第三節 質疑と応答

131.この信心は、新発売だ、おれには関係ナイ、と言われるかたがいましたら、それはまちがっています。この信心はけっして、新発売ではありません。ちゃんと公会議も、教父たちも、古今東西の著述家たちも、声をそろえて、イエズス・キリストへの自己奉献が、洗礼の約束の更新がずっと昔から実行されてきたことだ、と言っているではありませんか。

この信心は、おれたちは関係ないとおっしゃるのですか。とんでもない、大いに関係があるのです。なぜなら、キリスト信者のダラクの、したがって地獄行きの、主要原因がどこにあるのか、を考えてごらんなさい。それは、洗礼の約束の実行を忘れ去るか、またはそれに対して関係ナイ態度をとるか、そのどちらかにあるのです。



132.ある人たちは、こうも言います。この信者はわたしたちに、マリアのみ手をとおして、わたしたちのすべての苦業、すべての祈り、すべての苦業とほどこしの価値を、ただイエズス・キリストにだけささげさせるのだから、わたしたちは、自分の両親・友人・恩人らの霊魂を助けるため、まった何もできないのではないか。この疑問への解答は次のとおりです。

①わたしたちが、イエズス・キリストとその御母マリアへの奉仕に、自分自身を残りくまなくささげ尽くしたがために、わたしたちの友人・両親・恩人が損をするということはとても信じられません。そう考えるのは、イエズスとマリアの全能と慈悲に対して、侮辱を加えることになります。イエズスもマリアもわたしたちの小さな霊的収入で、またはほかの方法で、わたしたちの両親・友人・恩人を助ける方法を、ちゃんとごぞんじなのです。


        扶助者聖母

②次に、この信心の実行は、わたしたちがほかの人のため、すなわち死者のため生者のために祈ることを、けっしてさまたげません。ただし、わたしたちの善行の配分は、マリアのお心しだい、ということは忘れてはいけません。ほかの人のために祈ることをさまたげるどころか、かえってこの信心は、もっと大きな信頼をもって祈るように仕向けてくれます。たとえば、ここに金持ちがいて、自分の殿様にもっと敬意を表すため、全財産を提供すると仮定します。たまたま、ひとりの友人がかれに、ほどこしをねがいます。そのときこの人は、その友人になにがしのほどこしをしてくださるまいかと、もっと大きな信頼をもって殿様に願えるでしょう。殿様は喜ぶにきまっています。なぜなら、自分にもっと敬意を表すため素寒貧となったこの人に、恩返しをするチャンスが与えられたからです。おなじことが、イエズスとマリアにかんしても言えるのです。恩返しの点では、おふたりとも、だれにもヒケをとりません。



133.ある人は、こう考えているかも知れません。もしわたしが、自分のすべての善行の価値を、お望みの人に上げてくださいとマリアさまにささげたら、自分は霊的に無一物となって、煉獄で長く苦しまねばならないでしょう。

こうした質問は、自愛心からも、また神と御母マリアの大らかさについての認識不足からも来ています。だから、まった愚問です。こんなに神の奉仕に熱心で、こんなにおしみない心を持った人が、自分の利益よりも神の利益を優先する人が、これ以上何もできないというほど、神にすべてをささげきっている人が、マリアをとおして、イエズス・キリストの栄光と御国の到来しか祈求していない人が、そのために自分のすべてをギセイにしている人が、このように広い心をもった人が、この世で神への奉仕に、ほかの人たちよりも、もっと大らかで、もっと無私無欲だったというタッタひとつの理由で、のちの世ではほかの人よりも重く罰されねばならないとしたら、どういうことになりますか。そんなことは絶対にあってはならないはずです。


       キリストの栄光

あとで述べるように、こういう人こそ、イエズスとマリアは、この世においても、のちの世においても、自然界でも恩寵界でも、また天国という栄光界でも、最高に大らかな報いをくださるのです。



134.いま、できるだけ簡潔に、この信心を推奨せねばならぬ理由、この信心が忠実な霊魂に生じる感嘆すべき効果、この信心の実行を述べることにしましょう。



第Ⅳ章 この完全な自己奉献の理由


第一節 第一の理由―この完全な自己奉献の優越性

135.マリアのみ手をとおして、自分自身をまったく、イエズス・キリストにささげ尽くすことが、いかにすぐれたわざであるか、を示す第一の理由が、ここにあります。それはこうです。

この世には、神への奉仕にもまして高尚な職務がないとすれば、また神のいちばんつまらないしもべでも、神のしもべでもない地上のすべての王、すべての皇帝にもまして、はるかに富んだ者、はるかに勢力ある者、はるかに高貴な者であるとすれば、いわんや神への奉仕に、可能な限り自分自身をまったく、残りくまなくささげ尽くした忠実な、完全な神のしもべが持つ富と勢力と尊厳は、いかばかりなのでしょうか。

これが、マリアのうちにおける、イエズスの衷心で愛のふかいドレイの本領なのです。かれこそは、マリアのみ手をとおして、王たちの王であるイエズス・キリストへの奉仕に、自分をまったくささげ尽くし、自身のためには一物も取って置かない人なのです。
こんな人は、全世界のすべての黄金よりも、天上界のすべての美しさよりも、はるかに価値のある人なのです。



136.イエズス・キリストとその御母マリアの栄光のために創立された修道会、信心会、友の会などは、なるほど教会のために、偉大な業績を記録していますが、しかし会員たちに、イエズスとマリアへの奉仕にすべてを、残りくまなく捨てさせてはいません。ただ自分の義務を果させるため、各会員に、いくらかの信心業または善行をなすように、と規定しているに過ぎません。そのほかのわざ、また時間割にかんしては、まったく会員の自由裁量にまかせています。


 絶えざる御助けの聖母(信心会)

しかし、この信心ですと、すべての考え、ことば、行ない、苦しみ、および一生のすべての時間を、イエズスとマリアに、残りくまなくささげ尽くさせます。その結果、この自己奉献を明白に取り消さない限り、かれが目ざめていようと眠っていようと、なにか飲もうと食べようと、大きなわざをしようと小さなわざをしようと、たとえいちいちそのことを考えなくても、それはいつもイエズスのもの、マリアのものとなることは明らかです。マリアをとおしてのイエズスへのこの自己奉献が、こんなすばらしい効果を生みだすのです。なんとなぐさめに満ちた真理なのでしょう。



137.そればかりではありません。前にも述べたとおり、わたしたちのいちばん神聖な行ないにさえ、しらずしらずのうちに、高慢な自我が混入するものですが、この自愛心をこうまで容易に取り除いてくれる信心業は、ほかに一つもありません。これは大きなお恵みです。そしてイエズスは、自分の善行のすべての価値を、マリアのみ手をとおして、ご自身にささげる信心家の、英雄的な、無私無欲な行為に対しては、百倍のむくいをもって、ご返礼なさるのです。

このようにイエズスは、すでにこの世においてさえ、ご自分を愛するために、自分のもっている外部的、現世的、朽ち果つべき財産を捨てる人に、百倍のむくいをもってご返礼なさるのですから、いわんやご自分のために、内面的・霊的たからを捨てる人には、天国で、どんなにすばらしいむくいをくださるのでしょうか。



138.わたしたちの親友イエズスは、ご自分のからだも霊魂も、徳も恩寵も、功徳もみんな、残りくまなく、わたしたちに与えてくださいました。聖ベルナルドが言っているとおり、イエズスは、ご自分をすべて、わたしにお与えになることによって、わたしをすべて、ご自分のものとなさいました。だから、わたしたちが、自分の与えることのできるすべてのものを、イエズスに与え尽くすことは、正義と感謝の義務ではないでしょうか。


    イエズスの肖像


イエズスがまず、わたしたちに対して、大らかでいらしたのですから、わたしたちもおくればせながら、イエズスに対して大らかでありましょう。そうしたら、こんどはまたイエズスがわたしたちに対して、生存中も、臨終のときも、また永遠にわたって、もっともっと大らかでいらっしゃることが、体験的に分かるでしょう。イエズスは、大らかな者に対しては、ご自分も大らかです。



第二節 第二の理由―この自己奉献の正当性と利益


139.もっと完全に、イエズス・キリストのものとなりきるため、この信心の実行によって、自分自身をまったくマリアにささげ尽くすことは、それ自体が正しいことであり、キリスト信者にとっては益あることです。

イエズスは九ヵ月間、マリアのご胎内に、ご自分がちょうど囚人のように、または愛深いドレイのように、閉じこめられていることをおいといになりませんでした。そのうえ、三十年間も、マリアに従うことを、おいといになりませんでした。くり返し申し上げますが、人となられた永遠の知恵のこうした行動を、まじめに反省するとき、人間のあさはかな知恵は、完全に呆然自失します。

人となられた神は、それができたにもかかわらず、ご自分を直接に人びとに与えることを、おのぞみになりませんでした。マリアをとおして、はじめて人びとにご自分を与えることを、おのぞみになったのです。だれにもたよる必要のない、完全なおとなの年齢に達した人としてではなく、よわよわしい小さな赤ちゃんとして、御母マリアのお世話と養育にすがらねば生きていけない幼な子として、この世にくることをおのぞみになったのです。


      聖家族

神なる御父の栄光を現わし、人びとを救おうとの果てしない望みをもっていらした、この永遠の知恵イエズスは、ご自分の望みを達成するための最も完全な、最も手っ取り早い手段として、万事において、マリアに従う、という方法を選ばれました。それも、ほかの子供たちのように、生涯の初めの八年か、十年か、十五年間だけではありません。じつに、三十年間もです。

そしてイエズスは、このようにただマリアへの服従と隷属に明け暮れた三十年間に、マリアからまったく独立して、もろもろの奇跡をおこないながら、全世界をかけめぐり、福音をのべ伝え、すべての人を回心させることに費したであろう三十年間よりも、はるかに多くの栄光を、神なる御父に与えたのです。もしそうでなかったとしたら、かれはよろこんで後者の行き方を、えらんだにちがいありません。ああ、イエズスのお手本にしたがって、自分自身をマリアに隷属させることは、どれほど大きな栄光を神に与えることでしょう。

これほど鮮やかな、これほど有名なお手本が、眼の前にあるのです。それなのに、まだわたしたちは、イエズスのお手本にしたがって、マリアに自分自身を隷属させることが、神の栄光を最高に発揮するための最も完全な、最も手っ取り早い手段だと信じきれないほど愚かなのでしょうか。



140.わたしたちが、マリアに対して、どれほど隷属的態度をとらなければならないかということの証拠として、前にも述べたとおり、御父と御子と聖霊がそれぞれ、マリアに対してとられる隷属的ご態度のお手本を、もう一度ここで、思いおこす必要があります。御父は、マリアをとおしてでなければ、御子を世に与えなかったし、また与え続けません。マリアをとおしてでなければ、ご自分の子どもたちを造りません。マリアをとおしてでなければ、ご自分の恩寵を流通しません。

神なる御子も、マリアをとおしてでなければ、全人類の救いのために受肉されなかったし、またマリアをとおしてでなければ、今でも毎日、聖霊の交わりの中で、人びとの霊魂の中につくられ、生まれません。マリアをとおしてでなければ、ご自分のクドクも善徳も流通しません。


       受胎告知

聖霊も、マリアをとおしてでなければ、イエズス・キリストを形造らなかったし、またマリアをとおしてでなければ、キリストの神秘体の成員も造りません。マリアをとおしてでなければ、ご自分の賜物も恵みも流通しません。
聖なる三位一体のこうした数々の、顕著なお手本があるにもかかわらず、マリアを無用視したり、また神にいたるため、神に自分をささげるために、まず自分をマリアにささげ、マリアに隷属させることができないほど、わたしたちはメクラなのでしょうか。



141.今さき言ったことを証明するため、わたしが選びだした教父たちのことばを、左にかかげます。
「マリアには、二人の子どもがあります。一人は、人間であって同時に神。もう一人は、タダの人間です。マリアは、前者の肉体的母親であり、後者の霊的母親です」(聖ボナベントラ/オリゲネス)
「わたしたちが、マリアをとおして、救霊に必要なすべてのものを所有することが、神のみこころです。だから、もしわたしたちが何かの希望、何かの恩寵、何か救いに役立つ賜物をもっているとしたら、それはマリアのみ手をとおして、神からいただいたことを忘れてはなりません」(聖ベルナルド)


     聖ベルナルドと聖母


「聖霊のすべての賜物、すべての徳、すべての恩寵は、マリアのみ手によって、マリアが望む人に、望むとき、望むだけ、望む方法で、分配されるのです」(聖ベルナルジノ)「あなたがたは、神の恩寵を受ける資格がありませんでした。だから、それはまず、マリアに与えられたのです。マリアをとおして、あなたがたが必要なだけ、それをいただくのです」(聖ベルナルド)



142.なるほど、聖ベルナルドが言っているとおり、神はわたしたちが直接ご自分の手から、恩寵をいただく資格がない者だということを見て取って、それをマリアに、お与えになります。マリアをとおして、わたしたちに、ご自分が与えたいだけ、お与えになるためです。神はご自分が、お与えになる恩寵のために、わたしたちが神にささげる感謝と尊敬と愛を、マリアのみ手をとおして、お受けになることにおいて、ご自分の栄光を見い出されるのです。

だから、おなじく聖ベルナルドが言っているように、わたしたちが、神のこの行動を、マネることは、まったく正しいことです。なぜなら、神の恩寵は、それが、わたしたちに達するために通過した同じ運河をとおって、再びその与え主にかえっていくからです。

わたしの提唱する信心が、右とまったく同じことをしてくれるのです。
わたしたちは自分自身と、自分がもっているすべてのものを、マリアにささげ尽くします。それは、わたしたちがイエズス・キリストに負っている栄光と感謝を、マリアの仲介をとおして、かれがお受けになるためです。
わたしたちは自分が、自身の力だけでは、限りなきみいずの神に近づく資格もなければ、能力もないことを知っています。だからこそ、マリアの取り次に、たよる必要を痛感するのです。



143.そればかりか、この信心は、大いなる謙虚の徳の実行でもあるのです。神は、ことのほか、この謙虚の徳をお愛しになります。自ら高ぶる人は、神をはずかしめ、自らへりくだる人は、神に栄光をきします。「神は高ぶる者をしりぞけ、へりくだる者に恵みをお授けになります」(ヤコブ4・6)

だから、もしあなたがへりくだるなら、もしあなたが、自分は神のみまえに出る資格のない者だ、神に近づく資格もない者だ、と考えるなら、こんどは神が、ご自分からへりくだり、ご自分からあなたのもとにおいでくださるのです。そしてあなたとともにいることを喜ばれ、どんなに卑しくても、あなたを高めてくださるのです。これに反して、おこがましくも、仲介者なしに神に近づこうとするなら、神は逃げてしまい、どんなに探しても見いだすことはできません。

ああ、神はどんなに心の謙虚を、愛しておいでになるでしょう。この信心を実行しさえすれば、この心の謙虚を身につけることができるのです。なぜなら、この信心は、自分の力だけでは絶対にイエズスに―たとえかれが、どれほど柔和で、慈悲深いかたにしろ近づいてはいけない、ということを教えてくれるからです。そればかりか、神のみまえに出るときも、神に近づくときも、神に何かお話するときも、神に何かおささげするときも、神と一致したいときも、神に自分自身をささげ尽くしたいときも、とにかくいつなんどきでも、マリアの取り次を求めねばならぬ、と教えてくれるからです。



第三節 第三の理由―この完全な自己奉献のすばらしい効果

第①項 マリアは愛のドレイに、ご自分をお与えになる

144.マリアは、甘美な母、慈悲深い母です。マリアは、ご自分の子らに対する愛と大らかさの点では、天上天下、だれにもヒケをとりません。このマリアが、ご自分を尊びご自分に仕えるため、自らをまったくご自分にささげ尽くしている人をごらんになるとき、また、ご自分をかざってくれるため、自分のいちばんだいじなものをいさぎよく脱ぎ捨てている人をごらんになるとき、ご自分のほうからも同様にこの人に、ご自分にすべてをささげ尽くしているこの人に、ご自分のすべてを、しかもすばらしい仕方でお与えになるのです。

マリアはこの人を、ご自分の恩寵の深いふちに沈めてくださるのです。この人を、ご自分のクドクで美々しくかざってくださるのです。

ご自分の権能でささえてくださるのです。
ご自分の光で照らしてくださるのです。
ご自分の愛で燃やしてくださるのです。

この人にご自分の徳を、すなわち、謙虚、信仰、純粋、その他の善徳を、流通してくださるのです。マリアはこの人のために、イエズスに対しては、保証人、補充、すべてとなってくださるのです。
さいごに、この人は自分のすべてを、マリアにささげ尽くし、全くマリアのものとなりきっているのですから、マリアも同様に、全くこの人のものとなりきっておられるのです。マリアの完全なしもべ、マリアの本当の子どもであるこの人こそ、福音記者ヨハネが自身について言っているように、「彼は、彼女をわが家に引きとった」(ヨハネ19・27)といえる人なのです。



145.こうした中で、もしこの人が、マリアに忠実に仕えるならば、その心の中では、自分自身への不信、軽べつ、憎しみの気もちが、油のようにわき出ます。と同時に、自分の良き女王マリアへの大いなる信頼心と、おまかせの精神がめばえてまいります。もはや以前のように、自分自身の心構え、意向、クドク、善徳、善行をたよりにしません。かれは、良き母マリアのみ手をとおして、これらをみな、イエズス・キリストにささげ尽くしたのですから、今では、自分の全財産である、タッタ一つのタカラしかもっていません。しかもこのタカラをかれは、天にたくわえているのです。それはマリアという名のタカラです。

マリアこそ、この人を、オドオドしたドレイの恐れもなく、クヨクヨした小心の迷いもなく、安心して、イエズス・キリストに近づかせてくださるのです。マリアこそ、この人に、大いなる信頼をもって、イエズスに祈らせてくださるのです。マリアこそ、かれを、信心あつく学徳のほまれ高いルペール師の気もちに、さそってくださるのです。同師は、旧約のヤコブが、天使を負かした故事を引き合いにして、マリアに次のように申し上げています。

「ああ、マリア。わたしのプリンセス。神人イエズス・キリストをお産みになった無原罪の母よ、わたしも、この“人”と、すなわち神の“ミコトバ”と一対一で戦いたいものです。わたし自身のクドクではなく、あなたご自身のクドクで武装して・・・」ああ、人がこのように、神の御母マリアのクドクと取り次で武装するとき、かれはイエズス・キリストのみまえで、どれほど精強な、どれほど勇敢な戦士となるのでしょう。
聖アウグスティヌスが言っているとおり、マリアは愛をもって、全能の神に勝ったのです。



第②項 マリアはわたしたちの善行を清め、飾り、御子に受け入れさせてくださる

146.この信心の実行によって、人は自分のすべての善行を、マリアのみ手をとおして、イエズス・キリストにささげるのですから、マリアは事前にそれを清め、飾り、御子イエズスに受け入れさせてくださるのです。

①わたしたちのいちばんりっぱな善行の中にさえも、しらずしらずのうちに、自愛心と、被造物への愛着心が忍び込み、そのために、せっかくの善行が台なしになったり、けがれ果てたりします。マリアは、これらすべてのけがれから、善行を清めてくださいます。
マリアのみ手は、まったく清らかで、そのうえ豊かです。マリアのみ手は、けっして何もせずにいるのでもなければ、また何も作りだせないものでもありません。マリアのみ手は、それにふれるものをみな清め尽くします。だから、こうしたマリアのみ手に、ひとたび贈り物がのせられますと、マリアはすでにこの贈り物から、すべてのけがれや不完全さを取り除いてくださるのです。



147.②次にマリアは、わたしたちの善行という名の、キリストへの贈り物を、ご自分のクドクと善徳で美化し、かざってくださいます。ここに一人のお百姓さんがいて、王様の友情と厚意を取りつけるため、自分の全財産である一個のリンゴを、王様に献上してくださるようにと、皇后様のところにもっていったとします。皇后様はそれをどうするのでしょうか。すぐに、お百姓さんのおそまつな贈り物を、大きな美しい黄金の皿にのせ、誰々某というお百姓さんからの贈り物でございます、といって王様にさしあげるでしょう。
ところで、リンゴは、それ自身だけでしたら、けっして王様に献上されるほどねうちのあるものではありません。しかし、それをのせている黄金の皿と、それを王様にささげる皇后様の威厳のおかげで、王様にふさわしい献上物となるのです。



148.③マリアは、ご自分に委託されるわたしたちの善行をみな、イエズス・キリストにささげてくださいます。終局の目的として、イエズスにささげられるものを、マリアは、絶対にご自分のものとして取っておかれません。マリアは、すべての善行を、正直にイエズスにささげてくださるのです。マリアに何かささげると、それは必然的に、自動的にイエズスにささげられるのです。マリアをほめたたえ、マリアの光栄を現わす者は、同時にイエズスをほめたたえ、同時にイエズスの栄光を現わす者です。そのむかし、エリザベトからほめたたえられたときそうなさったように、今もいつもマリアは、人からほめたたえられ、祝福されるときには必ず、神をたたえてお歌いになるのです。
「わがたましいは“主”をあがめ、わが霊は、わが救い主なる“神”を喜びたたえます」(ルカ1・47)



149.④マリアは、わたしたちの善行―たとえそれが、聖の聖なる者、王の王なる者にとって、どれほどささいな、どれほどそまつなおくりものであっても―を、イエズスに受け入れさせてくださいます。わたしたちが何かイエズスに、おくりものをするとき、それをただ、自分自身の努力や、善意だけにたよってするとき、イエズスはこのおくりものを、綿密におしらべになります。そしてしばしば、それがわたしたちの自愛心で汚染されているのをごらんになって、お受けになりません。ちょうどその昔、我意に満ちたユダヤ人の供え物やイケニエを、拒否されたように。

しかし、何かイエズスに、その最愛の御母マリアの清らかなみ手をとおして、おくりものをしますと、こんな言い方はおそれ多いことですが、イエズスは、いわばベンケイの泣きどころを突かれたようなものです。イエズスは、だれが、何を、ご自分にプレゼントしたかは詮索されません。このプレゼントを、ご自分にお渡しになる御母マリアのみ手しか、ごらんにならないのです。

そんなわけで、御子イエズスから一度も拒否されたことがなく、そのつどいつも嘉納されておいでになる御母マリアは、大小を問わず、どんなおくりものでも、イエズスにお手渡しになるものは、イエズスが喜んで受け納めてくださるように取りはからってくださるのです。わたしたちのささげものが、イエズスに喜んで受け納めていただくためには、それがマリアのみ手をとおりさえすれば十分なのです。これこそ、聖ベルナルドが、完徳への道に指導していた人びとに与えた、偉大な教訓なのです。
「あなたがたが何か、神にささげものをするときには、それをマリアのみ手をとおして、神にささげるように、くれぐれも注意しなさい。もしもみなさんが、神からそれを拒否されたくなければ・・・」(「主の降誕の説教」18)



150.人間の世界でも、つまらない人が、エライ人に何かたのむとき、必ずそうしているではありませんか。どうして恩寵の世界でも、々ことをしてはいけないのでしょうか。神はわたしたちよりも無限に偉大なかたです。神のみ前ではわたしたちは、一個の原子よりもはるかに小さな者です。いわんやわたしたちには、神はいちども拒否されたこともない、マリアという有力な弁護者がついておられるのではありませんか。

神のみ心にかなうためのあらゆる秘けつをごぞんじになるマリア、どんなつまらない者でも、どんな悪い者でも、絶対にお見捨てにならない、このうえなく慈悲深い御母マリアが、ついておられるのではありませんか。

わたしが今述べている真理の予型を、これからお話する旧約聖書の、ヤコブとレベッカの物語の中にごらんになって頂きたいのです。


   ヤコブとレベッカ

(第八巻につづく)

☆おしらせ
カトリックの信仰や教会に関心があり、学んでみたいと思われる方は、ツイッター仲間に好評の「尾崎明夫神父のカトリックの教え」がブログ公開されていますので、
ぜひご覧ください。
http://www1.cncm.ne.jp/~toguchi/ozaki_catholic/00.htm