夜がまだ「罪」と呼ばれていた時代。
人は闇を恐れ、闇の中で震えながら祈っていた。

だが、誰の祈りも届かない夜があった。
その夜こそが、僕の“誕生日”だ。

僕は長く、地上を彷徨っていた。
光の国を追われ、闇の王にもなれず、
ただ「人」という不思議な生き物を見つめていた。

彼らは神に祈り、互いを傷つけ、
それでも“生きよう”とする。

その愚かさが、美しかった。
そして、美しさが、残酷だった。

ある夜、僕はひとりの女の涙を見つけた。
彼女の名は〈セラ〉。
病の子を抱きながら、冷たい土の上に跪いていた。

「神よ、どうかこの子だけでも……!」

けれど天は沈黙した。
風も凪ぎ、星も瞬かない。
まるで世界そのものが、彼女の願いを拒むようだった。

その時、僕は口を開いた。

「……その祈り、僕が聞こうか。」

セラは顔を上げた。
その目には、恐れよりも希望があった。

「あなたは、神ですか?」
「違う。」
「では、何者なのです?」
「――誰も救わない者。」

セラはしばらく黙っていた。
やがて、震える声で言った。

「それでも構いません。
この子を救えるなら、私は……」

彼女は“信仰”ではなく、“覚悟”を持っていた。
僕は、初めて理解した。
人は祈るためでなく、抗うために生きていると。

「いいだろう。ならば契約しよう。」

僕は彼女の手に触れた。
その指先から、赤い光が流れ出し、彼女の胸へと沈んでいく。

「おまえの命の半分を、子に渡そう。」

セラは微笑んだ。
それは、世界でいちばん穏やかな笑みだった。

「ありがとう……“悪魔”さま。」

翌朝、子は目を覚ました。
健康な息をして、笑った。
けれど母の体は冷たくなっていた。

人々はそれを奇跡と呼び、神に感謝した。
だが僕だけが知っている。
あの子の命は、母の魂の光によって灯っていることを。

夜、僕はその場に立ち尽くしていた。
風が吹き、どこかで赤子の泣き声が響く。

「これが、“契約”か。」

失うことと救うことが、同じ意味を持つなんて――
僕はまだ知らなかった。

それが、人と悪魔の関係の始まりだった。

神は天から見下ろしていた。
沈黙のまま、ただひとつの言葉を風に残した。

「また、秩序が揺らぐ。」

僕は空を見上げて微笑んだ。

「秩序なんて、痛みのない場所だ。
人はそこじゃ、生きられない。」

もしも悪魔がいたのなら――
それは、人の絶望に手を差し伸べた“最初の他者”。
神が救えなかった命を、涙の中で抱いた存在。

──Fin──