節分の頃になると、日差しがずいぶんまぶしくなる。
それを光の春と呼ぶ。
そんなある日の早朝、茂はふとんの中で悶々とし、よく眠れないでいた。
店のこれからのことを、あれこれ考えていたせいである。
わきで寝ていたチイ子が気づき、
「あんた、眠れないんだね。かわいそうに。でも間違っても表にでるんじゃないよ。とっても寒いんだしね。茂さん、とうとうボケちゃったんだ、かわいそうになんていわれること、うけ合いだから」
と言いながら、茂のパジャマの袖を、ぎゅっとひっぱった。
それが一緒に寝ていたトラを目覚めさせた。
茂はごろごろいうトラを胸にだき寄せ、しばらくじっとしていると、
身体があたたまってきたのか、彼は、また、眠りに落ちることができた。
彼がふたたび目覚めた時、あたりは充分明るくなっていた。
時計を見ると、十時少し前。
茂は、店内で人の声がするのを聞きつけると、衣服をととのえ始めた。それから妻の姿見の前に立って、営業用の笑顔をつくり、店内に通じるドアをあけた。
「いらっしゃい、いらっしゃい。毎度ありがとさん」
と言いながら、店の通路を歩いていく。
こんな時でも、妻の目を意識している。
正面玄関をぬけたところで、茂は、ひと安心とばかりに深い息を吐いた。
歩行者や通行する車の運転手に会釈をするために、丸太にすわっているばかりが芸じゃないと思い、近間を少しでも散歩することにした。
「こんにちは、茂さん。お元気そうで何よりです」
足尾方面から鹿沼方面へと走ってきた自転車から下り、気軽に声をかけてきたのは、K学習塾の先生だった。
近所のお蕎麦屋さんに嫁にいった、茂の娘が、中学生の時におそわったことがある。
もう数十年も前のことだが、茂にとっては、まるできのうのことのように思われる。
「やあ、先生。こんなに早くどこへ行くんだい」
「図書館ですよ。私の書庫みたいなもんで」
「へえ、相変わらず、本が好きなんだね。どう?塾ははやってるかい」
「いやいや。もうはやりませんよ。子どもは少なくなったし。おじいちゃん先生になりましたからね、ほら、このとおり。百姓仕事でしょ。紫外線が強かったのか、顔にいくつも深いしわがあるし、まっ黒だし」
彼は、エム字型にはげあがった髪を、右手で、ぺちゃぺちゃとたたいて、微笑んだ。
「あははっ。そうかい、そうかい。うちの娘も世話になったんだ。いつまでも、そう若くはいられないやね」
そう言い終えたとたん、茂の表情がくもった。
「どうしたんですか。何か問題でも?店のことなら、せがれさん夫婦におまかせになったんでしょう」
「ああ、そりゃそうだけど。まあ、その、なんだ。こんなこと先生に言ってもさ。しょうがないしね」
「そういわないで。私は誰にももらしませんし。さらけ出したほうが健康にいいですよ」
「実はね。四十過ぎるのに、うちの娘、まだ子が持てないんだ」
「まだ、まあだ。のぞみがありますって。今に朗報が舞い込みますから、気長に待ってたらどうでしょう」
「そうさね。先生にそう言ってもらえると、なんだか元気がでましたよ」
「わたしだってそうです。経済的に苦しいですからね。ここ十年くらいは、アルバイトをやって家計を助けていますよ」
「二足の草鞋をはくのはつらいだろうけど、俺のこと考えりゃ、まだまだ若いんだ。先生、がんばって田舎の子のめんどう、見続けておくれ」
「はい」
茂の励ましが効いたのか、K先生は、右に左に、勢いよくペダルを踏みしめ、走り出した。
