中国人を考えてみました。
あまりに長くなるため、かな~り
端折ったつもりでも、やっぱり
なが~くなってしまった。
暇つぶしにでもお付き合い下さい。
中国では新王朝が前王朝を完全に
否定して、自らを絶対とする歴史
の編纂が行われるのが普通なのだ
そうです。
王は最も徳がある人物であり、
天が徳を失った王朝に見切りを
つけた時に革命が起きる。
という古来からの思想である
易姓革命の捻じ曲げた解釈から
家臣が君主を殺す事がしょっちゅう
あったんだそうです。
では、この中国人とは一体
どういう民族なのでしょうか?
現在の中華人民共和国は漢族が
90%をしめますが、清の時代は
満州族の王朝でした。
清は北方の満州民族の王朝です。
チャイナドレスとはこの満州族
から伝わったもので、北方満州族
の防風防寒服であるチャイナドレスは
漢族のものではないそうです。
この満州族によって領地拡大が
なされたのであって、それ以前は狭い
地域でしかなかったのです。
その証拠が万里の長城。
外敵の侵入を防ぐための城壁で
あって、壁の外側は中国ではないと
いう事ですね。
その外側にいた満州族が万里の長城を
越えて征服したのが清。
清の前は、明。
明の前は元 ( モンゴル族 )
さらに前は北に金、南に宋。
そして唐や隋。
三国志で有名な三国時代は
もっと前の2~3世紀頃です。
漢字や漢族の元となる漢王朝の
始まりは紀元前206年に統一した
始皇帝の秦。
大陸に統一中国という概念ができたのは、始皇帝(紀元前221年)からなので
中国4000年の歴史は実は
2000年ちょっとしかないのです。
中国とは悠久の4000年などでは
ないのです。
それ以前は、黄河中流域 ( 中原 )の
平原地帯で諸族が争っていて、
これは漢族ではなく、実は
古代中国には漢族は存在してい
ないのです。
東夷、西戎、南蛮、北狄の4つで
四夷と呼ばれる、中原の周囲に
住む野蛮人としての蔑称だそう
です。
この黄河流域の豊かな中原を
巡って、四夷が入り乱れて誕生
した混血雑種が後の漢族です。
では、どのような断絶と抗争が
繰り広げられたかを、ザックリ
書いてみます。( 順不同)
中国史用語に「征服王朝」という
言葉がありますが、
これは漢族以外の民族によって
支配された王朝のことで、秦以降
の清や元、金は征服王朝です。
①金王朝は莫大な財産を奪い、
宋の皇族と官僚、数千人に悲惨な
虜囚生活を強いたばかりか、
皇女達(4歳~28歳)全員を妾、
または官営売春施設で娼婦に
しました。
②東ヨーロッパまでを支配した
モンゴル族の大征服王朝、元も
金ほどではなくても、
権力はモンゴル族が独占し、
最下層に置かれ金や宋は徹底的に
差別し、中国式を抑圧したのだ
そうです。
中国王朝といっても実際、
中国式要素はほとんどなく、
パスパ文字という独自の文字と
一緒に、都合上、漢字も使って
いただけだそうで…
( パスパ文字とハングルはそっくり
で、実はハングルは元の属国で
あった高麗(朝鮮)王朝が
モンゴル化し、その時伝わった
パスパ文字が基礎となって、李氏
朝鮮の時代に出来た言われて
います。
このパスパ文字起源説は学界では
定説ですが、韓国内では当然
激しく否定されています。)
③清も征服後、明の残党狩りの
ためにさらに征服戦争をおこし
ます。
屠城といって、「城内の全ての
人間を屠殺する」のですが
日本では籠城するのは武士であり、
殺されるのは武士だけですが、
中国は街全体が城壁で囲まれて
いるので、つまりは市民全員を
殺すという事です。
その有名なものの一つが
揚州屠城です。
当時揚州の人口100万人。
その大都市で行われた大虐殺で
難を逃れた王秀楚という人の
『揚州十日記』という記録に
「大勢の女たちは牛か羊のよう
に駆り立てられ、止まると殴られるか、即、斬殺。
そこらじゅうに幼児が捨てられ
小さな子供たちは馬の蹄に蹴飛ば
され、人に踏まれて、飛び出た
内臓は泥に塗れていた。
途中の溝や池には死体がうず高く
積み上げられていた」
とあります。
当時の帳簿に記載されている分
だけでも八十万人以上だそうです。
④秦に遡ってみても
始皇帝は「焚書・坑儒」をします。
書を燃やし、儒者を坑する
(儒者を生き埋めにする)
という意味です。
史記の「白起列伝」には、
すさまじい殺戮が記述されて
います。
紀元前293年、秦軍は韓と魏の
連合軍を破るが、この時24万人を
斬首しています。
その後も長平の戦で、45万の趙軍
のうち戦死者5万人。
残りの40万人の捕虜ほぼ全員が
生き埋めにされて処刑されました。
そして始皇帝の死後、粛清の嵐が
吹き荒れます。
始皇帝の側近2人の謀略で
傀儡政権を樹立し、敵対派を次々
に殺戮。
次いで12名の皇子を処刑し、10名
の皇女を磔。
その2人も権力争いで仲間割れ。
相手に謀反の罪を被せ
逮捕した後、一族皆殺しです。
これを「族誅」と言いい、
これも中国史の伝統なのです。
その後さらに始皇帝の孫、子嬰を
3世皇帝に立てるも、今度は逆に
自分が子嬰によって誅殺され
ました。
因果応報ですね。
⑤その子嬰を滅ぼしたのが項羽と
劉邦です。
この項羽もまたすさまじい。
秦に向かう途中、造反の気配を
見せた元秦兵20万人を穴埋めに
して殺し、子嬰一族や官吏4千人
を皆殺しにし、美女財宝を略奪
したあげくに始皇帝の墓を掘り返し
殺戮と略奪の限りを尽くした後
火を放ち秦の都を廃墟とした
のです。
秦を滅亡させた項羽と劉邦は
その後対立し、劉邦もその伝統
そのままに、粛清の嵐です。
家康同様、劉邦も功労者に領土と
王位を与えましたが、功労者とは
実力者でもあり、結局目ざわり
な存在になった彼らは、謀反の
疑いをかけられ、族誅されました。
しかも、中には塩漬けにされ、
その肉を群臣に漏れなく配られた
者もいたというのです。
まさに見せしめの恐怖政治です。
⑥劉邦の後、劉邦一族ばかりの中で
即位した恵帝の裏でその実権を
握りるのが劉邦の妻、呂皇后です。
呂皇后は恵帝のライバルであった
劉邦の庶子を殺し、生母・戚を
奴隷とし、両手両足を切断、目玉を
くりぬき、耳・声を薬でつぶし、
生きたまま便所に投げ入れて人豚
と呼ばせたというのですから、
寒気がしてきますね。
女性でもこの残虐性です。
呂皇后は我が子、恵帝以外の劉邦
の息子を殺し、呂氏一族を
要職に付け権力を握りますが
これまた因果は巡るで、その死後、
一族は族誅で皆殺しにされました。
漢はこの後約200年でその時代を
終えます。
さて、紀元2年、中国史上最初の
人口統計記述によると、
約6000万人から23年には3000万人。
37年には約1500万人で、その比率
なんと、-75%!
戦乱と飢餓による人口の激減は
どこでもありましたが、特に中国
では甚だしいのです。
そして、弱体化しきったところに、
近隣の異民族が侵入してくる。
それが日本にはない中国の特徴で
あり、異分子を殲滅するための
残虐な民族性があるのでしょう。
(異民族の侵入がない日本が
世界的に珍しい?)
また、『三国志』の時代も
これまた悲惨な時代だったようで
黄巾の乱後、正史の記録には、
「白骨山のように積み」
「人は共喰」
「千里に人煙を見ず」
といった記述が多く、当然人口は
再び激減しました。
後漢の時代、人口は5000万人を
超えるところまで増え、それが
約十分の一になったと言われて
います。
事実上、漢族は滅びたと言っても
よいでしょう。
その後、さらに分裂や抗争を
繰り返し隋によって統一されますが、
この時代の中国人は、すでに
漢族の子孫ではなかったことは
たしかなようです。
また、思想・宗教でも、過酷な
弾圧が繰り返されました。
中国では4度の廃仏政策が
あり、その都度、僧侶は殺され、
経典は焼き捨てられています。
仏教隆盛の時代と道教に傾斜した
時代。さらに儒教と三つの対立
があるのです。
ちなみに、日本でも明治の初め
に神仏分離令がだされたり
しましたが意味合いが違っていて
日本は神道に仏教が融合してきた
ものと言えるのに対し中国では
思想・宗教においてもやはり
激しい抗争と断絶なんですね。
近代、中国共産党も仏教弾圧を
行いました。
多くの仏教徒は台湾、香港に脱出
したので、中国仏教の伝統は、台湾、
香港にあると言っても
いいんじゃないでしょうか?
そして文化大革命です。
これも近代史上でも例のない
おぞましい大粛清でした。
思想、文化、風俗、習慣の破壊の
スローガンの下、徹底的に弾圧、
破壊が行われます。
良卿法師は、貴重な宝塔や伽藍を
守ろとして宝塔前で抗議の
焼身自殺をするも、寺は破壊され
その他の僧侶らは殺戮されました。
この狂気の文革後、
寺院は文化財として修復され、
法門寺は地下宮殿から大量の貴重
な文物が出土したので、その後は、
手のひら返しで一大観光スポット
として、建築開発が進めらました。
現在の新法門寺は中国最大級の
最新建築物である。
広大な敷地に近代的な建物群、
金ピカな仏像群に現代的オブジェ。
現代中国仏教は、観光会社として
一大発展を遂げているのである。
今日の中国仏教は政府主導の
金儲け手段なのです。
入場料、焼香代、鐘突き代、
おみくじ代、おみくじ解説代等々。
ちなみに焼香代は最低でも200元
(2500円)だそうです。
その他もなんだかんだ高額料金
を請求され、カード払いも利用も
できるのだそう。
住職の多くは結婚し子供もいて、
市内に豪邸を持ち、高級車を乗り
回している。
現在の中国仏教の繁栄は精神的な
面においてではないのだ。
そもそも、「宗教はアヘン」とする
共産主義の国で、深い宗教性が
根付く訳がない。
そこで拝まれているのは
神仏ではなくマネーなのです。
狂気の弾圧と粛清である文化大革命に
よる破壊から一転しての国家主導による
拝金主義。
中国おいて粛清は珍しいことでは
なく、こうした粛清には必ず
スパイによる密告があります。
中国は古代からスパイ国家なの
です。
(今でも諜報活動においては
イギリス・イスラエルとともに、
世界の“3大インテリジェンス・
パワー”と呼ばれているそう )
刑罰もまたすごく、
「凌遅(りんち)刑や
「 剥皮(はくひ)刑」など
様々な残虐刑で人々を恐怖で
縛り上げたのでした。
「人類史上最大の内乱」とされる
太平天国の乱では太平天国軍は、
「一村一焼一殺」を日常的に
行ないました。
13年後、湘軍(正規軍ではなく
復活した漢族の軍隊 )は太平天国
の首都、南京に攻め入るが、これが報復
とは言え、すさまじいものでした。
後に「天京屠城」と称されるこの
大虐殺の実態とは。
天京を落城させた湘軍の行動に
ついて、曾国藩という人が朝廷へ
の報告書でこう記しています。
「吾が軍は賊都の南京に攻め入ってから、街全体をいくつかのブロックにわけて
包囲した上、賊軍を丹念に 捜し出して
即時処刑しました。
3日間にわたる掃蕩作戦の結果、
賊軍10万人あまりを処刑しました」
3日間で10万人を処刑!
さらに常軌を逸して
いるのは、この殺戮が賊軍だけ
ではなく、多くの民間人にも
及んだことです。
曾国藩の死後、幕僚の一人であった
趙烈文(ちょうれつぶん)は
南京住民にたいする湘軍の虐殺を
「わが軍が金陵に入城して数日間、
民間人の老弱した者、あるいは
労役に使えない者たちは悉く斬殺
され、街角のあちこちに屍骸が
転がった。子供たちも斬殺の対象
となり、多くの兵卒たちが
子供殺しをまるで遊戯を楽しんで
いるかのようにしまくった。
婦女となると、40歳以下の者は
兵卒たちの淫楽の道具となるが、
40歳以上の者、あるいは顔が
あまりにも醜い者はほとんど、
手当たり次第斬り捨てられて
しまった」
外国人の傭兵の証言。
『インドタイムス』
「私は朝廷の部隊が太平天国軍の
捕虜たちを殺戮する場面をこの目
で見た。彼らは本当に軍の捕虜か
どうかは定かではない。
とにかく、普段は野菜売場である
町の広場に、捕虜とされる数百人
が集められてきた。老若男女だ。
歩くのも無理な老婆、生まれた
ばかりの子ども、妊婦もいる。
朝廷の兵士たちはまず、若い女性
たちを捕虜の中から引きずり出し
その場で凌辱した後に、周りで
見物している町のゴロツキたちに
渡して輪姦させるのである。
その間、兵卒たちはにやにや
笑っているが、輪姦が一通り
終わると、全裸にされた女たちの
髪の毛を掴んで一太刀で斬り殺して
しまうのだ。
それからが男たちの殺される。
彼らは全員、小さな刀で全身の肉
を一片一片切り取られて殺される。
何のためかはよく分からないが、
心臓は、一つずつ胸の中から丁寧
に抉り出されて、容器に入れられ
るのである。次に、子供たちが
母親の前で殺され、母親たちも同じ運命
となる」と。
現在のところ、「天京屠城」で
殺された住民たちの数は
少なくとも10万人以上であると
いうのが歴史学上の定説となって
いる。
これこそが、中国史上の本物の
「南京大虐殺」なのである。
秦に始まり、漢の劉邦や呂后、
明の洪武帝、太平天国の洪秀全、
そして毛沢東と続くすさまじい
粛清というのも、中国の伝統
なのです。
征服王朝を倒してもう一度中国を
秦に戻そう!
これが中国史を貫く特徴です。
中国史とは思想弾圧・大量殺戮・
大粛清によってできているんです。
それは現代・中華人民共和国も
その性格を色濃く有しています。
毛沢東の行動方針は
「一村一焼一殺、外加全没収」
と言われ、
5年間で殺された総数10万人。
共産党が政権を取ると、
「一村一焼一殺」は
中国全土で徹底して行なわれ、
さらに二百万人程度が銃殺された
といいます。
AB団粛清事件で7万人以上。
中国全土の反革命分子狩りでは
70万人が銃殺。
最後に大躍進政策です。
毛沢東に一時的失脚をもたら
したのがこの大躍進政策ですが
餓死者は3年間で2000万人とも
5000万人とも言われ、最後は、
人を食べたといわれています。
いかに残虐な中国人でもさすがに
我が子は食べられず、衰弱・死亡
した子供同士を交換し解体して
食べたんだそうです。
まさに、人類史上最大の人災です。
政策の失敗により責任を取らざるを
得なくなり国家主席を劉少奇に譲ること
となった毛沢東の復讐・粛清が後の
文化大革命なのです。
通州事件での兵、民間の学生まで
もが束になって行った日本人虐殺、
陵辱を逆に日本軍のせいにしたの
がいわゆる南京大虐殺の真相です
が、つい70~80年前でも同じ事
を繰り返すのですから、その
暴力性、残虐性、謀略性は
DNAの中に深く刻み込まれている
としか言えません。
このような寒気がするほど猟奇的
で恐ろしい隣人と我々はどの様に
付き合えばいいのでしょうか?
賃貸じゃなく持ち家だから、
困った隣人がいるからと、
おいそれと引越しはできないの
です。
これまで書いた様に中国とは
抗争と断絶の歴史であり、
その歴史もキチンと後世に
伝えない民族なのです。
その証拠が老舗企業の数です。
創業200年以上の老舗企業数は
1位日本 3113社
2位ドイツの1563社
3位フランスの331社
日本はダントツで世界一である。
中国は64社で15位。
共産主義の影響だと思いきや
8位ロシアの149社の半数にも
満たないのです。
やはり歴史が続かないのが
中国の伝統のようです。
確かに昔の文物はある。
でもそれは仏教にもみられる
ように形骸でしかなく、精神など
とっくに断たれているのです。
「中国は私たち日本人の先生
なんだから」
などと言いますが、あくまで昔の
その時点での話であって、日本の
方がむしろ学んだものを血肉化し
消化し生かしている。
他国の文化を取り入れるという
点では日本ほど、柔軟な民族は
なく、本当の中国、本当のアメリカ
が見たかったら日本に行け。
という言葉まであるそうです。
老舗企業として大切なことを
漢字一文字でいうと?いう問いの
日本企業の答えは
「信」「誠」以下、「継」「心」「真」
と続いたそうです。
こうした精神の元が仏教や儒教
の教えであることは間違いないが
もはや、完全に日本のものとなって
いて、今の中国にはないのです。
この抗争と断絶。大量殺戮と粛清。
我々はここから大いに学ばな
ければなりません。
中国という国は冤罪をでっちあげて断罪
する国であるということ。
そして、血も涙もなく暴力を行使
して徹底的にやる国だということ
です。
中国有史から文革、まさに今に
いたるまでの歴史が証明してい
ます。
尖閣諸島は日本が盗んだ!
との演説も確信犯的でっち上げ。
事実がどうあれ、冤罪を
でっちあげて徹底的に断罪する
のが中国なのである。
そして断罪した後は暴力の行使。
それが中国史に見る中国の伝統で
ある。尖閣、沖縄問題を考える時
我々はこの隣人の性格をしっかり
認識しておかなくてはなりません。
韓国もしかり。
尖閣、竹島は当然、日本国固有の
領土であるが、
李承晩ラインが廃止されるまでの
13年間に、日本人抑留者は3929人、
拿捕された船舶数は328隻、
死傷者は44人。抑留者は6畳の
板の間に30人も押し込まれ、
僅かな食料と30人に対して1日、
桶1杯の水しか与えない劣悪な
抑留生活を強いました。
このあきらかな国際法違法で、
非人道的侵略行為に対し、米国も
抗議はしたが、直接的な
利害関係国ではないため積極的な
介入をせず、現在まで実効支配が
続いているのです。
こういう事実を韓国では当然の
ごとく全く知られていません。
反日愛国による虚偽が真実と
してことさら強調される国なの
です。
なぜなら、中国の属領としての歴史しか
持っていないから。
また、この半島人も親分に負けず
劣らずの残虐性と食糞、強姦文化
を持つ民族ですが、これ以上書き
きれないので、またの機会に。
かような野蛮人国家を隣人に
持つのが、まさに、日本の不幸と
言わざるを得ないのです。
何かが暴発したら、我々日本は
このように惨殺され、妻や娘、
恋人は陵辱輪姦された後に殺される
という事です。
心してかかるべし!







