていると思っているのでしょうか?

そんなわけがあるわけないですよね。

 

仮に儒教をベースにしていなかったとしても、

儒教の観点で解釈しようとすると分かりやすい、

だとか、

デカルトの観点で、

デューイの観点で、

などなど自分が内容を理解するときに、

何を軸に解釈しようとしたかを明らかにして

議論することは意味がありますよね。

 

そういう意味で、

学習指導要領至上主義者たちは、

自分という軸を持っていないのは明らかです。

だから、

管理職に尊敬できるような人間がほとんどいないのです。

 

  自由に議論させない

儒教をベースにしていることを指摘して、

だから、

この研究は道徳の側面があると主張し、

人間関係の中から自分の役割を果たすことで、

他者に感謝されるとか、

人の役に立っているという経験が、

個の確立の形成に貢献し

ウェルビーイングに繋がるんだと説明しました。

 

それに対して担当者は、

そこまで考えていなくて、

成功体験が自己肯定感に貢献し、

新たな挑戦ができると考えていた

と返してきました。

 

その点に関しては、

ジキは昨年度それをテーマに試行錯誤していて、

(学校研究で提案しても無視されたから独自にやっていた)

知的の子供たちが新たな挑戦に挑むことを

拒む傾向にあることが分かっていました。

何故なら、

知的の子供たちは、

常に自分ができないことを思い知らされる

経験を繰り返してきており、

「できない」ことを極端に嫌がるからです。

新たなことに挑戦する、

新たなことを学ぶことに挑むためには、

現状それができない自分がいることを

認識しなければなりません。

それに挑戦するためには、

自分が何ができて、

何ができないことを認識して、

できないことをできるように努力しなければなりません。

 

その過程で、

自分ができないと分かると、

その活動に取り組まなくなることを、

何度も経験しました。

 

そこからやる気を促して、

活動に向かわせるにはどうしたらよいかは、

今もジキのテーマでもあります。

 

脇道にそれましたが、

担当者にその旨を伝えました。

知的教育では、

新たなことに挑戦させることは難しい、

だから、

感謝されるとか、

人の役に立っている経験を通して、

子ども達が主体的に活動できることを示す方が

やりやすいことを説明しました。

 

実際、

ジキは儒教の考えを取り入れて授業を組んでみて、

人の役に立っていると実感できる活動を仕組むと、

子ども達は生き生きと活動することを確認しています。

 

その話をすると、

教頭が話を遮ってきて、

「別にここでまとめる必要がない」と言い始めました。

研究一年目なのだから、

例え結果が出なくても、

その方法では結果が出ないことが分かりましたでいいんだと。

今ここで、

何をすると上手く行くとかまとめる必要がないと言っていました。

 

別に、

ジキの取り組みを追実験して、

本当にジキの主張の通りになるのか確認することは、

間違いではないと思います。

でも、

それは普段の授業で確認すればよいことで、

授業研究発表でそれをすることに意味があるでしょうか?

失敗することが分かっていることを、

わざわざ人前で失敗して見せることに意味があるのでしょうか?

 

寧ろ、

ジキの説明を普段の授業でやってみて

自身の経験から自分の言葉で

その担当者が説明できるようになるべきだと思います。

 

それはともかく、

学校研究あるあるなんですけども、

自由に議論できないのです。

特にジキのような、

根拠示して独自の意見を言うと、

この教頭のように話を遮ってくるんですよね。

いつもそうです。

 

  現状認識のなさ

今回、

この記事を書こうと思った

主たる理由となったエピソードです。

 

この研究の話し合いの後、

ウェルビーイングってなんだ?

みたいな雑談を教頭中心にしていたので、

それは戦後教育の永遠の課題で、

個の確立に日本は失敗し続けてきた。

だから、

ウェルビーイングが課題になるのだ。

と話しました。

 

すると、

教頭は「それは極論だ」と言ってきました。

なので、

極論ではない。

事実だ。

だから、

日本はこんな酷い国になったのだ。

何処に自律した人間がいますか?

と教頭に問うと、

教頭は、

「それは答えられません。」と言っていました。

 

正直、

社会が功利主義で汚染されていて、

今だけ、金だけ、自分だけがはびこっています。

政治家は反日売国ばかり。

静かに外国からの侵略を受けていて、

放置していればそのうちにこの国が消えてしまう、

そんな危機がある状況で、

戦後教育がそれにどのように加担していたのか、

教師は認識するべきでしょう。

 

上に批判する態度はよろしくないという色眼鏡で

様々なことから目を逸らすことを

心から止めて欲しいと思います。

 

それこそ、

教師が子ども達に新たな挑戦をさせたいなら、

教師も現状の問題点を正確に把握し、

改善しようと挑戦して欲しいものです。

 

  内面を見る

その後、

教頭が子ども達の内面を読み取る研究をしたことがある

という話を始めて、

如何に難しいかを話し始めました。

色んな見方があるんだと。

何が正解なのかわからないから難しいと。

 

それを聞いて何を言っているのだろうと思って、

子ども達の内面を読み取ることは当たり前だと。

自分は普段からやっている。

子どもがなぜ子ども達がこの行動を起こしたのだろう?

と考えながら支援している。

それが正しい解釈かどうかは脇に置いておいて。

と言うと、

教頭は黙っていました。

 

ジキ的には子供の内面を予測しないで、

適切な支援はできないと思っていたので、

正直、

教頭のこの話は意外でした。

 

でも思い当たる節はあるんですよね。

授業中、

教頭がやってきて子ども達に話しかけるんです。

なんの教育的意図があるのか分からないような話を。

時には、

ジキが狙っていることを台無しにするような声掛けをすることもあり、

正直迷惑なことも多々あるのです。

 

だから、

この教頭は子供たちの内面なんて考え無しに、

仕事してきたんだろうなぁと思うのです。

 

  すいません

今回は愚痴の連発でした。

すいません。

 

職場ではもっともっと自由に議論できたらいいなと思います。

批判的な意見はよろしくないという空気が充満している中で、

教師達がお利口さんな意見しか言えない、

自分の言葉で考えを述べられない。

たまに批判的な意見が出たと思えば、

根拠のない感情論だったり…

 

もっとまともな意見を出し合える職場環境があれば、

教育現場はもっと成果が出せると思う今日この頃です。

 

では、

今回はこの辺で終りにします。

最後までお読みいただきありがとうございました。照れ

また、お会いしましょうニコニコ

したっけねーパー笑い