ジキです。

 

前回は「自分勝手は自由か?」という問いに答えるために、

自由について丁寧に考えてみました。おねがい

 

自由とは自分しか存在しない世界では意識する必要がなく、

他者が存在するときにはじめて意識されることが分かりました。

デカルトやカントなどの議論では、

個人の自由を前提に議論が始まり、

他者の存在が自分の自由を制限すると考えました。

しかし、

自分の存在も他者の自由を制限しています。滝汗

 

結局、

自分しか存在しないという空想世界で謳歌できる制限のない自由は、

他者が存在する現実世界では実現できず、

お互いに自分が自由であるためには、

自分の自由も相手の自由も制限されなければならないことが分かりました。照れ

 

権力者から自由になりたくて、

個人の自由を制限する権力から解放されようと、

何が自由か、

どうすれば自由になるかを議論してきた結果、

哲学が得た結論は

自分も相手も自由を制限するというオチになりました。てへぺろ

 

そこで問題になるのは、

どの自由を制限すればよいのかという線引きです。

 

  ヘーゲル

上でも述べたように、

デカルトやカントは、

人間は個人であり個人の自由について議論しました。

それに対して、

相手がいる前提で議論したのがヘーゲルです。

 

ヘーゲルは『精神現象学』という超難解な本を書きましたが、

ジキは読む前から断念して、

斎藤幸平さんの『ヘーゲル 精神現象学』を読みました。

 

また、

苫野一徳さんの『”自由”とは何か』も分かりやすいです。

 

弁証法

弁証法とは2つの矛盾する対立した主張を、

相手を論破したり忌避するのではなく、

相手の主張を認め、

自分の主張に間違いがある可能性を吟味することで、

良い考えは残し、

悪い考えを排除しながら、

より高い知を得る手法です。

 

例えば、

主人と奴隷を考えます。

主人は身の回りの世話を奴隷に任せることで、

自分の好きなことができます。

この意味で主人は自由です。

しかし、

主人は奴隷に依存しているため、

主人は自分の身の回りのことを自分でできません。

この意味で主人は不自由です。

 

このことから、

「主人の自由は不自由である。」と言えます。ニヤリ

奴隷についても同じことが言え、

「奴隷の不自由は自由である。」と言えます。びっくり

 

主人と奴隷がともに自由であるためには、

主人と奴隷が同じ立場にならなければなりません。ニコニコ

主人は自分の好きなことをする自由に制限をかけて、

自分の身の回りのことをする時間を作る。

奴隷も主人の身の回りの世話をすることを止めて、

自分の好きなことをする時間を作り、

自分の身の回りのことをする。

 

以上の議論から次の3つの結論が得られます。

  1. お互いがともに自由であるためには、お互いに同じ立場にならなければならない。
  2. 相手が自由であるためには、自分の自由を制限しなければならない。
  3. 自分が自由であるためには、相手の自由を制限してもらわなければならない。

 

相互承認

個人の自由という理想を求めて、
特に西洋人は相互に対立してきました。
この闘いを終わらせるための考え方は、
「生きたいように生きたい」と考えるのは自分だけでなく、
相手も「生きたいように生きたい」と考えていることに気付くことでした。
そこでヘーゲルは、
自分も自由であり、
相手も自由であることをお互いに認め合うことが大事だと考えます。ラブ
 
これを「自由の相互承認」の原理と言います。
お互いに自由を求めていることを認め合うことで、
自ら自分の自由を制約し、
他者からの制約を受けることなく自由になることができます。

 

弁証法で得た主奴の自由に関する結論を実現するためには、

「自由の相互承認」が必要です。

 

制約の線引き

さて、

前回の最後の問いについての答えが出ました。

つまり、

何処で線引きをするか。

それはヘーゲルの考え方から言うと、

「相手の自由を侵害するかしないか」で線引きすればよいことになります。ニコニコ

 

言い換えれば、

相手の自由を侵害する行為を自らに制限を課せば良いことになります。爆  笑

 

  相手の自由を侵害しなければ何をしてもいいのか?
 

下の画像は東京都知事選のポスター掲示です。

NHK党はこのポスター掲示をビジネスにして、

ポスター掲示の枠を売り、

枠を購入した人が作成したポスターをその枠に貼りました。キョロキョロ


 

これは違法ではありません。

違法ではありませんが、

違和感でいっぱいです。

違法でなければ何をしてもいいのでしょうか?プンプン

 

同様に、

相手の自由を侵害しなければ何をしてもいいのでしょうか?チュー

 

  朱子学

朱子学とは儒教の中の数ある学派の中の

一つの学派です。

 

日本では徳川家康が朱子学を好んで学びました。

朱子学は、

江戸時代の武士が個を確立し、

自律した人間へと高めるために大きく貢献しています。

それだけでなく、

江戸時代以前は上級階級が学問を独占していましたが、

家康は身分に関係なく儒教を一般に開放したので、

町民の教養を高め個の確立に貢献しました。おねがい

 

その一方で、

儒教は身分を固定化し個人の自由を侵害するとして、

明治維新後、

明治政府の欧化政策により儒教は否定されてしまうことになります。ガーン

その結果、

「自分探しの旅」という言葉に象徴されるように、

現代人は個の確立に迷っている人が多数います。ショボーン

 

そんな歴史を持つ朱子学ですが、

敢えてこの自由の問題に朱子学を用いて考えてみたいと思います。

 

朱子学を理解するのに、

この大場一央さんの『武器としての「中国思想」』を読みました。

 

理気二元論

朱子学では、

人間が認識できるものは「気」で構成されていると考えます。

それぞれの「気」にはその存在の根拠を与えるもの、

もしくは筋道を与えるものを「理」と呼びます。

 

例えば、

目の前にコップがあるとすれば、

このコップ自体は「気」です。

そして、

このコップの「理」は「飲み物を入れて飲むためのもの」となります。

この時、

このコップを使ってお茶を飲めば、

このコップの気が理に近づいたと考えます。

一方、

このコップを使って他人の頭を殴れば、

このコップの気は理から離れると言います。

 

以上を踏まえた上で、

朱子学では万物には必ず「理」があると考えます。

コップのように明らかに分かっているものから、

科学における真理のように、

まだ解明されないものまで、

全てにおいて正しいと言える「理」があるとしています。

 

性即理

人間の心も理気の関係があると朱子学では考えました。

人間の心で「気」に相当するものを「情」といいます。

これはそれぞれの人間の心のことです。

 

そして「理」に相当するものを「性」と言います。

これは絶対的に正しい心です。

何が絶対的に正しい心なのかを言葉で表現することは困難です。

状況や時代、文化によっても変化します。

ですから朱子は性が何であるかを言いませんでした。

その代わりに、

それぞれ個人は自分の情を性に近づけるために、

経書を読んで学び続けるように言いました。

 

性が何であるか分からないというのは重要で、

学問の修養にゴールがないということです。びっくり

死ぬまで学び続けることになります。照れ

 

ヘーゲルも同様の議論をしている

実は朱子学で議論していることは、

ヘーゲルも言葉を変えて同じような議論をしています。

ここで、

ヘーゲルの議論だけで説明しても良かったのですが、

ジキは朱子学の方が理解しやすかったので、

今回は朱子学を紹介しました。

 

選挙ポスターの枠を売ることは「理」に適っているか

さて、

話を戻します。

選挙ポスターの枠をビジネスにすることは「理」に適っているでしょうか。

 

これは多くの人が否定するでしょう。プンプン

一部の人は賢いと思うかもしれません。ニヤリ

人それぞれです。

ですが、

政治家とは国民や住民の幸せを最大化するために働く職種です。

そして、

武士がそうだったように住民の手本となる生き方をするべきだと強く思います。

我欲に生きるような政治家がいるから、

住民も我欲に生きるようになり、

社会が壊れていくのです。

それは中国史を見れば明白です。プンプン

我欲を抑えて自己を律することができない政治家は、

政治家になるな!ムキー

他所でビジネスをしていろ!と心の底から思います。プンプン

 

ですから、

違法でなくても、

「理」に適わないことは行為はするべきではないでしょう。

そこは自制するべきだと思います。ニコニコ

 

他者の自由を侵害しなければ何してもいいのか?

以上の議論から、

例え他者の自由を侵害しなくても、

「理」に適わないことは自制すべきだという考えに至ります。

 

  何が理に適っているというのか

「理」に適わないことは自制すべきだという考え方は、

言い換えれば、

「理」に適うことをしたほうがよいということですから、

前回説明した「積極的自由」と同じように思えます。

 

ですが、

微妙に異なります。

何故なら積極的自由とは道徳的義務に基づいて行為する自由でした。

デカルトやカントの道徳的義務は「~すべき」という明示的なものでした。

例えば、

「嘘をつくべきではない」などです。

ですが、

それは状況によって「理」に適わない時があります。

例えば、

友だちを守るために自分の部屋にかくまっている場合、

友だちを連れ去ろうとしている輩から、

友だちの居場所を言うように求められたとき、

正直に応えれば友だちに危険が及びます。

この場合、

「嘘をつくべきではない」という道徳的義務は合理的ではないことになります。

 

要するに、

「理」は状況によって変化するのです。

どんな行為が合理的なのかについては、

その都度その都度判断しなければなりません。

 

その判断は独り善がりでは自己満足に終わり、

必ずしも合理的な判断になるとは限りません。

自分の判断がより「理」に近づけるために、

朱子学が言っているように学び続けるしかありません。

つまり、

学び続けることが自由に繋がる

ということだと思います。

 

各自の情を性に近づけることが

自分と相手を自由にさせるのです。ウインク

 

  誰もが自由に生きるために

以上の議論から、

状況に応じて何が「理」に適っているかを判断しながら、

自分が正しいと思うことを各自が行うことで、

誰もが他者から自由を侵害されることなく、

そして、

誰もが他者の自由を侵害することなく、

誰もが自由に生きられる、

ということになります。

 

ヘーゲル的に言うと

「自由とは自己を律すること」

となります。

 

  自由から生き方へ

西洋哲学の自由論は小難しい議論をした挙句、

自由とは何かを明らかにし、

どのような自由が許され、

どのような自由を制限するかを明らかにしました。

 

しかし、

そこまでです。

自分の自由を考えることで終わっています。

 

どういうことかというと、

最後に導いた「自己を律する」というのは、

自由かどうかの判断というより、

行為をするかしないかの判断であります。

ですから、

「自己を律する」というのは自由論の範疇というより、

「生き方」論だと思うのです。

 

儒学の考え方は、

自己を律し利他の精神で自分の役割を果たす。

武士道の考え方は、

死に物狂いでそれをやり遂げる。

その事が、

個の確立を促し、

それだけでなく、

安定した社会を形成し、

引いては安定した国家を作ります。

 

自由論のように、

自分が自由であるために、

他者の自由を侵害しないといった消極的な議論ではなく、

「生き方」論は、

個の確立や国家を形成するという積極的な議論なのです。

 

  「やりたいことをやりましょう」は奴隷の道徳か

『大人の道徳』では、

「やりたいことをやりましょう」は奴隷の道徳であると結論しました。

この議論は、

デカルトの主張を出発点にしています。

しかし、

上述のように、

デカルトの前提は個人をベースにしており間違っていました。ガーン

 

そこで、

ヘーゲルの議論からこの命題について考えてみると、

「やりたいこと」の裏には、

「相手の自由を認めた上で」という条件が付き、

「やりましょう」の裏には、

「理に適ったことをしましょう」があると言えます。

 

纏めると、

「やりたいことをやりましょう。」の裏には、

「相手の自由を認めた上で、

自分のやりたいことの中から理に適ったことをしましょう。」

があるということになります。

 

そうではない、

際限のない「やりたいことをやりましょう。」は、

誰かの自由を制限する、

社会を壊す道徳だと言えます。

 

また、

「生き方」で議論すれば、

単なる「やりたいことをやりましょう。」は、

自分探しの旅に出ることになるだけでなく、

国家を迷わす道徳であると言えます。

 

教育は本来のあるべき姿に戻るべきだと思います。

「やりたいことをやりましょう。」のような無責任な言葉足らずの道徳を止めて、

「利他の精神で自分の役割を果たしましょう。」と

子供たちに教えるべきです。

それが子ども達の個を確立するだけでなく、

安定した社会や国家を形成するのです。

 

勘の良い方なら、

この「生き方」の議論が、

民主政に繋がることに気付いたのではないでしょうか。

 

  まとめ

今回はヘーゲルの議論から始めて、

自分の自由を守ることは相手の自由を守ることと同義であり、

「自由の相互承認」が必要であることが分かりました。

 

しかし、

哲学的な自由論は、

自分の自由を議論することで終わっており、

自由論から「生き方」論へ考え方を広げるべきであることを述べました。

 

この「生き方」論こそ、

民主政を実現する鍵になるとジキは考えます。

 

今回は、

ここまでにしたいと思います。

最後までお読みいただきありがとうございましたウインク

また、お会いしましょう照れ

したっけねーパー笑い