夜は、いつもより深かった。
闇の色が重く、世界の隅々まで浸透しているように感じられた。
アズラは一人、世界樹の裂け目の前に立っていた。

かつて天に立った翼は焦げ、黒くねじれた。
だがその目には、まだ人の涙を映す光が宿っていた。

「ノア……」
彼は小さく呟いた。
堕天の子が世界を抱き、光と闇をともに歩む今、
自分の役割は終わろうとしていた。

「私のすべては、彼のためだった――」

アズラは思い出す。
あの夜、セラの子を抱き、母の命を渡したこと。
人の痛みを胸に刻み、何千もの涙を拾ったこと。

彼の中にあったのは、孤独でも怒りでもなく、愛だった。
しかしその愛は、決して報われるものではなかった。

世界樹の裂け目が光を放つ。
その光は、アズラの存在を押し流すように迫る。

「私は……ここで消えるのか……」

消滅する前、アズラは最後の祈りを口にした。

「すべての痛みを抱く者よ、
どうか、絶望の中で希望を見つけてほしい。
それが、私のすべてだった……」

闇が溶け、黒い羽が風に散る。
光と影が交わるその中で、アズラの姿は消えた。
しかし、彼の残したものは消えなかった。

ノアは気づく。
手に触れる風、土の香り、空を流れる光――
すべてが、アズラの祈りの残響だった。

「悪魔は、死なない……
祈りの中に生き続ける。」

その瞬間、ノアは理解する。
悪魔が抱いた人への愛――それこそが、
世界に残る最後の光であることを。

神は静かに見守っていた。
アズラの消滅は、秩序に影響しない。
しかし、その残響は、やがて人々の中で生きるだろう。

「これが……祈りの力か。」

闇が深まった場所に、微かな光が揺れる。
それは、悪魔の最期がもたらした“救済の残響”。
人はそれに気づかず生き、しかし世界は確かに変わった。

もしも悪魔がいたのなら――
その最期は、決して終わりではない。
人の胸に芽吹く祈りとして、
世界の奥底で、静かに生き続けるのだ。

──Fin──