間違いなく確かに。

 危なげなく、しっかり強くあるよ。

 

 

 便利で、

 都合よく勘違いしてくれる言葉の代表格、

 『大丈夫』

 

 

 この言葉の裏に、

 どれだけの不安と涙と、

 葛藤と強がりがあるか。

 

 

 わたしは、この「大丈夫」という言葉に

 拒絶の想いさえ感じる。

 

 

 大丈夫。だからそっとしておいて。

 大丈夫。だから関わらないで。

 大丈夫。だからどうか、あっちに行って。

 

 

 笑顔で相手を拒絶する、

 最強の防御魔法。

 

 

 この防衛ラインを突破するのに、

 攻撃魔法は逆効果。

 

 

 どうやってあなたのこころに触れに行く?

 

 

 

 それではいざ、物語の始まりへ。 +゚*。:゚+.゚*。:゚

 

 

 

 

言葉の魔法

 

 言葉とは、

 尽きることのない魔法の源。

 傷つけることも、

 癒すこともできる。

 

 

 みなさまご存じ、

 ハリー・ポッターシリーズの、

 ダンブルドア校長先生の台詞です。

 

 魔法の発動トリガになるのは、

 

 「言葉」

 

 

 ウィンガーディアムレヴィオーサ

 エクスペリアームス

 リディキュラス

 アバダケダブラ

 エクスペクトパトローナム

 

 

 ハリポにはまった人なら、

 一度だけに留まらず、

 絶対に何度か口にしたことがあると思います。

 (羽根は浮かなかったんや…)

 

 

 リディキュラス、は英語そのままですが、

 正直何の意味だかわからない呪文もあります。

 

 

 でも、だからこそ、

 「言葉」に想いが宿る。

 

 

 「エクスペクトパトローナム」

 これを唱えることで

 守護霊を呼び寄せるけれど、

 

 同時に、

 

 嬉しかったこと、

 楽しかったこと、

 愛を感じた瞬間。

 

 これらを思い出すことにも繋がる。

 

 

 つまり、

 言葉には、その「言葉」以上の

 想いが盛り込まれている、と言うこと。

 

 

 わたしが「小説」を書く上で

 大切にしていることは、

 

 言葉に収まりきらない気持ちも

 伝えられる自分でいること。

 

 なぜなら小説は、

 言葉のみを通して

 想いを伝える媒体だから、です。

 

 言葉に込める想いを、

 互いに受け取り、

 渡すことができるからこそ、

 言葉に「想い」を乗せて、

 

 読者に伝わる言葉を、文章を、

 創り上げることができる。

 

 

 これは、わたしが考える、

 「書き手」として当たり前のこと。

 

 

 「言葉」の定義を正確に理解しているからこそ、

 そのまま受け渡し出来て、

 

 その言葉に、

 自分しか込められない想いを込めるからこそ

 映像込みの「想い」を

 共有できると考えています。

 

 

 「いい言葉」とは、

 書き手、語り手の「想い」が乗った

 映像が浮かぶもの。

 

 

 「言葉」を通して、

 相手を成長させられちゃう自分で、

 日常から過ごしているからこそ

 

 結果として

 「相手の人生のために必要な成長の要素」を

 送り届けられる「小説」を創れる、

 と思っています。

 

 エクスペクトパトローナムにこもる、

 

 嬉しかったこと、

 楽しかったこと、

 愛を感じた瞬間。

 

 これと、一緒。

 

 

 

 ただし、忘れないで。

 

 言葉が魔法たりえるのは、

 言われたことをいつまでも、

 忘れられないから。

 

 相手の中に残り続ける。

 呪いのように。

 祝福のように。

 

 

大丈夫を大丈夫として受け取った

 

 言葉は魔法のように、

 どんな想いも全て、

 集約してしまいます。

 

 ゆえに、「言葉」だけで

 すべてを伝えられると

 勘違いをするわけです。

 

 そして、「言葉」だけですべてだと、

 勘違いをするわけです。

 

 

 

 例えば、

 浮気性のコイビトの「愛してるよ」

 京都の「ぶぶ漬けでもどうどす?」

 

 この「ぶぶ漬けでもどうどす?」のストーリは

 

 京都人は本音を話さない

 京都人の言葉には裏がある

 

 京都人を語るエピソードとして

 よく使われていますよね。

 

 

 これは、

 「早く帰りなさい」と

 暗黙に伝える言葉で、

 

 この言葉をそのまま受け取り、

 ぶぶ漬け=お茶漬けが

 出てくるのを待つと、

 「空気を読まない人」と

 レッテルを貼られたりします。

 

 

 でも実は、

 この「ぶぶ漬け」エピソードには

 別の解釈もあって。

 

 もう少しあなたとお話ししたい、

 という意味が込められていて、

 

 でも直接的には言えないから、

 婉曲的にお伝えする、というもの。

 

 これって人に物を上げるときによくやる、

 「これはつまらないものですが」

 と一緒です。

 

 何でつまらないものをくれるんだよ、

 いらないよ!

 

 そうは返さないですよね。

 

 

 わたしはとってもいいものだと思っているので、

 あなたに差し上げたい。

 でも、あなたにとっては

 つまらないものかもしれないし、

 気にいるかどうかはわからないけれど。

 

 

 「つまらないものですが」

 の言葉の奥には、

 そんな「想い」が込められています。

 

 

 こうやって

 言葉の奥に、裏に、

 たくさんの「言葉に収まりきらない気持ち」

 があることを

 知っているのに、

 なぜか、表面だけを受け取ってしまうのです。

 

 

 わたしも、言葉の表面だけを

 見てしまっていたことがありました。

 表面だけしか見れていなかったゆえに、

 一歩間違ったら、仲間を無くすところだった。

 

 一人孤独に、不安や恐怖と闘うのを、

 結果として見て見ぬふりをしてしまった。

 

 

 

 わたしは今、事業仲間と、

 一つ屋根の下で共同生活をしています。

 

 一人の時間しかなかった一人暮らしから、

 四六時中、ずっと誰かと一緒にいる暮らしへ。

 

 みんなで一つの部屋に集まり、

 時には会話し、 

 時には打合せし、

 そして基本的には無言で、

 個人の仕事を進めていく。

 

 そんな毎日ではありますが、

 

 一人になりたくて、

 外の風にあたりに行くこともあります。

 

 

 沸騰した頭を鎮めるためでもあるし、

 自分に対する憤りを吐き出すためでもあるし、

 未来に対する不安を、振り切るためでもある。

 

 

 ぼんやり、ゆっくり、まったりしていたいのに、

 

 仲間たちは一人にさせてくれない。

 

 自分一人で、俯いて思考することが、

 マイナスにしか、悪い方にしか、

 向かないことを知っているから。

 

 

 それを知っていても、

 少しの間でいいから、

 「今」に留まる猶予が欲しいとき、

 ありませんか?

 

 そんなときに、あの手この手で、

 「どうしたの」

 「何があった」

 と、優しく聞き出そうとしてくれる

 仲間に言うんです。

 

 

 「大丈夫」と。

 

 

 「大丈夫」 だからそっとしておいて。

 「大丈夫」 だから、放っておいて。

 「大丈夫」 だからどうか、あっちに行って。

 

 

 笑みを浮かべて明るく、

 何でもないよ、と伝えることで

 また、一人の時間を手に入れられる。

 

 

 ただこれは、

 相手との関係性、距離感によって

 有効か無効かが分かれます。

 

 

 間に遠慮がある関係性なら、

 「わかった」と引き下がってくれますが、

 間に遠慮がない関係性なら、

 簡単には引き下がらない。

 

 言葉の端に、

 目線に、

 手先の挙動に、

 身体に、

 

 「なにかある」が見えているから。

 そこを突いても壊れない関係を築いていると

 確信があるから。

 

 

 

 わたしが仲間に対して、

 言葉の防御壁を越えて

 手を伸ばせなかったのは、

 まだ、関係性に遠慮があったときのことでした。

 

 

 一人、気分転換に散歩に行ったり

 一人、カフェに行って仕事をしたり

 一人、部屋にこもって仕事をしたり。

 

 共同生活の中で、その仲間だけ、

 一人でいる時間が多かったんです。

 

 

 おかしいな、と思っていたのに。

 

 

 「大丈夫?」と聞いたわたしに

 「大丈夫」と笑った仲間。 

 

 それで、「それなら」と引き下がってしまった。

 

 

 「大丈夫」という言葉で、

 拒絶をしていた自分なのに。

 

 相手の「大丈夫」は

 言葉のままに受け取ってしまったのです。

 

 

 不安を抱いていたのは知っていた。

 ある種、恐怖を感じていたのも知っていた。

 思い通りに進めない自分自身に、

 憤りを感じていたのも知っていた。

 

 なのに。

 

 

 そして、「大丈夫」を大丈夫、

 として受け取り続けてしまった結果、

 

 

 仲間は一人、夜中に姿を消した。

 

 

 

 

 

 携帯も、財布も残ったまま。

 思い当たるところは全部行って、

 頼りそうな人のところに連絡をして、

 それでも、見つからない。

 

 わたしたちが住む家は、

 海まで徒歩で行けるから、

 「まさか」と思って海まで行って、

 それでも見つからず。

 

 

 「大丈夫」は大丈夫じゃないって、

 わたしが一番、よく知っていたのに!

 

 どうしてそこで、

 「本当は大丈夫じゃないでしょ」と

 一歩踏み出せなかったんだ!

 

 

 自分のこれまでの接し方に

 反省と後悔を繰り返していた時、

 

 

 

 その仲間は自分の足で戻ってきた。

 冷えた身体を携えて。

 

 

 

 ああよかった、と安心したと共に、

 自分が踏み出さずに怠惰でいることが、

 

 仲間が自分自身の手で自分を傷付けるのを

 ただ、傍観しているだけで、

 

 仲間の「成長の種」を、

 潰していくだけで、

 

 わたしが目指す、

 

 自分も仲間も全部包括して、

 「よっしゃ行くよ!」と

 満面の笑みで猛ダッシュできるような自分

 

 から、遠ざかることだったのだと、気付いた。

 そんな一夜でした。

 

 だからこそ、

 距離感縮めることを怖がってちゃだめだ、と

 この時に誓ったんです。

 

 

 「あの時ああ言っておけば」

 

 

 この後悔を、今後一つだって、

 しなくていいように。

 

 

「未知」だから怖い

 

 距離感縮めること、

 相手の防衛ラインを突破することを

 怖がってしまうのはなぜか。

 

 それは、

 他者を「未知のもの」として恐怖し、

 関わることを恐れているから。

 

 だと、わたしは考えています。

 

 だからこそ、拒絶の意思として発する、

 「大丈夫」

 

 

 根底にあるのは、

 「自分と、それ以外別世界のモノ」と、

 区別してしまっている自身の世界観。

 

 自分の外側は、ソトガワであって、

 わたしは何も知らないし、

 知ろうともしない。

 

 

 これって小説で言うと、

 

 自分の作品の中だけが自分の世界で、

 その作品を通して、

 自分の想いを受け取った相手がどう思うか、

 そしてそれからどんな行動をするか、

 

 それは知りません。

 管轄外です。

 

 

 そう言ってしまうようなものです。

 

 自分の文章で、誰かの気持ちを揺さぶりたい。

 

 物書きとして、そう思っている人が多数だと

 わたしは信じて疑わないわけですが、

 

 相手の気持ちを揺さぶりたいなら、

 今、相手がどんなことを思っていて

 だから、どんな言葉を差し出して、

 どんな気持ちになってもらって、

 どんな行動をして、

 

 どんな未来を、どんな明日を

 迎えて欲しいのか。

 

 ここまで推測して、

 当たり前だと思うんです。

 

 言葉を贈って、

 言葉で殴って、

 言葉で癒して、

 それで終わり?

 

 それってただの、無責任じゃない?

 

 

 

 これを考えられないのはつまり、

 

 コミュニケーション、人間関係を、

 「自分の感情の発信の場所」

 

 だと思ってしまっているのだと思います。

 

 

 相手との人間関係の構築、ではなく、

 自分の「悦」を満たすための相手。

 として考えてしまって、

 相手もココロがある人だ、

 という認識を忘れてしまっている。

 

 

 そんなことないよ!って

 反論されたい方もいるかもしれません。

 

 でも一つ、言わせて欲しい。

 わたしも、「そんなことない!」って思ってた。

 

 

 

 これってなぜなのか、というと

 相手を競争相手、「敵」だと

 見ているからだと思うんです。

 

 別世界のこと

 自分を脅かしてくる脅威

 

 だから、その「恐れ」に立ち向かえずに、

 逃避をする。

 見て見ぬふりをするのです。

 

 

 

 本当に大切なのは、発言の、行動の、

 根源を「見る」こと

 

 「相手と共に在り、互いに成長する」

 視点を持って、

 互いの「根源」を見ないと、

 

 どんなに正確に「言葉」を受け渡そうと、

 行動で受け渡そうと、

 上っ面だけのやり取りでしかなく、

 心が何も通じ合わない。

 

 君と僕との距離は、開く一方。

 

 

 君と僕との距離を縮めるために

 唯一必要なのは、

 「未知」に立ち向かうこと

 

 だと、わたしは思っています。

 

 「わからないから」とそのままにする。

 「面倒くさいから」と、そのまま受け取る。

 

 「正解」がないから、確認もできずに、

 自分が「こうかも」と思っただけの「答え」を

 信じて進むしかないことが、「怖い」。

 

 

 

 「言葉の表面だけを受け取ってしまう」ことが

 対人関係が苦手、に繋がります。

 

 あんな嬉しいこと言ってくれた。

 あんな悔しいこと言ってきた。

 

 相手の何気ない一言で

 気持ちが乱降下するのは、そのため。

 

 そうなってしまう理由は、

 

 「未知」に立ち向かうことを放棄して、

 逃げる思考をして、

 「既知」に挿げ替えようとするから。

 

 だから、その状態に陥ってしまうのです。

 

 

 対人関係が得意な人は、

 相手の求めていることを

 常々感じ、想定して、他者と関わっています。

 

 相手の気持ちを感じ、想定し、

 自分のやって欲しいこと、伝えたいことを

 どうやったら相手が

 気持ちよく受け取り、動き出せるか。

 

 それを常々考えているから、

 自分の主張を通しているように見えながら、

 相手が喜んで頷いてしまうように

 声を掛けられるんです。

 

 だから、相手が望んで、

 気付かぬうちに成長してしまう。

 

 決して、自分の主張ばかり

 するのではないんですよね。

 

 むしろ、

 自分の主張ばかりしている時点で、

 どんなに「オトモダチ」が多いとしても、

 対人関係が高い、とは言えないと思うのです。

 

 つまり、相手の気持ちを感じ、考え、

 相手との関係性に合わせて

 届けることが出来るか。

 

 といった、「未知に立ち向かう」

 という思考、意志が

 対人関係では必要になってくるのです。

 

 

孤独の国からの脱出

 

 対人関係と言う「未知」に立ち向かうこと。

 

 

 わたしがそれを意識したのは、

 事業仲間と共同生活を始めてからでした。

 

 まさに、

 自分が踏み込めず、

 距離感を縮められずに肝を冷やした、

 先程お伝えした内容の経験により。

 

 

 学生を卒業し、働き始めてからずっと、

 仕事の話を軸としての人間関係構築しか

 してこなかったのだと実感しています。

 

 仕事の話を抜きで、

 人と関わり、会話をすること。

 

 

 「相手自身」が何を感じ、何を考えているのか、

 いわゆる「本心」というものが何か、

 知ろうともしていなかった。

 

 自分の「恐れ」=人との関係を築くこと、に

 立ち向かうことから逃げていたわけです。

 

 だから、相手が何を考えているか、想像する。

 言動から、

 行動から、

 視線から、

 距離感から。

 

 怖いから、足掛かりを探す。

 怖いけど、トライしてみる。

 

 

 それが出来るようになるからこそ、

 書き手と読み手の、

 気持ちが繋がるのだと思うんです。

 わたしもまだ、試行錯誤の途中。

 

 

 「わからない」から逃げていた、

 目を背けていた。

 相手から逃げていた、

 目を背けていた。

 

 けれど、

 「仲間」と共に在りたいから、

 その仲間と、当たり前のように

 意思疎通したいから、

 自分の日常も

 自分の仕事も

 自分の創作活動も、

 自分の小説も

 相手と「共に」創り上げる。

 

 つまり、

 相手と「共に在る」という視点が、

 相手と「共に成長する」という視点が、

 大切なのだと、思っています。

 

 自分が過ごす空間に、

 自分が在る今と未来に、

 「他者が共に在ること」が当然だし、

 

 自分が成長しないといけない、

 と感じていることを

 いかに他者も同じ価値観で

 重要だと認識できる「伝え方」が

 できるか否か、

 

 が重要だというわけです。

 

 自分が心地よい空間を創るためには、

 他者と共に成長する以外、

 それは成し遂げられません。

 

 つまり、独りよがりで、

 自分だけが正しいと感じていて、

 相手が理解してくれないからダメだ、

 と思っていることが、

 そもそもとして、

 「ストレスのない、心地よい空間づくり」から

 離れている、と認識しないといけません。

 

 自分が過ごす空間に、自分が在る今と未来に、

 「他者が共に在る」ことを自覚したからこそ、

 

 自分の価値観が当たり前に広がる空間

 

 を創ることができる。

 

 それが意思疎通であり、

 孤独の国からの脱出でもあります。

 

 

 

自分が在る世界に、共に在る者

 

 自分が在る今、未来には

 相手は大きな「壁」であり、

 自分に立ちふさがる、

 自分に試練を与える

 敵しかいなくて、

 

 そこに向かっていけるのは、自分しかない。

 孤軍奮闘。

 ドン・キホーテ。

 

 そう考えてしまうのがそもそも間違っていて、

 自分が心地よい空間を創るどころか、

 逆に居心地の悪い空間を創る考え方でした。

 

 

 自分が過ごす空間、

 自分が在る今と未来には、

 必ず「他者が共に在る」。

 

 それを恐怖と取るか、

 「未知」との対話と取るか。

 

 自分自身が、自分の苦手から

 逃げていることがそもそもの原因であり、

 未知を恐れ、既知に逃げてしまうことで、

 「わかったつもり」になって

 拒絶してしまっていた。

 

 

 相手と共に在ろうとすること。

 自分の世界の境界線を、

 下を向いて眺めているのではなく、

 顔を上げて外を見ること。

 相手の存在を認識すること。

 

 それが出来るからこそ、

 相手と向き合うことが出来ると思うのです。

 

 

 それが、人間関係構築の、第一歩になる。

 

 

 確かに、怖い。

 

 自分の「未知」とも向き合えないのに、

 他者という「未知」に向き合うことは。

 

 でも、他者の「未知」と向き合うことが、

 自分の「未知」を描くことに繋がるし、

 わたしが在りたい今と未来の輪郭を、

 少しずつでも描けるようになる。

 

 そう信じて、

 わたしは今日も、仲間と触れ合っていきます。

 

 

 自分の防衛ラインは取っ払って、

 相手の防衛ラインに踏み込んで、

 だからこそ、「絆」が出来る。

 

 だからこそ、温度のある言葉に、文章に、

 小説になっていくんだと思うんです。

 

 

 

 もう二度と、拒絶の意味で「大丈夫」を

 使わなくていいように。

 使わせなくていいように。

 

 

 

(関連記事)

  孤独の国の王様にはならない

 

 

 (物語の語り手、ちぇり)

  プロフィール

 

 

 

 ここまで読み進めてくれた、あなたに感謝を。

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