夜がまだ、神の光を忘れなかった時代。
人々は祈りを知り、希望を信じていた。
けれどその希望は、あまりに脆く、あまりに身勝手だった。
ある天使がいた。
名をアズラといった。
彼は、誰よりも人を愛していた。
人の涙を拭い、嘘を見抜き、傷ついた者の傍に寄り添った。
だがある日、アズラは気づいてしまった。
救いとは、誰かの犠牲の上にしか成り立たないということに。
一人の母が病で死にかけていた。
アズラは祈った。命を助けてほしいと。
神は言った。
「命の流れを乱すことは許されぬ。
その子が死ぬことで、千の者が生きるのだ。」
アズラは叫んだ。
「それが正義だというのなら、正義など燃やしてしまえ!」
その瞬間、彼の翼は黒く染まった。
光は離れ、羽は落ち、アズラは“天”から墜ちた。
地に堕ちた彼は、初めて「痛み」を知った。
血が流れ、涙が熱を帯び、心が軋む。
けれどその痛みの中で、アズラは悟った。
「ああ、これが人の世界なのか」
祈っても救われず、正しさが誰かを殺す世界。
ならば自分がその“祈り”を終わらせよう。
「神が見捨てた者を、私が救おう」
――そうして、“悪魔”が生まれた。
彼の力は、もはや天にも地にも属さなかった。
それは願いを叶える力。
だが、願うほどに、叶えるほどに、人は壊れていった。
母を救いたい子は、母の死を恐れるあまり狂い、
愛する者を失いたくない者は、愛を疑い、縛り、憎しみに変えた。
アズラは泣いた。
けれどもう涙は赤く、地に落ちても癒すことはなかった。
「私はただ、人を救いたかっただけなのに――」
その夜、初めて人間が“悪魔”という言葉を使った。
アズラは笑った。
それは、皮肉でも怒りでもなく、ただ静かな受け入れだった。
「そうか。ならば私は、悪魔で構わない。
神が救えぬ者を抱くために、生まれたのだから。」
――そして、時は流れ。
“リツ”という少年が祈りを捨てた瞬間、
彼の耳に、懐かしい声が届いた。
「君は、誰かを憎んだことがあるかい?」
それが、アズラ――
かつて“天使”だった悪魔の、最初の囁きだった。



