ジキです。

 

今回は、

「ぱりのだいどころ」さんの

X上のポストで、

色々と考えさせられたことについて

書きます。

 

  事の発端

 

 

お子さんが同級生に顔面を蹴られて鼻時を出したという事件です。

これだけでは状況はよく分からないのですが、

お子さんはただ座っていただけだと言います。

 

 

しかも、

蹴ったことを認めず、

謝りもしないという状況のようです。

 

  学校は対応できなかった

 

この状況に対して学校がどのように対応したかですが、

うまく対応できなかったようです。

 

 

詳細な状況が分からないのですが、

担任がこのトラブルの収束を図れなかったのは、

相手のお子さんが認めなかったからのようです。

 

 

この状況で自分が担任だったらどうするだろうか?

かなり考えさせられました。

 

目撃証言や明らかな証拠があれば、

加害児童に暴力を認めさせ、

反省を促すことを考えます。

 

ですが、

目撃証言も証拠もなければ、

何もできないだろうと思います。

 

確かな証拠もないのに子どもに対して

「嘘をつくな!」なんて言えないです。

教育現場ですから。

 

そう考えると、

学校の限界を感じずにはいられません。

 

学校に警察を入れるのか!

と違和感を抱いてしまうのは、

私が金八先生の時代の人間だからかもしれません。

 

もう、

学校が教育の力でなんでも解決できるなんて事、

最早妄想なのかもしれない。

 

実際にいじめで苦しんでいるお子さんたちが、

全国の至る所に居て、

学校で解決できていない事例ばかりです。

 

教育の力で何でも解決できると思うのは、

教師の思い上がりかもしれません。

我々にはそんな力はないのだということを、

認識するべきなのだろうと、

今回の事件を通して考えさせられた次第です。

 

  学校は無力か?

 

では、

子供達の間で起こる全てのトラブルを

学校は指導を放棄して警察に委ねるべきなのでしょうか?

 

この答えは明らかですね。

それは暴論です。

 

この事件の被害者の保護者の方も

次のように仰っています。

 

 

私も同感です。

自分の子供がトラブルに巻き込まれたとき、

何でもかんでも目くじらを立てないだろうし、

相手が反省して謝罪しているなら、

尚更です。

 

学校で解決できることは、

加害児童生徒が自分の間違いを認めることができる

状況に限られるのかもしれません。

 

我々教師は捜査権を持っていませんから。

 

このことを我々はしっかりと理解するべきなのでしょう。

我々は教育のプロであって、

事件の捜査に関しては権限すらないことを。

 

こう書くと、

一部の方から教育の放棄だとか言われそうですが、

繰り返すようですが、

学校は完璧なシステムではなく、

限界があるのだということを理解すべきだということですね。

 

それを理解しないことで、

子供達が不幸になっている現状を、

まず我々教師が理解しないといけないのだと思います。

 

  それにしても管理職の対応は呆れる

 

学校には限界があると、

言い訳にも取られかねない話をしました。

それ故に、

当該学校も収束させることができなかった。

そのため、

保護者の方は警察に通報して事件の解決を図った。

 

この流れに対して管理職の対応は次の通りでした。

 

 

管理職は「聞いてないです」と答えたそうです。

この聞いていないレベルが何処までなのかは

想像でしかありませんが、

全く聞いていないということは有り得ないでしょう。

 

警察沙汰になっているのに、

担任が教頭に報告していないことは有り得ないし、

教頭が校長に報告していないことも有り得ません。

 

寧ろ、

校長は担任を呼び出して詳細を聞くのが、

通常だと思います。

 

なのに、

聞いていないというのは、

正直、

不思議でしょうがないです。

 

そこで、

保護者の方は教育委員会に連絡したそうです。

 

 

教育委員会から学校に問い合わせがあって、

すぐさま、

校長が担任に確認したとしても、

5分でできるとは到底思えません。

 

 

校長がきちんと謝罪されたそうだから、

余計な憶測を書くことは避けたいと思います。

ですが、

いつも学校ってこのような対応ばかりで、

うんざりします。

 

批判を浴びないようにという意図が見えてしまうのですが、

学校も適切な対応をしていると自負していれば、

毅然としていればいいのです。

「聞いていない」なんて責任逃れのような

知らないふりなんてする必要ないんです。

(本当に知らなかったのかもしれませんが)

 

適切な対応をしたと考えていても、

足りない面があったのなら、

それを認めればいい。

場合によっては、

責任を取らされることもあるかもしれない。

でも、

自分達でできる限りのことをして、

結果そうなったならば、

それは仕方のないことだと思います。

我々はそこで学べばいい事だと思うのです。

 

脱線しますが、

感染症の問題に取り組んでいて感じるのは、

法に則ってやっているというだけで、

自分達がしたことに何ら責任を持つ気持ちなど欠片もなく、

責任を取ろうとしない大人達に出会うことに、

日々呆れる事ばかりです。

 

中学校では道徳が教科になって久しいのに、

道徳的な学校に出会うことが稀なのは

どういうことなのでしょう?

 

  警察の対応

 

さて、

保護者の方が通報した結果、

事件はどうなったのでしょうか。

 

 

警察が来て聞き取りが行われたようです。

 

 

その結果、

目撃証言が3件得られたようです。

 

警察の前では、

チクったら…

という判断よりも、

警察には嘘は言えない、

という判断が優先するのでしょう。

 

今回は警察が介入したので、

目撃証言が得られたようで、

聞き取りは学校がしたそうです。

 

この点も捜査権のない学校の限界の一面だと感じます。

 

 

目撃証言があっても、

被害児童は認めなかったようです。

 

理由は想像するしかないですが、

その子はその子なりに何かを守っているのかもしれません。

悲しませたくない対象があるのかもしれません。

 

これも想像ですが、

その子が守っている対象が、

嘘をついてはいけない、

認めるべき過ちは素直に認めて、

謝るべきは心から謝罪することが正しい、

という価値観を持っていれば、

きっとそのお子さんは、

他の証言と食い違うことはなかったと思います。

 

子どもだから、

最初は「やっていない」と言ってしまったとしても、

それは間違っていたと気づいただろうと思います。

特に教師の前ではなく、

警察の前であれば尚更のように思います。

 

 

恐らく、

私が担任の立場だったら、

警察が介入した時点で、

自分の不甲斐なさを恥じることでしょう。

かなり落ち込むし悩むと思います。

 

ですが、

ぱりのだいどころさんの取った行動は

当然であり適切な判断だったと思います。

 

理由は、

繰り返しですが、

学校も教師も限界があるからです。

 

今回の件はすごく考えさせられました。

 

学校も教師も自分たちの無力さを理解して、

(無能ではない)

警察が介入することを恥じるのではなく、

警察が介入した後のことを、

教育で何ができるのかを十分に考えるのが、

恐らく正解なのだと考えます。

 

  教育は何ができるのか

 

その後どうなったのかは分かりませんが、

警察でも認めなかったお子さんのことを考えると、

彼をこのまま犯罪者にしないように、

学校ができることがあると思います。

 

もう、

目撃証言があるのだから、

後は本人が認めるだけです。

 

想像で申し訳ないですが、

彼がなぜ認めないのか、

彼が何を守ろうとしているのか、

固く閉ざしている彼の心の扉を開く鍵を持っているのは、

教育のような気がします。

 

そうじゃないかもしれませんが、

そうであって欲しいと思います。

 

 

ここは学校の指導力に期待したいところです。

加害児童を犯罪者にしないためにも、

彼が自分から謝罪できる環境を作って欲しい。

そのように教育の力で促してほしい。

そう思います。

 

  通知の徹底

 

文科省は悪質ないじめは警察と連携することについて

通知を出しています。

 

 

それでも学校に警察が介入することは、

管理職や教師達の様々な思いがクロスして

抵抗があることでしょう。

 

ただ、

この件に関しては不思議なことがあります。

 

感染症対策では通知は絶対でした。

感染症対策の通知の内容は、

義務ではなかったにもかかわらずです。

ですが、

いじめに関する通知は徹底されていないようです。

 

私は今回の裁判で、

通知と異なる対応を取る教師はあるまじきと判決を出されました。

ですが、

通知によっては徹底されないものがあることが、

この件で分かります。

 

  法の限界

 

感染症といじめ、

何が違うのでしょうか?

 

感染症は感染症法に規定されています。

一方、

いじめは法に規定されていません。

 

ですが、

感染症は存在が未だに証明されていません。

一方、

いじめは現実に存在しています。

 

にもかかわらず

感染症対策は徹底され、

いじめ対策は徹底されない。

 

法に従っていれば、

現実がどうであろうとも

責任を取らされることはない。

そんな声が聞こえてきそうです。

 

学校にも限界があり、

法にも限界がある。

人間は完璧なシステムを作ることができないようです。

 

だから、

理想が必要なのでしょう。

理想のない法治システムは、

現実を見ない国民を縛るだけの

不道徳なシステムになるのでしょう。

 

それは学校の校則がいい例ですね。

 

これは、

人間が作るもの全てに言えるのだと思います。

科学も、

民主主義も、

何もかもが完璧ではなく、

理想なきシステムは人間を苦しめるだけの

形骸化したシステムになるのだと思います。

 

そんなことを今回の事件で考えさせられました。

 

今回はここまでとします。

最後までお読みいただきありがとうございました照れ

また、お会いしましょうデレデレ

したっけねーパー笑い