何かをやろうとする時、「なんかやりたくない!フラストレーションを感じる…!!!」という時は、きっと完璧さを求めている時。
【ちゃんと】やらなきゃ!
一から全部調べて情報集めて、最善を尽くさなくてはいけない!!
という重い甲冑を着てやらなくてはと思っているから。
で、そこにはやっぱり人の目が気になったりするのだと思う。
自分の中でのベストを尽くそう!という気概が完璧を求める時もあるけれど、そこにプレッシャーを感じていたりするならば、やっぱり誰にとっての完璧なの?誰にどう思われる事を気にしているの?というところ。
きっとそういうマインドの時には、何かを成し遂げた後はほっとするしれないけれど、自分から純粋に湧き上がるワクワクさ!とともに行った時の爽快感や、次はどんなことをしよう!という感じとは違う気がする。
そもそもやろうとしていることが、『本当にやりたい事なのか?』というところは大前提だけれど。
何を隠そうこのわたし自身が、何か行動を起こすときに過緊張しやすい側面もある。
よし、やろう!→やる。時もあるけれど、一旦止まってしまう時はきっと「やらなきゃ」が優位な時だったり。
やらなきゃって、結局は他人軸なのかなと思う。
自分のために「やらないとな〜」と思う時もあるけれど、めんどうでも結局はやる。
あと、やったからにはちゃんと続けなきゃ、とかね。
でも超絶飽き性なものでして
途中で辞める事すら怖くなってたんだと思う。
辞めたら、「またか〜」「結局何もかも中途半端だよな」「だらしない」って思われちゃう…
って。
結局のところ、それを自分に言っているのは他の誰でもない自分なんだよね。
確かに子供の頃親に言われてり、周りの人にそう言われた経験があるのかもしれないけれど。
でも、飽きるってことは自分にとって究極必要じゃないってことだよね?
石の上にも3年!(←だっけ?)という言葉だったり、一度始めたことはやり遂げなければ圧も、今までの社会には強かったかもだけど、なんかそれも変わってきたよね?
もちろんそれにおける良い側面もたくさんあるだろうし、何かを成し遂げる時には必要なマインドだったりするのだろうけれど。
でも、元々の性質がそうでない人→I’ts me は、サイズの小さすぎる靴を履いて、途中で足が痛くても熱中症になっても「何がなんでも42.195キロ走りきれーーーー!!!!」って言われているようなものなんでないかい?
走り終えた後、普段走るのが好きという人のような達成感はそこにあるのだろうか?(好きな人でも、もちろん辛さはあると思うけれど)
なんか、もうしばらく当分走るどころか動けないよね、きっと。
その時に自分が本当にやりたいことが目の前に来たらどうする?
パッと乗れないよ
例えが極端かもだけどさ、その人にはその人に合った競技や種目があるはずなんだよ。
長距離走でなくて、短距離走が得意な人もいる。もはや泳ぎたい人だっている。
だから「あの人はちゃんと続けられているのに、私は何も極められないんだわ」なんて、考えるだけ無駄かもよ。
そもそも比べられるものじゃないしさ。
飽き性には飽き性の良さがある。
次から次に新たな情報をキャッチできたり、代謝や物事のサイクルが早いと考えてみてはどうだろう?
あとは何となく“自分“じゃないものを続けてずっとなんだか冴えない、、、状態を続けるのではなく、自分にカチッとハマるものをどんどん試して探していけるイケイケマインドともとれる。
それに、“飽きる“と言う事は、まずは行動できているのだから。
その行動力はかってあげてもいいんでないかい?と。
なんかいきなり『飽き性だってバンザイだぜ?』みたいな話になったけれど、もちろん同じことを長く続けられる事も素晴らしい。
飽き性な中でも、何か“コレ“ってものはずっとやっているな〜ってのもあるだろうし。
ただ、あまりに自然にやり過ぎて気づけていない事も多いかもね。
あと生産性のあるものこそと、意識しがち。
何の生産性のないと思っていることの中にも、実はキラリと光る何かが見えるポジションってものがあるかもしれない。
つまりは、やりたいとおもった事は何でも軽い気持ちでやってみるといいて事だな。
『本当にやりたい事』ってのも、実際にやってみないとわからなかったりするし。
人から言われた事でも、最初は「うーん」と思いながらもなんか気になれば、実際にやってみると意外とハマるものもあるかもしれないし。
あんまり力まなくてもいいんでない?ってことで。
定番の雑〆鯖
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ちなみにADHDで多動なわたしは、思ったよりずっと集中力が続かない事、集中しても消耗しその後のパワーは続かないことに気づいた。
知っていたのだ、知っていたけれど、思ったよりずっと…なのだ。
たぶん、今思っているよりもっとだと思う。
ただし、過集中するとやばい。
それとこれとはまた別なのだ。
というより、コントロールできるものでは、ない。残念ながら