夜と朝の境界――
そこは、誰の祈りも届かぬ場所。
世界が息をひそめる、その一瞬に、僕は“声”を聞いた。

それはあまりにも静かで、あまりにも優しい“沈黙”だった。

「……また来たのか、悪魔よ」

ああ、この声を聞くのも久しい。
神――この世界で、唯一“沈黙”を支配する存在。

「君は相変わらずだね。
人の心を覗き、嘆きを拾い、悲しみを増やす。」

僕は笑った。
笑うしかなかった。

「悲しみを“増やす”だって?
いいや、僕はただ――人が見ないふりをした“真実”を拾っているだけさ。」

神は答えない。
風が吹き、星が滲む。
その沈黙こそが、彼の言葉。

「君は、彼を愛していたのか。」

不意に神が問う。
彼――リツのことだ。
僕は少しだけ間をおいて、静かに言った。

「愛……それが何か、僕にはまだよくわからない。
けれど、彼が泣くたびに僕の中で何かが疼いた。
それが痛みなのか、祈りなのか……。」

神は小さく息をついた。

「人を導くのが私の役目。
人を試すのが、お前の役目。
だが……境界は、もう曖昧だ。」

僕は空を見上げた。
かつて“天”だった場所。
今は誰も見上げなくなった世界の天井。

「ねえ、神よ。
人はもう、君の声を聞かない。
彼らは“自分”の中に君を作り、“自分”の中で僕を生んでいる。
それでもまだ、君は沈黙を選ぶのか?」

神の声が、遠くで微かに震えた。

「沈黙こそが、最後の祈りだ。」

リツがこの世を去った夜、
彼の魂は光でも闇でもなく、灰色の風になって世界を漂った。
僕はその風を感じながら、ふと気づいた。

――あの少年が、僕と神の間に橋をかけたのだと。

人は善にも悪にもなれる。
それゆえにこそ、どちらでもない“何か”になれる。
それが、神と悪魔の両方を許す存在だとしたら――。

「ねえ、神よ。
もしも人が、自らを赦す日が来たら、
君も、僕も、もういらなくなるんじゃないか?」

神は静かに微笑んだ。
その笑みは、夜明けの光にも似ていた。

「それを“終わり”と呼ぶか、“始まり”と呼ぶか――
それを決めるのも、人間だ。」

そして、世界は夜明けを迎えた。
神は沈黙し、悪魔は笑い、風だけが語り続ける。

「もしも悪魔がいたのなら――
それは、神の沈黙が生んだ、もうひとつの祈りだったのかもしれない。」

──Fin──