昭和63年6月 ①
昔の話。
前年、中2の秋に右膝が痛くて痛くて所属していたバスケ部を辞めた。
というのは表向きの理由で、2年に上がりクラス替えがあったが、この2年A組の雰囲気は決して良いものではなかった。後に、各教科の担当教師の話しから、「とにかくクラい」「良く言えばまじめ」「大人しすぎる」といった印象だったようだ。中にいると気づかない。
その中でも、クラスの中心にいた私は秋の学校祭(文化祭ってやつ)へ向けて、あらゆる種目のリーダーもしくはサブリーダーになった。すべて他薦。
あっちもこっちもなんて、凡人の私には務まるはずもなく全てにおいて中途半端になり、それでも与えられたことは最後まで、と思い一生懸命やるも、同じクラスの女子からは陰口を叩かれ学校祭の結果も散々。
自暴自棄になっていたと思う。やる気もなくなって、学校に居たくなくて給食のあと早退したり(給食だけはちゃっかり食べてる。。)結局バスケも辞めちゃった。今思えばもったいない。
そんな2年生から3年に上がった昭和63年。
通常、うちの中学は2年から3年に上がる時、クラス替えは無く担任教師も替わりません。
が、2-Aの担任だったB先生は転勤になり、前年度3年B組の担任で1か月前に卒業生を見送ったばかりの、熱血女教師・K先生(38)がわれら3-Aの担任となった。
私はK先生との初対面の時、よくこんな根暗なクラスの担任になったなぁと思っていました。
今までのK先生のイメージは2年と3年と2年間担任をして、すごいクラスを作り上げる。
すごいクラスというのは、男女仲がいいとか合唱の時みんなすごい声を出すとか、とにかく催し物では圧倒的な強さを見せる、そんなクラス。
私たちのクラスの中では半信半疑の人もいた。1年間でそんな良いクラスを作れるわけがないと。けど、私はその先生のことを信じてみようと思った。まあ、半分洗脳されてたのかも。
とにかく早口。
5月下旬東京に出稼ぎに行ってた私の父が倒れたと連絡があり、母が東京に行くことになった。姉は就職で富山、兄は大学で北見でしたので家には私ひとり。晩ご飯は、となりの家のおばちゃんが用意してくれてたのを覚えている。
6月2日の夜、母から家に電話があった。父が亡くなった、東京に来なさい、と。
母は泣いていた。母が泣いているのを見たのは(聞いたのは)2度目だ。1度目は私が小学2年の時だ。
私はデブデブの肥満児で(ほぼ毎日肉、それもジンギスカンしか食べてなかったらしい。幼稚園の弁当にもジンギを入れてもらってた。冷めると脂分が白くなり食えたもんじゃないと思うが)小学校の保健の先生から「体重を減らしてください。」と言われたらしく、母は食べる量を減らそうと考えてたそうだが、父は「こどもが食べたいと言ってるんだから食べさせろ」と喧嘩になった。その時泣いていた。
私のせいなのに。子供の頃は、母には迷惑ばかり掛けていた。
結局、ご飯の量は減らされず、そのぶん、夕飯前には母と近所をランニング。ご飯のあと、姉と兄は果物を食べてたが私は禁止。
倒れたと連絡があった時から、もしかしたら、という思いがどこかにあったからなのか、不思議と涙は出なかった。
母との電話を切り、その後K先生の自宅に電話をかけ、父が亡くなったことを伝えた。
K先生は「今から行くから寝ないで待ってなさい。」と言い、15分後K先生は現れた。
先生との会話は殆ど覚えていないが、気をしっかり持ちなさい、というような事を言われたと思う。そしてこれははっきり覚えてるのだが、帰り際に「明日汽車何時?(北海道では電車を汽車と言う)駅まで見送りに行くから。」と言ってくれた。私にとってその言葉はとても心強く感じられました。
翌朝、最寄りの駅までは隣の家のおばちゃんが車で送ってくれた。20分程前に到着も、先生が来てくれるから大丈夫だよ、と安心させおばちゃんには帰ってもらった。
待合室のベンチに座り先生を待つ。
10分前、まだ先生は来ない。
5分前、そろそろ待合室からホームへ移動しなければならないが、先生は来ない・・・
つづく