ジキです。

 

ご無沙汰しております。

準備書面を書くのに時間を取られて他のことができませんでした。

 

今回は、

準備書面を書くにあたって新たに得た情報から、

疫病は大衆支配を目的に作られ現代も利用されているという

話をしたいと思います。

これは以前からこのブログでも紹介している

Kate Sugak氏の主張ですが、

この説が正しいという前提で、

そして目の前で起きている疫病騒ぎの中の

様々な出来事の意味について考えていきたいと思います。

 

  疫病大衆支配目的説

 

これはKate Sugak氏の動画「天然痘の真実」で主張されている説です。

 

 

復習になりますが、

古代ギリシャから疫病は大衆支配に利用され、

疫病は「病気の悪魔」が原因と考えられ、

疫病とされたものは穢れているとして「悪」とみなされ排除の対象でした。

それが中世まで続き、

教会の信用が落ちてくると、

司祭の役割を医者が担うことになります。

それに伴って、

「病気の悪魔」は「病原体」へと形を変え、

現在では「ウイルス」と呼ばれています。

 

  疫病は科学を纏った

 

疫病の原因が「病原体」へと形を変えた際、

疫病は科学の対象になりました。

いや、

正確に言うとなったように見えました。

疫病が「病気の悪魔」のような迷信ではなく、

科学的な根拠に基づく病態であると考えられるようになったということです。

 

しかし、

パスツールの病原体仮説は嘘でした。

ウイルスも未だに存在が確認されていません。

 

  科学は疑うことで発展する

 

科学は真実ではないことは皆さんが認めるところでしょう。

真実へと近づく過程であって、

常に間違いを含んでいるのが科学です。

ですから、

科学は常に批判を受け、

更新され発展し真実に近づくのです。

 

ですが、

科学を真実だと誤解している人が大多数ではないでしょうか。

教科書に書いてあることは正しいと。

それを批判するのは頭がおかしいと。

 

しかし、

科学が真実であり批判することが許されないことになるのであれば、

それはもはや科学ではなく宗教になります。

繰り返しになりますが、

科学は間違いを含んでいるから科学なのです。

 

  疫病は科学なのに批判を許さない

 

疫病が科学の対象になったのであれば、

それは批判の対象になったということです。

「病気の悪魔」の時代では、

教義に逆らうことを許されないことでした。

 

ですがどうでしょう?

科学者たちは病原体を批判したでしょうか?

ウイルスを批判したでしょうか?

いわゆる知識人たちのほとんどは、

疫病を批判せず受け入れました。

 

逆に疫病を批判した者たちは馬鹿にされ排除の対象になりました。

ジキもその一人です。

 

つまり、

疫病は科学のマントを纏いましたが、

その中身は依然として宗教であるということです。

科学の発展に伴って、

詐欺が巧妙になりました。

 

ワクチンを批判する者はいます。

ですが、

病原ウイルスの教義は批判しません。

新コロなど一部の病原ウイルスを批判する者もいます。

ですが、

病原ウイルス全体は批判しません。

自然ではなく人工ウイルスを訴える者もいます。

病原ウイルスを批判していると見せかけて、

病原体の教義は批判していません。

 

インフルエンサーのほとんどは、

科学の体裁を装って批判するポーズを見せますが、

疫病の教義は批判しません。

 

  疫病を維持する目的

 

前置きが長くなりましたが本題に入っていきます。

疫病をあの手この手で維持しようとするのは、

冒頭で述べました通り、

大衆を支配するためです。

大衆を意のままに操るために恐怖や不安を利用するのです。

 

ナチスドイツの最高幹部であるヘルマン・ゲーリング氏は次のように述べています。

国民は常に指導者たちの意のままになるものだ。

簡単なことだ。

自分達が外国から攻撃されていると説明するだけでいい。

そして、平和主義者については、

彼らは愛国心がなく国家を危険に曝す人々だと公然と非難すればいいだけのことだ。

この方法はどの国でも同じように通用するものだ。

この引用文の「外国」を「病原ウイルス」に、

「平和主義者」を「マスク不着用者」に、

「愛国心」を「思い遣り」に、

「国家」を「高齢者」に変更してみましょう。

 

国民は常に指導者たちの意のままになるものだ。

簡単なことだ。

自分達が病原ウイルスから攻撃されていると説明するだけでいい。

そして、マスク不着用者については、

彼らは思い遣りがなく高齢者を危険に曝す人々だと公然と非難すればいいだけのことだ。

この方法はどの国でも同じように通用するものだ。

この文章は、

この疫病騒ぎをそのまま表しています。

これが意味するところは、

歴史的にも恐怖や不安は大衆を支配するための重要な要素であるということです。

 

イタリアの哲学者であるジョルジョ・アガンベンは

著書「私たちはどこにいるのか?」

で次のように述べています。

安心するために、

人は当該の件に関する権威者と認識されている者

-たとえば医師や市民保護局の官僚たち-

に身を委ねることができる。

だが、

そのようにしたところで、

恐怖に随伴するセキュリティ不全感が排されることはない。

大衆は恐怖や不安に見舞われたときに、

権威者を頼るようになりますが、

それでも恐怖や不安から逃れられない。

ではどうするのか。

不安から逃れるために、

自らの判断を過度に合理化したり、

別の敵を見出したりしようとする。

動画「自由主義を考える-真の「自由」とは何か」(Direct Academy)で、

この書籍を解説した柴山桂太氏は、

「自らの判断を過度に合理化する」人は最早説得できないと言っています。

 

 

新コロで思考停止した大衆はジキの周囲にも山程いますが、

自己の判断を合理化して否定することから逃げる大衆は、

ワクチン接種後に家族が亡くなろうともワクチンを疑わないし、

進んでワクチンを打とうとします。

我々には到底理解できませんが、

人間の心理として恐怖や不安から逃れるためにそのような行動があるわけです。

 

そして、

そういう思考停止した大衆は、

マスク不着用者やワクチン否定論者、病原ウイルス否定論者を敵とみなし、

攻撃します。

 

自分たちの恐怖や不安は、

こういった敵の所為にするわけです。

そうすることで安心を勝ち取るという心理です。

 

そういった心理があるために、

大衆は意のままに操られるというわけです。

 

  とにかく恐怖や不安を煽ればいい

 

以上のことから、

疫病の本質は「恐怖や不安」です。

ですから、

病原体の実体は必要ありません。

存在すると見せかければいいのです。

 

そういう意味では、

ウイルス学は病原ウイルスの存在を

「見せかける」技術を発展させてきた

学問であると言えます。

ジキが「仮想ウイルス」と呼んできた通りです。

「見せかける」ことが重要なのです。

 

「分離」もそう。

「ゲノム」もそう。

「画像」もそう。

「検査」もそう。

 

単離できなくても、

(存在しないのでできないのですが)

こういった見せかける技術があるので、

大衆に危険な病原体の存在を信じ込ませ、

大衆の恐怖や不安を植え付けることが可能なのです。

 

  疫病流行の三種の神器

 

疫病が大衆支配のための道具であって、

その目的が大衆に恐怖や不安を植え付けることである、

ことが理解できると色々なことが見えてきます。

 

ここで、

疫病流行における重要な3つの要素について述べます。

その要素とは次の通りです。

  1. 検査
  2. マスコミ
  3. ワクチン

 

  検査で流行を始め検査で流行を終わらせる

 

新コロではPCR検査が使われました。

病原体の存在が未だに確認されていないのに、

病原体を検出できる不思議な検査です。

 

こういった検査は病原体の存在を可視化させます。

検査で陽性になるからこそ、

大衆は疫病の存在を認識します。

逆をいえば、

検査がなければ大衆は疫病を認識できません。

 

風邪などの症状は食生活や生活習慣が原因となって表れます。

それを検査で以て病原ウイルスが原因であるとしています。

そして薬を飲む。

症状は抑えられるかもしれませんが、

その薬が次の症状の原因になる。

そういう病気のループが作られます。

 

千島学説に学び、

病気の本当の原因を知ればこのループに陥ることはないのですが、

西洋医学が虚偽の原因を流布しているので、

それを信じる大衆はそのループに陥っていきます。

 

また、

コロナ騒ぎの中でインフルエンザが流行しなかったように、

検査を止めれば疫病は流行しません。

同じような症状に対しては別の検査をすることで、

ある疫病を終息させ、

別の疫病を流行させることができます。

 

ですから、

疫病において検査は重要です。

 

  大衆に疫病の存在を植え付けるマスコミ

 

病原体が存在しないのですから、

パンデミックを引き起こすためには大衆に検査を受けさせなければなりません。

症状が表れた者だけを検査していては足りないでしょう。

無症状の者にも検査が必要になってきます。

 

それでは、どうすればそれが可能でしょうか。

前述の通り、

大衆が疫病を認識しなければ疫病を起こすことができません。

同時に且つ広範囲に疫病を認識させる道具が必要です。

それが、

テレビやラジオなどのマスメディアです。

 

それについて面白い考察がされている動画があります。

 

《デジタル・コロナ現象✧ロボットに魂を捧げた人々》「ウイルスがない」ことを認められない人々の意識に何が起きているのか?デジタル社会の誘惑を生き抜くための「解毒剤」とは?/エリック・F・コッポリーノ&Dr.サム・ベイリー

 

この動画では興味深い考察が多数ありますが、

ここでは次のことを取り上げます。

この動画でコッポリーノ氏は1969年のウッドストックで起きた出来事を取り上げています。

実は、

その1969年の夏には香港風邪が起きていました。

そして、

アメリカだけで10万人が死亡しています。

 

 

ですが、

ウッドストックではそんな疫病騒ぎに関係なく、

密のまま感染対策も無しにフェスティバルは行われています。

 

 

当時の関係者にこの疫病流行について知っていたかを問うと、

「しらなかった」「気にしていなかった」と答えています。

 

2020年では、

公園の中では小さい円の中に人々は座っています。

 

 

この違いは何でしょうか。

明らかに大衆が疫病を認識しているかしていないかの違いです。

 

当時、仕掛ける側がどの程度の規模の疫病流行を狙っていたのかは定かではありませんが、

マスメディアやプロパガンダの規模が疫病流行の規模を決定する重要な要素であることが分かります。

 

繰り返しますが、

疫病流行にとって病原体の存在や症状は重要な要素ではなく、

大衆に疫病を認知させるか、

そしてどれだけ恐怖や不安を植え付けることができるかが重要だということです。

その目的を達成するために、

マスコミやマスメディアの力が必要です。

 

  ワクチンで症状を作る

 

疫病流行を起こさせるには継続的に患者が作られる必要があります。

患者を作るのには薬が役に立ちます。

その中でもワクチンが優れています。

 

千島学説によれば、

血液の汚れが病気の原因であると主張しています。

ですから、

手っ取り早く血液を汚すには注射を打てばいいわけです。

 

ワクチンが薬より優れている点は、

健康な者にも打てるということです。

ですから、

予防接種という形で病気を作ることができます。

 

ワクチンが原因で症状が表れたものに、

その原因は疫病であると思わせることで、

検査に誘導することが可能です。

 

また、

ワクチンが原因で死亡者が出れば、

その原因は疫病であると信じ込ませることによって、

危険な疫病であると大衆に植え付けることができます。

 

その結果、

恐怖や不安から逃れようと大衆は、

マスクを着用し、

不着用者を攻撃し、

ワクチンを打ち、

ワクチン不接種者やワクチン否定論者を攻撃し、

仕掛ける側の思い通りに行動するのです。

 

  操られた大衆は人権を破棄する

 

新コロ騒ぎでは大衆は喜んで自分の自由を制限しました。
そして、
他人の自由も制限しました。
 
令和3年1月15日のNHKオンラインで世論調査の結果が報道されました。
感染症対策のため人の移動や経済活動の制限など
個人の自由を制限することが許されるかどうかについては、

『許される』と答えたのが86%、

『許されない』と答えたのが12%でした。

見事に意のままに操られているのが分かります。

 
憲法学者の木村草太氏は令和3年5月3日の朝日新聞オンラインで、
感染症対策が日本国憲法が保障する自由の侵害にあたらないのか
という質問に対して以下のように答えています。
結論からいうと、
二つの条件が満たされれば、
私権の制限は可能です。
①規制の目的が自由の制限を正当化できるほど重要で、
②規制の方法が合理的かつ、必要不可欠であれば、
法律に根拠のある規制は合憲とされます。
コロナ禍に当てはめれば、
毒性の強い感染症のまん延を防ぐという『目的』の重要度は高い。
感染症の専門家が合理的で必要だと考え
かつ法律に即した『手段』であれば、
自由の制約は正当化され得るということになります。
日本に限らず、
欧米など立憲的憲法を持つ国々では、
このような論理でコロナ禍における自由の制約がなされてきました。
この木村氏も恐怖や不安に陥っており、
政府の判断を合理化しようとしています。
彼も操られているわけです。
 
柴山氏はこの木村氏の見解に対して、
自由は「私権」ではない。
公共的な価値であると述べています。
木村氏の見解は我儘と自由をごっちゃにしていると言えます。
ですが、
それは木村氏に限らず、
社会全体がそうでした。

 

  日本では自由の制約がなかった

 

日本では感染症対策に関しては国民に法的義務は課せられませんでした。

ですから、

上述の木村氏の見解は的を射ていません。

日本では自由の制約はなかったのです。

 

ですが、

法的義務がない故に感染症対策をしない者は攻撃を受けました。

地方自治体は店舗に自粛要請を出し、

応じない店舗に制裁を加えました。

国民に自由の制約を課したのは国ではなく、

地方自治体や国民自身でした。

 

こんなおかしな構造に異論を唱える者はほぼいませんでした。

人権派と呼ばれる弁護士も無関心でした。

寧ろ、

感染症対策は公共の利益だとして、

従わない自由を我儘であるとし、

従わない自由に制約を課すことを合法としたのです。

 

ここで自由とは何かについて議論するのは、

専門ではないジキには無理ですが、

少なくとも自由は他者の自由と衝突するが故に、

他者の自由を尊重せず勝手なふるまいは許されない、

というのが本来の自由なはずです。

もっと言えば、

他人に危害を加えない限り、

自分が損をすることになっても

自分で行為を決定できるはずです。

 

感染症対策の要請に従わない我々は、

他者の自由を尊重しなかったことはあったでしょうか?

他人に危害を加えたことがあったでしょうか?

 

病原体は早い段階から存在が確認されておらず、

存在が前提であることが知られていました。

感染症が発生しているという決定的な科学的根拠はなかったのです。

感染症対策を実施しないことで他者に危害を加えることになるという

確実な根拠など存在していませんでした。

憶測の域を越えていないのです。

 

本来ならば、

従わない自由に制限を加えるのであれば、

その自由がどのようにして他人に危害を加えることなるのか、

説明するべきです。

ですが、

そのような説明ができるものは一人もいませんでした。

 

逆に、

要請に従わないという自由を制約し、

従わないものに制裁を加えるという

あからさまな危害を加えるという行為は、

今もなおお咎めなしです。

 

我儘なのは従わない我々でなく、

何も説明できずに他者の自由を蔑ろにする、

感染症対策を推進する自治体や国民の方です。

 

  従わない自由は我儘に書き換えられた

 

国は病原体の存在が科学的に確認されていなくても、

存在を前提に感染症が発生したとすることができました。

正確に言えば、

過去に病原体は一度も確認されたことがないわけですから、

今までも病原体の存在を前提に感染症が発生したとしてきました。

 

新コロ以前は感染症対策をしない自由に制限が加えられることはありませんでしたが、

今回初めてその自由に制限が加えられました。

いや、

正確に言えばその自由に制限が加えられることはなかったにも拘らず、

制限を加えることが許されたのです。

 

感染対策要請に従わない自由は私権とみなされました。

悪く言えば我儘とされました。

 

新コロ騒ぎで疫病を利用している側は、

要請に従わない自由を我儘に書き換えることに成功しました。

そして、

要請に従わない自由を制限し制裁を加える自由を勝ち取りました。

 

これは、

本来の自由から逸脱しており、

非常に由々しき事態です。

 

病原体の存在を前提にして、

感染対策要請に従わない自由が他者に危害を加えるという憶測に過ぎない主張が認められ、

それを根拠に従わない自由に制限を加え、

要請に従わない者に制裁を加える自由を与えてしまったのです。

 

その最たる事例が、

飛行機搭乗においてマスク着用要請に応じなかった者を逮捕した件でしょう。

 

 

  改めて「自由」について新コロで起きたことを検証するべきだ

 

法律学者は、

要請に従わない自由が認めれている中で、

病原体が確認されていないにも関わらず、

憶測にすぎない根拠で以て、

要請に従わない自由に制限を加える自由を認めたことについて、

これが本当に合法なのか、合憲なのか検証すべきだ。

 

  ワクチンよりも深刻だ

 

死者が出ているということでワクチンに関心が多く集まっていますが、

要請に従わない自由に法的な制限がなくても、

その自由に制限を加えることが認められたという問題は、

ワクチン以上に問題であるとジキは考えます。

 

なぜならワクチンは打たなければ被害を受けることはない。

ワクチンの毒性を知識として持っていれば回避できる問題です。

 

しかし、

要請に従わない自由に制限を加えることが認められたという問題は、

様々な場面で要請に従わざるを得ない事象が発生しうるということだ。

ワクチンも拒めば、拒む自由に制限を加える自由が認められかねない。

実際、拒んだ職員が隔離され退職するという事例が存在する。

 

 

要請に従わない自由に制限を加える自由を認めたという問題は、

疫病の問題を理解している、していないに関係なく、

すべての人間に関わる問題である。

 

これからも国は病原体の存在を前提に疫病が発生したという空気を作り、

感染対策の徹底を推奨するだろう。

それに応じて地方自治体や国民は感染症対策を他者に要請し、

要請に応じない自由に制限を加える自由を行使するだろう。

そしてそれは合法として認められるだろう。

 

国は自由を制限することなく、

国民の自由を制限することを実現できたのだ。

 

疫病を利用して大衆を支配してきた側の大勝利である。

 

今回はここまでにします。

最後までお読みいただきありがとうございました。ウインク

また、お会いしましょうニコニコ

したっけねーパー笑い