風が鳴いていた。
枯れた森の奥、黒い月の下。
少年は夢を見ていた。
誰かの手が、彼の頬を撫でている夢を。

その手はあたたかかった。
だが、目覚めるたびに指先は消えていた。

「母さん……」

そう呟く声は、もう誰にも届かない。

少年の名は ノア。
病弱だった彼は、奇跡的に生き延び、
やがて村一番の青年に成長した。

だが、成長と共に奇妙なことが起き始めた。
怒ると風が逆巻き、
泣くと花が枯れ、
嘘をつくと鏡が曇った。

村人は囁いた。

「あの子の中には“何か”がいる。」

ある夜、ノアは夢の中で声を聞いた。

 

 

 

 

 

 


「――元気そうだな、セラの子。」

暗闇の中から現れた男。
黒い外套、夜より深い瞳。
その目を見た瞬間、ノアの胸が痛んだ。

「おまえ……誰だ?」
「おまえの中にいる“名もないもの”さ。」

ノアは震えた。
けれど、どこか懐かしかった。
彼は知らずに、その声を知っていた。

「母は……どうして死んだ?」

少年の問いに、男は静かに答えた。

「彼女は選んだ。
おまえを生かすために、自分の命を“渡す”ことを。」

ノアは拳を握った。

「そんなの、間違ってる……!」
「いいや、正しいさ。
彼女は“愛”という名の痛みを、世界で最も美しい形で使った。」

沈黙。
ノアの中で、何かが震えた。

「なら、僕は何なんだ?」

その問いに、悪魔は微笑んだ。

「おまえは、二つの祈りの果実だ。
一つは“神への祈り”。
もう一つは、“神に届かなかった祈り”。」

ノアはその言葉の意味を、まだ理解できなかった。
けれど、胸の奥で何かがはっきりと目を覚ました。

「母の願いが僕を生かしたなら……僕はその“力”で、誰かを救えるのか?」

悪魔は目を細めた。

「救いとは、奪うことだ。」
「違う、返すことだ。」

その瞬間、風が吹いた。
黒い羽が舞い、夜の森に光が差した。
悪魔は微かに笑った。

「……セラに似てきたな。」

夜明け前。
ノアの中に眠っていた“契約の印”が輝きはじめた。
手のひらには、母の形見のように小さな赤い紋章。
それが、彼の“選択”を求めて脈打っていた。

「悪魔……お前はなぜ、人を助ける?」
「助けたいわけじゃない。
ただ、人の“痛み”が、僕を人間にしてくれるからだ。」

ノアは静かに頷いた。

「じゃあ、僕は――お前の代わりに光を見つけてくる。」

悪魔は答えなかった。
ただ、微かに笑った。

その笑みには、
かつて神に見放された者の誇りと、
確かな“希望”が宿っていた。

もしも悪魔がいたのなら――
その種は、人の愛の中に植えられ、
やがて“救い”という果実を結ぶ。

──Fin──