人は昔から、「悪魔」という言葉を恐れてきた。
だが――もし、本当に悪魔がいたのなら。

それは角も翼も持たず、地獄の業火に棲むわけでもない。
悪魔は、いつだって“人の心の奥”にいる。

ある日、少年リツは、路地裏で“声”を聞いた。
それは黒く澄んだ水面のような声だった。

「君は、誰かを憎んだことがあるかい?」

リツはうなずいた。
父を、母を、そして自分自身を憎んでいた。
「どうして僕だけが、こんな世界に生まれたんだ」と。

「なら、僕と契約しよう。
君の痛みを半分、僕が背負ってあげる」

そう言った“声”の主は姿を持たなかった。
けれどその夜から、リツの世界は静かに変わり始めた。

学校でいじめてきた奴が階段から落ちた。
虐げていた教師が突然、辞職した。
リツは怖くなり、同時に――少しだけ嬉しかった。

やがて、声が再び囁く。

「ねえ、リツ。
君の願いはまだ叶い切っていないだろう?
“正しさ”の名のもとに誰かを罰したいなら、僕が手伝う」

リツは涙を流した。
誰かを罰したいのではない。ただ、救われたかった。
けれど悪魔は笑う。

「救いと破滅は、同じ階段の上と下なんだよ」

何年も経ち、リツは大人になった。
成功し、富を得て、人々に称えられるようになった。
それでも夜になると、あの“声”が聞こえる。

「ねえ、リツ。僕がいなくても、君はもう立派な悪魔だよ」

リツは笑った。
悲しいほどに、それが真実だった。

もしも悪魔がいたのなら――
それは罰を与える存在ではなく、
人が“正しさ”のために他者を傷つけるとき、
その心に生まれる影の名だったのかもしれない。