第Ⅵ章 この信心が忠実な霊魂にもたらす霊妙ふしぎな効能

第一節 自分自身を適正に知る

213.愛する兄弟よ。わたしがこれから述べようとするこの信心の内面的・外面的実行に、もしあなたが忠実にとどまるならば、あなたはマリアをとおして聖霊がお与えになる光によって、あなた自身の精神的土壌がどんなに凶悪なものか、あなたがどんなに堕落した者か、すべての善をなすに当って、あなたがどれほど無能非力な者かを、手に取るようにわかるでしょう。同時に、ただ神だけが、自然界・恩寵界の唯一の原動者であることがわかるでしょう。

この認識から出る当然の帰結として、あなたは自分自身を軽べつするでしょう。
自分自身のことを考えると、ヘドをはくような嫌悪感を覚えるでしょう。自分自身があのヨダレをたらしてすべてのものを汚染してはいまわる、カタツムリそっくりだと考えるでしょう。または例の毒液でなんでもかんでも有害物にする、ガマみたいな者だと思うでしょう。自分自身が人や動物をだますことしか知らない毒ヘビの同類だと分るでしょう。
さいごに、謙遜なマリアは、ご自分の深い謙遜に、あなたをあずからせてくださいます。その結果、あなたは自分自身を軽蔑するでしょう。そして自分以外のだれも軽蔑しなくなるでしょう。あなたは自分が軽蔑されることを、心から愛するようになるのです。



第二節 マリアの信仰にあずかる

214.聖母はご自分の信仰に、あなたをあずからせてくださいます。聖母の信仰は地上で、すべての太祖、預言者、使徒のそれよりも、またすべての聖人のそれよりも、はるかに大きなものでした。天国で、キリストとともに天地を支配しておいでになる現在、マリアはもう地上での信仰はもっておられません。万物を、神において、光栄のひかりをとおして、はっきりごらんになっているからです。とはいえ、マリアは栄光の天国におはいりになっても、神との合意のもとに、こんりんざい信仰の徳を手放しません。なぜ、天国でも信仰の徳をもち続けておいでになるのかというと、それは“戦う教会”のために、すなわち、ご自分の忠実なしもべたちを信仰に固めるために、それが必要だからです。

だから、あなたが聖母のお気に入れば入るほど、あなたは聖母から、純すいの信仰をめぐんで頂くのです。この純すいの信仰のおかげで、あなたは信心における感覚的な事がらや、異常な現象をなんとも思わなくなります。それは生きた信仰です。愛によって活気づけられた信仰です。この信仰のおかげであなたは、ただ純すい愛の動機によってのみ、行動するようになるのです。

それは岩のように、堅固で不動な信仰です。この信仰のおかげであなたは、暴風雨と迫害のさ中にあっても、毅然として堅固、不変不動であることができるのです。

それは行動的で、万事を見とおす信仰です。この信仰は、ちょうど神秘的な合いカギのようなもので、あなたをイエズス・キリストのあらゆる神秘に、人間の四終(死・審判・天国・地獄)に、さらにまた神のみ心の深奥にまで導き入れてくれるのです。

それは勇敢な信仰です。この信仰のおかげであなたは、神の栄光のため、人びとの救いのために、偉大な事業を敢然と企画し、それを有終の美でかざることができるのです。

さいごにそれは、あなたの燃えてかがやくともしび、あなたの神的生命、あなたのかくされたタカラである神の知恵、あなたの精強な武器ともなるべき信仰なのです。あなたはこの信仰のともしびをかざして、やみと死のかげにいる人びとを、あかあかと照らし出すのです。宗教に無関心で冷淡な人びと、愛を必要としている人びとを焼き尽くすのです。

罪によって死んでいる人たちを、再び生命によびもどすのです。あなたの優しくも力づよいことばによって、石のようにかたい人びとの心に触れ、レバノンの杉のように高慢な人びとの心にも触れて、それを優しくゆり動かし、回心へとさそうのです。

最後に、この信仰のともしびを高々とかざして、悪魔の攻撃に、救霊のすべての敵に抵抗しなければならないのです。



第三節 純すい愛の恵み

215.“美しき愛”の母であるマリアは、あなたの心から、すべての小心、すべての度はずれた恐怖心を除いてくださいます。マリアはあなたの心を大きく開いて、神の子らの聖なる自由をもって、御子イエズス・キリストのおきての道をまっしぐらに走らせてくださいます。またあなたの心の中に、ご自分がその源泉としてもっておいでになる純すい愛を、そそぎ入れてくださいます。こうなると、あなたはもうこれまでのように愛なる神に対して、恐怖心から行動する必要がなくなります。これからは、もっぱら、純すい愛から行動するゆになるのです。

あなたはこれからは神を、自分の父親のように考えるのです。神なる父親を、なんとかして喜ばせてあげようと、絶えまなく努力するようになるのです。この神と、息子対父親のように、こころおきなく、対話をかわすようになるのです。もし不幸にも、神に対して何かイケナイことをしたら、すぐに謙遜にゆるしをねがい、神に手をさしのべて助けをもとめ、再び立ち上がって、恐れず心配せず失望せず、神に向かって歩み続けるようになるのです。



第四節 神と聖母へのまったき信頼


216.聖母はあなたを、神とご自分へのまったき信頼をもって、いっぱいにしてくださいます

①あなたはこれまでとはちがって、自分自身をとおしてではなく、いつも聖母をとおして、イエズス・キリストに近づくようになるからです。
②あなたは自分のすべてのクドク、恩寵、つぐないを、聖母のみこころのままに処理してくださるよう、聖母にささげ尽くしてしまったのですから、こんどは聖母もあなたに、ご自分の徳を流通し、ご自分のクドクであなたをおおってくださいます。そんなわけで、あなたは聖母のように神に向かって、自信に満ちて、「わたしはほんとうにあなたのはしためです。どうぞこの身に、あなたのおことばどおりになりますように」(ルカ1・38)と申しあげることができるのです。
③あなたは聖母に、自分のすべてを―身体も霊魂もささげ尽くしました。聖母は、惜みなく与える人に対しては、ご自分も惜みなく与えるかたです。どんなに惜みない人よりも、もっともっと惜みないかたです。だから、聖母もあなたに、おかえしとして、ふしぎな方法で、具体的な仕方で、自分自身をお与えになるのです。

そんなわけで、あなたはあえて、聖母にこう申し上げることができるのです。「聖母よわたしはまったくあなたのものですから、どうかわたしを救ってください。」(詩篇119・94)または、イエズスの愛する弟子ヨハネとともに、「聖母よ、わたしはあなたを、自分の全財産としてお受けいたしました」(ヨハネ19・27)。

さらに、聖ボナベントラとともに、次のように、聖母に申し上げることもできましょう。「わたしの行きづまりを打開してくださる聖母よ。わたしは正々堂々と行動します。何もだれも恐れません。あなたは神のうちにあって、わたしの力、わたしの賛美だからです。・・・わたしはまったくあなたのもの、わたしのもっているものはみな、あなたのものです。ああ、すべての造られたものの中でいちばん祝福された、栄光にかがやく聖母よ。わたしは自分の心の上に、あなたのしるしをきざみつけたい。
あなたの愛は死よりも強いからです」

さらに詩篇作者と同じ気もちで、神にこう申し上げることもできましょう。
「主よ。わたしの心は誇らず、わたしの目は高ぶりません。及びもつかない大きなことや、くすしいことに、わたしは深入りしません。それでもわたしはまだ、けんそんではありませんが、幸い神と聖母への信頼のおかげで、わたしのたましいは立ち上がり勇気づけられました。わたしは幼な子のように、地上の快楽から遮断され、母のふところを唯一のよりどころとしています。母のふところにいさえすれば、わたしはすべての善で満たされるからです」(詩篇131参照)。

④あなたは聖母への信頼を、ますます深めてゆくのです。あなたは自分がもっている良いものをみな、保管してくださるようにと、聖母におささげしたのですから、これからはもう、自分のもちものには気をつかわないで、ますます聖母にたのむようになるのです。聖母こそあなたのタカラだからです。

神は、ご自分のいちばん貴重なタカラを、聖母のうちに集積しておいでになります。神のこのタカラこそ、自分のタカラでもある、といえる霊魂は、どんなにしあわせなのでしょう。ある聖人が言っているように、「マリアこそ、神のタカラなのです」(レイムンドス・ヨルタヌス)



第五節 聖母はご自分のたましいと精神を交流してくださる

217.“主をあがめる”ため、マリアのたましいが、あなたと交流されるのです。
“救い主なる神を喜びたたえる”(ルカ1・47)ため、マリアの精神が、あなたの精神と入れかわるのです ― もしもあなたが、この信心の実行に、あくまで忠実にふみとどまるなら。聖アンブロジオも、おなじことを言っています。「どうか、主をあがめるため、信者ひとりひとりのうちに、マリアのたましいが臨場していますように。どうか、救い主なる神を喜びたたえるため、マリアの精神が、ひとりひとりのうえに現存していますように」(ルカによる福音の解説Ⅱ・26)。

マリアにスッカリ浸透し尽くされていたある聖なる人物(リゴリュック師)が言っていますように、このようにしあわせな時代は、いつ訪れるのでしょうか ― マリアが人びとの心の中に女王として臨み、こうしてかれらが全面的に、キリストの支配に服する時代はいつやってくるのでしょうか。いつ、人びとの心は、ちょうどからだが空気を呼吸するように、マリアを呼吸するようになるのでしょうか。そうしたしあわせな時代が訪れたら、このはかない地上にも、神の霊妙ふしぎなみわざがおこなわれるのです。すなわち、聖霊は、ご自分のきよき妻マリアが、人びとの心の中にいわば再生しているのをごらんになって、そこにあまくだり、恩寵界の霊妙ふしぎなみわざをおこなうために、かずかずの賜物、とりわけ知恵の賜物をもって、人びとの心をいっぱいにしてくださるのです。

愛する読者よ。こうした幸せな時代、こうしたマリアの世紀は、いつやってくるのでしょうか。それが訪れたとき、マリアによって神から選ばれた多くの人は、自分自身の内面の深奥において自らに死に、こうしてマリアの生き写しとなり、マリアとともにイエズス・キリストを愛し、ほめたたえることができるのです。

こうしたしあわせな時代は、わたしが今述べている信心をよくさとり、よく実行した直後にやってまいります。「神よ。あなたの御国が地上に来ますため、まずマリアの御国がわたしたちの心の中に来ますように」



第六節 霊魂はマリアにあって、イエズス・キリストのかたちに変容する

218.わたしが述べている信心の忠実な実行によって、“生命の木”と呼ばれているマリアがもし、あなたの霊魂の畑で、十分つちかわれていますなら、この生命の木は実のりの季節がくると、イエズス・キリストという名の実を確実にむすんでくれます。イエズス・キリストをさがし求めている多くの人びとのことを、わたしはよくぞんじております。ある者はこの道こそ信心業によって、他の者はあの道あの信心業によって、それぞれイエズス・キリストをさがし求めています。

                  生命の木

だが、どうしたものか、かれらはあまりにしばしば、夜どおし働きつづけたあと、口ぐちにこう言っているのです。「わたしは夜どおし働きましたが、何ひとつとれませんでした」(ルカ5・5)。なるほどこんな調子では、「あなたがたは、働き損のクタビレもうけです」(ハガイ1・6)と言ってひやかされるのも当然です。

イエズス・キリストの生命がまだ、あなたの霊魂の中では、本当によわよわしいのです。だが、、失望は禁物。マリアという名のけがれなき道を通れば、またわたしが今述べている信心を実行しさえすれば、あなたは夜間ではなく、昼間、働くのです。神聖な場所で働くのです。わずかばかり働くだけでいいのです。

マリアには、夜はありません。無原罪のマリアには罪もなく、ひとかけらの影さえないからです。マリアは、神の聖使です。いいえ、神の至聖所です。ここで人は、聖人に形造られるのです。聖人の型に、はめこまれるのです。



どうか、わたしの言うことを、まじめにとってほしい。聖人たちは、マリアにおいてこそ、聖性の型に、はめこまれるのです。肖像を金ヅチとノミでつくるのと、鋳型でつくるのとは、その製作工程において、格段のちがいがあります。第一の方法(金ヅチとノミ)ですと、彫刻士や肖像製作者は、たくさん働かねばなりません。時間も、たくさんかかるのです。しかし、第二の方法(鋳型に流し込む)ですと、手間がすいぶんはぶけますし、時間もわずかですむのです。

聖アウグスティヌスは、聖母マリアのことを“神の鋳型”と呼んでいます。「聖母よ、あなたは本当に、神の鋳型と呼ばれる資格がございます。」なるほど聖母マリアは、ご自分という名の鋳型で“神”をつくりだすお方なのです。「わたしヤーヴェは言った、おまたちは“神”だ」(詩篇82・6)。この神的鋳型に流し込まれる者はすぐ、イエズス・キリストのかたちにつくられ、イエス・キリストもまた、この人のかたちにつくられるのです。しかも、わずかの労力、わずかの時間で、そうなるのです。なぜなら、わたしたちは、まことの“神”を形造ったおなじ鋳型に、流し込まれるのだからです。



220.わたしが述べる信心いがいの信心業で、イエズス・キリストを自分のうちに、またはほかの人のうちに形造ろうとしている熱心家がいます。この人たちは自分の才能、自分の努力、自分のウデに、満々たる自信をもっている彫刻家にたとえることができます。荒い石塊や、でこぼこの木片に、金ヅチやノミを、万べんなく当てて、それにイエズス・キリストのかたちをきざみ込もうとしています。だが、ときとしては、イエズス・キリストの本来の姿を、そこに再現するのに失敗することもあります。イエズス・キリストの人物をあまりよく知らないか、また仕事のしそこないからか、できあがった作品をみると、どうも失敗作です。

しかし、わたしが提唱する恩寵の秘けつを体得している人は、ちょうど鋳物師のようなものです。この人たちは、マリアという名の鋳型をもっているのです。この鋳型の中でこそ、イエズス・キリストは、神の特別の働きによって、神でありながら同時に人間として、形造られたのです。かれらは自分の才能や努力には全然信用をおかず、ただただ、マリアという鋳型の慈悲にたよって、イエズス・キリストの生き写しとなるため、自分自身をマリアのうちに投じ、そこで自己分解してしまうのです。



221.ああ、これはなんと美しい、なんとすばらしいたとえなのでしょう。だれか、このたとえの本当の意味を理解している者はいないものか。

愛する兄弟よ。愛する読者よ。あなたこそ、その人であってほしい。だが、マリアという鋳型に投じられる者は、溶解した液体だけだということを忘れてはなりません。すなわち、マリアのうちにあって新しいアダム(イエズス・キリスト)となるために、あなたのうちにある古いアダムを破壊し、溶解して液化せねばならないのです。



第七節 キリストの最大の栄光のために

222.わたしが提唱するこの信心を、もし忠実に実行するなら、あなたはわずか一ヵ月の間に、ほかのものとむずかしい信心業を数ヵ年の間実行するよりも、はるかに大きな栄光をイエズス・キリストに帰することができるのです。そのわけを次に申し上げます。

①この信心の流儀にしたがって、あなたが何かの行いをなすとき、あなたは自分自身の意向と行い(それが善良でまた自分にハッキリ分かってはいても)を、まったくうち捨てて、聖母のご意向と行ないのうちにそれを、いわば自滅さすのです。聖母のご意向が何であるかが、自分にはぜんぜん分からなくてもです。こうしてあなたは、聖母のご意向の崇高さにあずかることができるのです。

聖母のご意向は、このうえなく純潔でしたから、わずかな行ないをもって、神にこのうえない栄光を帰していたのです。たとえば聖母が糸をつむぐとか、針仕事をなさるとか、こうしたささいな行いでも、聖ローレンシオがアブリコの上で生きながらからだをジリジリ焼かれる残酷な殉教よりも、またはすべての聖人たちのすべての英雄行為よりも、はるかに大きな栄光を神に帰したのです。

そんなわけで、地上生涯のあいだ聖母は、かぞえ尽くせないほどの恩寵とクドクをお積みになったのです。聖母の恩寵とクドクをかぞえるよりはむしろ、大空の星、大海の水滴を、浜べの砂つぶをかぞえるほうが、もっとやさしいくらいです。こうして聖母は、すべての天使、すべての聖人が過去・現在・未来をとおして、神に帰したすべての栄光よりも、はるかに大きな栄光を神に帰されたのです。

ああ、マリアの驚嘆すべき偉大さよ。だが、しかし、聖母よ。あなたのうちにまったく自分自身を滅ぼし尽くす霊魂の中でなければ、さすがのあなたもこの偉大な恩寵のみわざを、おこなうことがおできになりません。

223.②この信心のおかげであなたは、イエズス・キリストに近づき、彼とお話するに当たって、自分自身の考えや行いを全然信用しないで、まったく聖母のお心構えに信頼し、安心しきるようになります。だから、自信タップリな人よりも、はるかに多く、謙遜の徳を実行するのです。自信過剰な人は、自分の力だけに信用し、自分自身の心構えに唯一の信頼と安心を、しらずしらずのうちに見いだしています。

そんなわけで、あなたはこの人たちよりも、もっともっと神に栄光を帰しているのです。神は心の謙遜な人、心の貧しい人たちによってのみ、完全に栄光を帰されるからです。


224.③聖母は、せつない母ごころの愛から、わたしたちの行いをおくりものとして、ご自分のみ手に頂きたいのです。そしてそれに目のさめるほどの美しさと、かがやきをそえてくださいます。さらにそれを、ご自身の手で、イエズス・キリストにささげてくださいます。罪に汚れたわたしたちの手でそれをささげるよりも、こうして聖母のみ手をとおしてささげるほうが、イエズス・キリストにとっては、もっと大きな栄光となるからです。


225.④さいごに、あなたがマリアのことを考えれば、マリアは必ずあなたにかわって、神のことを考えてくださるのです。あなたが、マリアを賛美し、マリアをほめたたえれば、マリアも必ず、あなたとともに、神を賛美し、神をほめたたえてくださるのです。

マリアは神と相関関係にあるのです。むしろ”神関係”だと呼びたいほどです。マリアは神関連、”神のこだま”でしかありません。マリアは、ただ神のことしか口にせず、ただ神のみことばしかくり返しません。あなたがもし、”マリア ”と言えば、反射的にマリアは”神 ”と言われるのです。聖母のご訪問のとき、エリザベトがマリアをほめたたえて、「主によって語られたことは必ず、実現すると信じきったあなたは、なんと幸せな方なのでしょう。」と言ったのに対して、マリアは、神の忠実なこだまでいらっしゃるマリアは、どうお答えになりましたか。「わが魂は”主 ”をあがめ、わが魂は、わが救い主なる”神 ”を喜びたたえます。」(ルカ1・45~47)

マリアがエリザベトご訪問のさいになさったことは、今もいつも、引き続きおこなわれているのです。あなたが、マリアをたたえるとき、自動的に”神 ”が愛されるのです。あなたが、マリアをうやまうとき、自動的に”神 ”がうやまわれるのです。あなたがマリアに何かささげるとき、自動的に”神 ”がそれを、ご自分のものになさるのです。-マリアをとおして、マリアのうちに。




第Ⅶ章 この信心の実行的方面

第一節 外面的実行

226.この信心の本質はあくまで、内面にあるのですが、それでも、おろそかにしてはいけない幾つかの、外面的実行も除外していません。「これこそ、しなければならないことです。ただし、他のほうもおろそかにしてはいけません」(マタイ23・23)
外面的信心業がホンモノであるとき、それは内面的信心への有力な支援となるからです。またそれはいつも感覚の圧政のもとに行動している人に、自分がしたこと、またこれからしなければならないことを反省させ、熟慮さすよすがともなるからです。さらにまた、外面的信心業は、それを見る人に、よい感化を与えるからです。これは純粋内面的信心には到底できないことなのです。

世間の人や、よろず批判家たちはよく、まことの信心は心の中にあるのだから、外面的な信心は断固排斥すべきだ、といっているのですが、こうした言い分に気をとがめてはいけません。

かれらの言い分に対して、わたしはキリストとともに、あえて宣言したい。「あなたがたの光を、人びとの前で輝かせ、人びとがあなたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい」(マタイ5・16)
もちろん、大聖グレゴリオ教皇が言っているとおり、人びとの気に入るためとか、または人びとから称賛を得るために良い行いや外面的信心業を”人びとの前 ”でしてはいけません。それは虚栄というものです。

とはいえ、ときとしては、人びとの前でそれをすることもあるのです。しかし、目的はいつも、神のみこころを喜ばせることです。神の栄光をあらわすことです。人からの軽蔑や称賛など全然年頭にありません。

以下いくつかの外面的信心業を簡単に列挙しましょう。内面的信心がともなっていないから、外面的信心業と呼んでいるのではありません。内面的信心業とずいぶんかかわりがあるから、純粋の内面的信心と区別するためにこそ、そう呼んでいるのです。


第①項 聖母に身を捧げる前の準備

227.第一の実行的信心業。聖母へのこの新しい信心にはいりたいと思っている人びとは、マリアをとおして、イエズス・キリストにの御国に入る準備として、まず最初の十二日間を、イエズス・キリストの精神に反する世俗精神から離脱するための修行に当てます。次の三週間は、マリアによって、自分の精神を、イエズス・キリストの精神で満たす修行に当てます。この修行は、次の順序で進められていきます。

228.第一週には、すべての祈り、すべての信心のわざを、自分自身を知り、おかした罪を痛悔する恵みを願うことに専念します。したがって、すべてのことを、謙遜の精神でおこないます。

そのためには、どうしたらいいでしょうか。もしお望みなら、わたしが前に述べた(78~79)ように、自分の内奥の醜悪な精神的土壌をふかく反省し、自分自身のことを、カタツムリだ、ガマだ、ブタだ、ヘビだ、雄ヤギだ、と自嘲せねばなりません。

または、聖ベルナルドの次の三つのことばを、まじめに黙想するのも、いい方法です。すなわち「おまえは過去において、どんなものだった?くさい粘液でした。現在はどうだ?きたないクソ袋です。将来はどうだ?ウジ虫のエサです」(「人間の実体についての瞑想」3・8)

主イエズスに、聖霊に、精神を照らしてくださるよう熱心に祈ることです。「主よ。どうか、目が見えるようにしてください」(ルカ18・41)「主よ。どうか、わたしが、自分自身をありのままに知ることができますように」(聖アウグスチノ「独語録」2・1)次に「聖霊、来たりたまえ」の祈り、「聖霊の連祷」とそれに続く祈り。

聖母のみもとに馳せていく。そしてこの信心の土台ともなる、この大きな恵み、すなわち自分自身をありのままに知るという恵みを、せつにお願いする。そのためには毎日、「Ave.Maris Stella」と「聖マリアの連祷」をとなえます。

(注:229~256まで現在転写作業実行中)


257.内面的信心業の実行を、次の四つのことばで集約します。すなわち、すべての仕わざを「マリアによって」、「マリアとともに」、「マリアのために」する、ということです。
なぜ、そうするのかと申しますと、そうすることによって、わたしたちのすべての仕わざを、「イエズスによって」、「イエズスとともに」、「イエズスのうちに」、「イエズスのために」、いっそう完全に、果すためです。



第①項すべての仕わざを“マリアによって”する

258.①すべての仕わざを「マリアによって」、しなければなりません。別のことばで申せば、万事において、マリアに従わねばなりません。万事において、マリアの霊にみちびかれて行動せねばなりません。マリアの霊は神の聖霊です。「神の聖霊にみちびかれる人は、だれでも神の子どもです。」(ローマ8・14)。マリアの霊にみちびかれる人こそ、マリアの子どもです。だから当然神の子どもなのです。前に述べた(本書29~30)とおりです。

マリアのしもべは、数からいって、たいへん多いのです。だが、マリアの霊にみちびかれる人だけが、マリアの本当の忠実なしもべです。マリアの霊は、神の聖霊である、と今さき申しました。マリアは、自分自身の霊にみちびかれて行動したことは、いちどもなかったからです。マリアはいつも、神の聖霊にみちびかれていましたので、神の聖霊がマリアのうちで、マリアの主人となり、こうしてマリアの霊そのものとなりきってしまったのです。

だから、聖アンブロジオ司教が、次のように言っているのです。「どうか、主をあがめるため、マリアのたましいが、信者ひとりひとりのうちにありますように。どうか、神を喜びたたえるため、マリアの霊が、信者ひとりひとりのうちにありますように」(本書217)。

聖徳のほまれ高い、イエズス会のロドリゲス修道士の手本にならって、柔和で剛毅、熱烈で慎重、謙遜で勇敢な、マリアの霊にまったく浸透され導かれる人は、どれほどしあわせでしょう。



ここで霊魂が、イエズス・キリストの姿に形造られ、またイエズス・キリストも、この霊魂の姿に形造られるためです。なぜなら、教父たちが言っているように、マリアのご胎こそ、「神の密室」であって、ここでこそ、イエズス・キリストをはじめとして、すべての選ばれた者が形造られたからです。「だれもかれもがここで生まれました」(詩篇87・5)。



第④項 すべての仕わざを“マリアのために”する

265.さいごに、すべての仕わざを“マリアのために”しなければなりません。
なぜなら、マリアへの奉仕に自分自身のすべてをささげ尽くしたからには、とうぜん、しもべのように、ドレイのように、すべてをマリアのためにしなければならないからです。イエズス・キリストだけが、わたしたちの最終目的なのですから、聖母を最終目的として彼女に奉仕してはいけません。ただ、イエズス・キリストに達するための手近かな目標として、神秘の場として、また容易な手段として、マリアに奉仕しなければならないのです。そんなわけで、いやしくもマリアのしもべたる者は、手をこまねいて、ぶらぶらしていてはなりません。反対に、この神の御母のために、そのご保護にささえられて、なにか偉大なことをしようと、それを企画し実行しなければなりません。具体的にいえば、こうです。―聖母の特権が論議のマトとなっているとき、それを擁護するのです。もしできれば、すべての人を、聖母への奉仕に、聖母への真の堅実な信心に、呼び集めるのです。御子イエズスを侮辱するため、聖母への信心を悪しざまにいう人たちに対して、はげしい舌戦と文書戦を展開することです。同時に、敵の攻撃に触発されて、聖母マリアへの真の信心を、ますます強化拡大するのです。

これらの小さな奉仕に対して、わたしたちしもべが、聖母におねがいできる報酬は、どんなものでしょうか。それは、わたしたちがいつまでも、この愛すべき御母のものであるという名誉をもち続けることのできるお恵み―ただこれだけなのです。聖母によって御子イエズスに、すでにこの世から永遠にわたって、解くことのできないキズナで一致させていただく栄光だけなのです。

 マリアにおいてイエズスに栄光あれ
 イエズスにおいてマリアに栄光あれ
 いと高き神ひとりに栄光あれ

(完)

☆おしらせ
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