30.好きだから -2 | 隣の彼

隣の彼

あたしの隣の、あのひと。……高校生の恋愛模様。


「乗って」


丁寧に車の助手席のドアが開けられ、乗るようにと促される。
あたしは菅野くんの言われるまま、無言でそこに乗り込んだ。

ドアが閉じられると、あたしはシートに深く凭れた。
菅野くんの車は、海斗の車とは全く異なる匂いがする。
上品な香りは鼻の奥につんと沁みて、また涙が溢れ出てくる。

当然のことだけど、海斗はあたしを追いかけてなんてくれなくて。
だけど、店から駐車場まで歩く間、本当はどこかで期待してた。
慌てた足音が、聞こえてくるんじゃないか、って。
後ろから、呼び止めてくれるんじゃないか、って。

ほんの少しの確率にさえ縋りたかったのに。
そんな0に近い期待なんかした自分が余計に情けなくなって、ぎゅっと胸を突く。


「どこか行きたいとことかある?」


菅野くんが、フロントガラスの向こう側を見つめながら訊いてきた。
街の灯りが無数に浮かんでいて、真っ暗なはずの夜の色を明るく輝かせている。

あたしは、さっきから止まらない涙をようやく甲で拭った。
そして、あたしも菅野くんの方を向かずに、フロントガラスの先をまっすぐ見つめながら言った。


「……湘南平」

「湘南平?」

「……うん」


車のエンジンがかかって、機械的な音が立った。

菅野くんはそれ以上何も言わずに、車を発車させた。







高い壁に囲まれた東名高速道路は、既に暗く変わった夜空のせいもあって、車が走り続けても景色はあまり代わり映えしないように思える。

この間、七里ヶ浜に行った時や、初めてのデートの時と同じ道のりではないことに、あたしは少しだけホッとした気分だった。

だって、同じ景色を見ていたら、楽しく過ごした時間を余計に思い出すだろうし。

光の粒を浮かべた海も、江ノ島の立ち並ぶお洒落な店も、松の木が犇めいた長い道も。
海斗の隣で見たモノは、忘れられないよ。



「少し、落ち着いた?」


何もない景色を眺めていると、あたしの涙はいつの間にか止まっていて、菅野くんが優しく言った。


「……うん」


一言答えて、缶コーヒーのプルタブを開けた。
さっき高速に乗る前に、菅野くんがコンビニで買ってきてくれた。
温かいよ、と。

ひとくち口をつけると、喉の奥へ、じんわりと熱が広がった。
缶を持つ指先からも、温かさを感じる。


……菅野くんは、優しい。

いつも意地悪なことばかり言う、海斗とは違う。

……違う、そうじゃない。
海斗だって、優しい。

意地悪に見えて、優しいんだ。
それを知ってるから、たまにそうしてもらえるのが、凄く嬉しくて……。

あたしが優しくされたいのは、海斗だけ……。


だけど――……。


「菜奈ちゃん」


まっすぐに伸びた道を見つめたまま、菅野くんが言った。


「訊かせてくれるかな」

「………」


菅野くんは、ちらりとだけあたしの方を見た。
あくまで問い詰める言い方ではないけれど、彼が訊くのは当然のこと。

菅野くんも、ドリンクホルダーからあたしと同じ缶コーヒーを手に取り、運転しながら口をつけた。

彼の喉元を、ごくりと通り過ぎる音が聞こえた。
あたしは、小さく息を吸い込んだ。


「……同級生なの、あの二人。高校の……」

「同級生?」

「うん……。海斗は――ずっと未知花さんのことが好きだったの。
だけど未知花さんには、その当時、彼氏がいて……。
その人が、海斗と凄く仲の良い先輩で……。
だから、お互いに好きでも、付き合うことが出来なかったみたいで……」

「………」

「未知花さんは、彼氏のことも海斗のことも、関係を壊すことが出来なくて、どっちも選べなかった。
卒業して、一人で急にフランスに行ったんだって。
だから――海斗の気持ちは、残ったままになっちゃったの。
ずっと、忘れられないままに……」


「じゃあ、」と、菅野くんは、パッと一瞬こちらを見た。


「それは、海斗がまだ福島さんを好きだってこと?」

「海斗は……この間、そんな気持ちも分からない、って言ってた」

「分からない?」

「分からなくなるくらい昔のコトだから、って……。
だけど、未知花さんは海斗のことがまだ好きなの。
日本に帰って来たのは、海斗に会うためなの。
だからこの間海斗に、会って自分の気持ち確かめてきて、って……」

「菜奈ちゃんが二人を会わせたの?
もしかして、それって土曜日のこと?
だからあの時、海斗に電話するなって言ったの?」


菅野くんは、呆れたように少し高い声を上げた。


「……ごめんなさい」


俯いてそう言うと、大袈裟なくらい大きな息を吐き出す音がすぐ横から聞こえた。


「馬鹿だな、菜奈ちゃんは……。
それでいいの?」

「だって、海斗がどれだけ未知花さんを好きだったか、その強い想いを知っちゃったから」

「………」


菅野くんは、それっきり黙ってしまった。
あたしも、それ以上何も訊いてこない菅野くんに、口を噤んでいた。

けれど、そんな菅野くんの気遣いは、ありがたかった。
車内には音楽もかかっていなくて、ただ、車が走る音が緩やかに響く。
隣の車線を追い抜く車と、対向車の走り去る音は、流れてはすぐに消えていく。
相変わらず代わり映えしないように見える道と、浮かんで伸びていく対向車のライトの光を、ぼんやりと見つめる。


結局――。
好きだって、言うことさえ出来なかった、な。


そう思うと、この間のレストランでのことが脳裏に走った。

また一緒に海に行こうと、約束したあと。
海斗が何か言いかけたのに、風と波に打ち消された言葉――。


あれは、もしかして……。
未知花さんとのことを話そうとした?
だけど、言えなかったの?
あたしの本当の気持ちを、察したから?


――『それでいいの?』

菅野くんについ今言われた言葉が頭を掠める。


うん。

海斗が好きだから。凄く。
海斗の強い想いを知っちゃったから。
ずっと、長い間燻っていた想いを。

未知花さんを選んで、彼女と上手くいくなら、あたしのせいでそれを壊すことは出来ないから。
幸せになってもらいたいから。

だから――。

外そうと決めた。湘南平の鍵を。
何もない気持ちで付けた、あたし達の鍵。

海斗の強い想いで付けた鍵とは違うから。
その願いを遮りたくないから。

だから、外すよ。
他の女と付けた鍵なんて、残さないで。

たった一つ。
これからはそれを大切にして、守って。






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