過去の巣の上で
おっす。オラ宙無。
日曜日ですね。
さて、いきなり芝居の話。
いつも役を頂くと、必ずと言っていいほど役の人間が遥か遠くにいる。42.195km
自分とは違う人間だからね。
そいつを理解しようと一歩一歩距離を縮めて、
『よろしく、ヘイブラザー』
って握手するまでの作業が役作りと呼ばれるものなのかな。
一歩一歩擦り寄って、自分と役を擦り合わせていく。
そうやって役に近づく旅と同時に
別便で自分の過去とも旅をする。
役者は“経験”が“引き出し”だから。
俺が演じる『小山内』という役は、女を二股かけるくらい女には不自由してない。
ビジュアルも悪くないのに、なぜか彼は自分の身体にコンプレックスを持っている。
そして整形手術に固執する。
俺はそんな彼が理解出来なかった。
そして俺は自分の過去へとバックトゥーザ~した。
俺は中学の頃、洋画ばっか見ていた。
そして見果てぬ外国の地へと想いを馳せていた。
『大人になったらゼッテー外国で暮らして~な~』
ずっと外国へ行きたいと思っていて、当時その唯一のツールが映画だった。
そうして中学という青年期を過ごすと、気付けば俺の恋愛対象までもが外国人になっていた。
俺は当たり前のように
『俺は将来外国人と結婚するんだろうなぁ~』
と信じて疑わず、映画の中の抒情的なベッドシーンじゃなきゃ勃起さえしなくなっていた。
現実の目の前に居るヒポン人の女の子には見向きもせず、
『どうせ日本人はウサギみたいなsexすんだろ』
とワケのわかんない偏見さえあった。ま、中学生だからね。
しかし、それだけ俺の目に映るあのころのハリウッドスターたちは妖艶で、情熱的で、魅力的だったのだ。
つまり
『俺の中では映画の世界が現実なのだ』
これが俺と小山内の擦り合わせる“共通点”のような気がした。
小山内という男も、自分の考えや、理想、ナルシズムを強く持っていて、それに向かって突き進んでいくところがある。
しかし客観的に自分を見れてないから、低くもない鼻を整形するなんて言い出すのだろう。
つまり小山内も
『自分の理想の世界が現実』なのだ。
そして、友達に対しても
『お前、ヒラメみたいに右と左、目離れてっだろ』
とDNA批判を平気でする。
俺も高校の時付き合ってたジェニファー・ロペス似の彼女、
(ま、今思えば色黒だっただけだが、その当時はジェニロペにしか俺の目には映らなかった)
その彼女はめっちゃ洋楽が好きで、いつもガンガン聴いていた。
俺はそれがイカンセン腹もちならなかった。
『何言ってるか分かんねえ歌聴いて何がいいんじゃ!?おぬしカッコつけてるだけじゃろが!』
彼女を批判した。
しかし
その横で、俺は洋画を見ているのだ。
まさに支離滅裂。
しかし、その当時そのことに気づく脳みそは、俺は持ち合わせてなかった。
きっと小山内もそんな感じだろう。
さて、
そろそろコジツケ感も焼き鳥の煙と共に漂ってきたので、やめとするかの。
とにかく
役と向き合う中で、常に自分の生きてきた人生とも向き合う。
役はどうしてこういう人間になったのか。
俺はどうしてこういう人間になっちゃったのか、チキショー!
そうやって手を取り合って役と自分を擦り合わせていく。
あの頃の自分はどのように社会を見てたのか。
どのように人と付き合っていたのか。
どのように自分を生きていたのか。
そうやって自分を掘り下げるから、自分のこと嫌いになってくんだろうなぁ。
でも、
やっぱ役者は経験に勝るものはなし!
だな。
