自分が思っていたよりも、もっとずっと怖がりで、弱くて、わかったつもりでいたのに受け入れてなかったのかもしれない。


それもちょっと違くて、わかって感じて、さらにそれを払拭したくて戦っていた。


闘っていた。


犬好きの友人に聞いた話なんだけど、闘犬は実はとっても繊細で臆病なんだって。


その時はかわいいブルドックの大きな置物を見かけた時で、『ブルドックと相性が会うんじゃない?』と言われたんだった。


ちなみに先日の”ともはるくん”はフレンチブルだ。



「なんで?闘うんだから強いんじゃないの?」って聞くと、


『闘ったり吠えるのは恐怖心から来るから。だから闘犬としてより強くするのに、臆病な遺伝子を持ってくる。』って教えてくれた。


(対象を守ったり、飼い主への服従心も強いんだって。その繊細さをお互いに理解し合えるって意味で言ってくれた。)


まさにわたしだって思った。。。


もちろん闘犬やブルドッグを悪く言いたいんじゃないの。


ブルドッグ好き。フレンチブルも大好き。


でも、強そうな自分とか、本当に嫌だった。


でも、強がってた。


でも、そんな自分は周りに怖がられる。


可愛く無い。


本当は弱いのバレたく無い。


でも本当は助けて欲しいし、守られている安心感が欲しい。


でも言えない。


でも強がっている自分はもっと情けなくて嫌い。。。


こんな感じだった。


とてもじゃないけど、認められたもんじゃない。


だって認めたら強くいられない、弱くなっちゃう。。


矛盾してるよね?


書いていて笑けてくるけれど、本当に一生懸命そんな自分で生きて来た。


なんでって言うと、その奥底には子供の頃に感じた、


『お母さんを守らなきゃ。強くなくっちゃ。誰にも頼らずに、一人で生きて行けるようにならなくっちゃ。』


があった。


あとは、『無条件にこの世が怖い。』


『人と違う自分は、仲間に入れてもらえない=生きていけない』という生存本能。


そして『変わってる自分はバカにされたり、攻撃の対象になってしまうかもしれない。』


他にも色んな経験からきた【思い込み】というものから、色んな自分を作り上げて来た。


そしてその鎧は生きていくほどにどんどん重くなっていった。


だって大人になればなるほど、経験を重ねれば重ねるほど、色んな事がある。


知識もつくけど、それでも無意識のうちに自分の安心安全を守るため、生存するために、子供の頃に癖づいた“鎧を重ねる”事を、息をするように次々として来た。


でも気づかないうちに本当に本当に重くなって、それでも若さの体力でカバーできる内はまだよかった。


いや、それでも辛くて辛くて仕方なかったから、全然平気じゃなかったけど、色んな外側の事で誤魔化せた。


やっぱり全然誤魔化せてなかったけど;


でももう無理…と認めざる得なくなって、どうにかしないと本当に人生終わると思って、必死で自分と向き合い始めた。


それまでも向き合っているつもりだったけれど、奥の奥まで見に行った。


それは安心安全な人と場の元で行えた事が、本当に幸運だった。


そう考えてみると、やっぱり人生のある時点でそういったもの達と出会うのを、プログラミングして来ていたのだと確信している。


それで、その気づきは一段、また一段と深まっていく。


昨日も書いたけど、ドカーン!!という衝撃から、徐々に静かに、でも大きな衝撃を持ってどんどん奥深くに到達してくる。


これはわたしが、これまた思ったよりずっと頑固だったからかも知らないけれど、やっぱり“向き合う筋”というものもあるように感じる。


先にも書いた通り極度の怖がりなんだから、最初からこんな神経の奥にズーンみたいなところまでは行けなかったのかもしれない。


でも”ありのままの自分”に近付けば近づくほど、私の場合は『臆病』だったり『繊細』だったりが際立つわけで、今まではその自分をどうにかして鎧で守ったり誤魔化して来たのだから、いきなり剥き身で外の世界はちょっと刺激が強すぎてどうしたらいいか、わからなくなる。


もちろん行き着くところは『ありのままで大丈夫。安心安全。』なんだけれども、知るのと感じるのでは雲泥の差だ。


というところにやっと気付いた→やっと感じている、なう。


というわけだ。


まず怖さに気づいてからは、それでも「対処」しようと一生懸命闘っていたもの。


でも闘っても闘っても怖さはなくならない。


辛さは増す一方。


だってやっぱり外側をどんなに懸命に変えようと思っても、内側が変わらなければ同じ世界の繰り返しだもん。


しかも闘いのヴァイブスは、闘いのヴァイブスを助長する…


これはもう本当に実感して気づくしかない。


そして『ただありのままを認める』これしかない。


これは、実際は今まだやっている途中かなぁ、という感じ。


同時に「え、まだこんな事ウジウジ言ってるの?もうチャッチャと行動して先に行きなさいよ!」という自分も同時にいる。


これもまた、わたしのレイヤーの一部であり、どのレイヤーの自分も、受け入れるしかない。


そして今はこういう時期。


まるで引きこもり状態な心境だけれども、これも必要な時期。


忍耐がいるし、自分が自分を信じていなければ、この状態もまた苦しく、すぐに誤魔化し行動や逃避行動をしたくなる。


でもそれもまた、ただ見つめて観察する。


受け入れる。


言うは易しで、よく聞くような事かもしれないけれど、ここで焦りたく無い。


(これまで焦りまくって、”待てない”をやりまくった人生。)


サーフィンも、波に乗るまでは慌てて立つとバランスを崩して、転んでボードから落ちる。

(ハワイの体験で、温厚なインストラクターをこれを繰り返してキレさせた経験あり。)


蝶が孵化する時に、良かれと思って蛹にちょっと切れ目を入れたら、その蝶は羽を広げて飛ぶことはなかった。

(という話を聞き、信じて待つ事の大切さを学んだ。)


それを自分にやるのは、今までのパラダイムにはなかった経験かもしれない。


何かを動かしたり、目に見える行動を起こす事だけが全てじゃない。


最終的にはそこに行き着くのかもしれないけれど、まずは目に見えないところから。


そこからでないと、外側を変えたと思っても、またすぐに元に戻ってしまうのだ。


方や「周りはどんどん動いたり変わって行ってるのに、自分はまだこんな事をやっている」と、すぐ誰かと比べたり、外の目を気にしてしまうけれど、誰も見ていないカッコ笑いと言っていいだろう。


それも他でも無い、自分が自分を見張ってジャッジしているのだから。


だから、今の状態を自分でやれているのは、ある意味自分史上すごいことなのかもしれない。


もちろん人を介したり助けてもらったり、観察者がいてくれる環境でそれをやるのは、とてつもなく贅沢な素晴らしい体験を伴う。


ありがたいことにそれらをやって来て、でも今のこれは、あとはもう自分で気づくしかない、体感を持って落とし込むしかないところまで来た。


それさえも能動的に聞こえるほど、もうただ見つめて受け入れて、待つともなく”在る”しかないという感じ。




永遠に続きそうだから、ここで〆。


なんかお腹空いて来た…〆のお茶漬けたべたい。。。


でも今はなぜか器が大きすぎる、あの「つるとんたん」が浮かぶ…あのお出汁とうどんを啜りたい心境。。




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