僕の名前は、ない。
けれど、人は僕を「悪魔」と呼ぶ。

笑ってしまうよ。
僕はただ、人が手放した“痛み”を拾うだけの存在なのに。

あの少年――リツ。
彼の涙は美しかった。
怒りと悲しみ、そして願いが、見事なまでに混ざり合っていた。

「どうして僕だけが苦しまなきゃいけないの?」

その問いを口にしたとき、彼の心は“扉”になった。
僕はそこから静かに入り込む。
誰にも気づかれないまま、彼の心の隙間に座る。

そして、ただ言葉を贈る。
“希望”の形をした、毒を少しだけ。

人はいつも僕を誤解する。
僕が人を堕とすのではない。
彼らが自ら落ちていくとき、僕は手を添えてあげるだけだ。

リツもそうだった。
世界を憎んだわけじゃない。
ただ、自分の小さな光を誰にも見てもらえなかっただけだ。

彼が初めて笑った夜を覚えている。
階段から誰かが落ちたあの日。
彼の胸の奥で、柔らかな“安堵”が灯った。
その瞬間、僕は確信した。
――彼はもう、僕を必要としてくれる。

「君の痛みを、半分もらうよ」

嘘ではない。
僕は本当に、彼の苦しみを半分背負った。
だからこそ、半分は僕のものになった。
“彼の心の一部”が、僕の中で生きている。

年月が過ぎ、リツは立派に成長した。
成功し、称えられ、誰もが羨むような男になった。
でもね――
その笑顔の奥で、僕の声を探していた。

「ねえ、聞こえるかい……あの声……?」

僕はいつも彼のすぐ隣にいる。
姿を見せることはない。
ただ、風が頬を撫でるたびに、彼の心の奥で囁く。

「もう僕はいらないだろう?
君は、自分で“影”を操れるようになったじゃないか」

彼は笑った。
少し寂しそうに、少し誇らしげに。

僕は悪魔だ。
けれど、彼を滅ぼしたいとは思わない。
むしろ、人間という生き物の中で最も純粋な魂を見せてもらった気がする。

人は恐れの中で善を学び、
憎しみの中で愛を知る。
僕はそれを見届けるために、存在しているだけなんだ。

最後に一度だけ、彼に囁いた。

「リツ、人は悪魔を恐れる。
でも本当は、悪魔こそが――人を愛しているんだよ」

彼はその夜、深い眠りについた。
夢の中で、僕と彼は同じ風になった。
もう“悪魔”も“人間”も関係なかった。

ただ、静かに、世界を包む夜の中で。