1. 12 Objects, Ideas, and Elevator Words

社会的に構成されたと言われている事柄を三つの異なるタイプに区別することができる
:「対象」、「観念」、クワインの言う「意味論的上昇」により生じた一群の言葉。三つめのグループは、「真理」「事実」「リアリティ」などを含む。ここではそれを「エレベーター語」と呼ぶ。

・「対象」(「人びと」「状態」「常習的ふるまい」「行為」「物質」「経験」etc.)
「対象」としてここで言われる事柄は、世界の中に存在するものである。対象のリストに含まれる項目のいくつかは存在論的には主観的だが、認識論的には客観的である。
 ex. 家賃

・「観念」(「概念」「コンセプト」「信念」「態度」「理論」)
これらは私的なものである必要はない。観念という概念をハッキングはここで特殊な仕方(「想像できるかぎり非専門的な仕方で」)で使用する。観念とはそれについて議論されたり、誰かにより受け入れられたり、みなで共有されたり、公表されたり、人びとにより練り上げられたり、意味内容が明確にされたり、異議を唱えられたりする、そうしたものである。観念はまた、明快だったり独特であったりといった性質を持つ。ここでの議論ではまた、グループ分け、分類(分類法)、種といったものも観念の一種として取り扱われる。一方、クラス、集合、グループなどといった観念の外延と呼ばれるものは世界の中にあるものの集まりであり、そのようなものとして上述した「対象」にあたる。

・「エレベーター語」(「事実」「真理」「現実」「認識」)
エレベーター語は、世界そのものについて、ないしは、われわれが世界そのものについて語ったり考えたりしている事柄について何事かを主張するために用いられていると考えられる[22-3]。エレベーター語の特徴として二つの点があげられる。一つは、それらの定義を辿って行くと循環に陥る傾向があることである。
二つめの特徴は、これらの意味内容や意味するところ(sense & value)が時とともに変化してきたことである。このことは「客観的」「イデオロギー的」「事実的」「現実的」といったこれらの語の形容詞形についてもあてはまる。「事実」が構成されたというテーゼは、「対象」の構成や「観念」の構成を主張するものとは主張の性格を異にする(ex. 科学論の文脈—「科学的事実の構成」(Latour&Woolgar 1986))。


1. 13 Universal Constructionism

エレベーター語の一つ、「現実」の構成についてのテーゼについて検討する[24]。「現実」が構成されたというテーゼは、すべてのものが社会的に構成されたものだという普遍的な社会構成主義のように一見したところ思える。

・「言語的観念論」(Hacking 1975:182)
普遍的な社会的構成主義は、地球であれ、足であれ、クォーク、コーヒーの香り、嘆き、ホッキョクグマであれ、すべてが社会的に構成されていると主張するだろう。その際、構成物とされているのは、対象についての経験や分類法や関心といったものではなく、対象たる事実そのものでなければならない。「語られたもののみが存在する」「話されたり、書かれたりすることで初めて物事が存在するようになる」といった、全てのものの構成を主張する。

・「現実」の社会的構成(Berger&Luckmann)
現実の社会的構成を論じるバーガー&ルックマンの議論は、「日常的現実」についての「感覚」「感情」「経験」「信頼感」などの構成を主題とする[25]。彼らは、普遍的な構成主義者ではない。そこでは、蜂蜜の味や火星を含むあらゆるもの(それらの意味や経験、感情ではなく)が社会的構成物であることが主張されるのではない。社会的に構成されない限りいかなるものも存在し得ないと述べているわけではない。


1. 14 The Child Viewer of Television

「観念」の構成—「子どものテレビ視聴者」の構成—
:「子どもの視聴者」という明確な人間の種類を現す観念は、一つの社会的構成物である。テレビの出現以来、子どもたちはそれを見てきたが、「子どものテレビ視聴者」が社会問題化するまでは、「子どものテレビ視聴者」なる明確な子どものクラスは存在しなかった(Luke 1990)[26]。ハッキングは、この場合に社会的に構成されているのが、一つの観念、つまり「子ども視聴者」という観念であるという。そこでは「子ども視聴者」が一つの人間の「種」として構成される。


・構成主義のテーゼの複雑さ
:「子どもの視聴者」の構成に関して、先述の前提(0)が成り立っている。つまり、子ども視聴者はわれわれの時代において、物事を分類する不可避な方法のように見える。構成主義者はそれに対し、「全然違う」(テーゼ(1))と主張する。テレビを見る子どもたちは人間の他とは異なる一つの明確な種として概念化される必要性はなかった、と[26-7]。さらにそこでは、そのカテゴリーがとりたたて良いものとはいえないという考え(テーゼ(2))、そんなカテゴリーなどない方がよいというテーゼ(3)も示唆される。
 だが、ハッキングはさらに社会的構成主義の主張が複雑なものとなることに注意を喚起する。というのは、子ども視聴者のラベルやその表現を用いると、人はそのような人間の種類が一つの生物種として存在するという考えに至るためである。そこで、人間の種類は物象化されてしまう。
 いくつかのモメント
  :親と子ども(=「子ども視聴者」)の相互作用
   子ども自身の自己認識の変化、子ども自身とその観念(「子ども視聴者」)との相互作用
   研究対象(「子ども視聴者」)の変化          

 それゆえ、構成されるのは単に子ども視聴者という一定の種類の人間や特定の分類法に留まらない。対象としての子どももまた、マトリクスのなかで社会的に構成、ないし再構成されると言ってよい。社会的構成主義の主張を明確に掴むことが困難である理由の一つがここにある。すなわち、「Xの社会的構成」という場合に、Xがタイプの異なる存在物を暗黙のうちに指示しており、そしてまた社会的構成という作用自体がそれらの異なる存在物の間の相互作用を部分的にせよ含んでいるのである。
 
 ex. 子ども視聴者の例
   構成物X =人間の一定の分類法やそれにり分類された人間の一定の種
         個々の人間それ自身としての「子どもたち」
        (「子ども視聴者としてのキャサリン」、子どもとしての一定のあり方)


 それゆえ、「何が社会的に構成されるのか?」という本書の問いには、必ずしも単一の答えが対応しているとは限らない。このことが、構成主義をめぐる論争の中で数多くの問題を引き起こしている、人がみな「社会的構成物とは何か」についてそれぞれの異なる考えを抱いている以上、話が食い違って当然である[27-8]。そして、これらの異なる構成物間の相互作用があり、異なる構成物間の相互作用にも様々なものがあることにより、混乱が生じる
  たとえば、 子ども視聴者の世界会議において、参加した研究者らは子どもたちが受け身
  一方の被害者ではないことを認識するに至ったが、その理由の一つは子どもたちがテレビ
  画面と相互作用することを可能にした新たな技術の開発にあった。工業や商業の領域での
  物質的な変化により、テレビ画面に対する子どもたちの関係が変わったのである。しかし
  他方、子どもとテレビとの関係にまつわる様々な現象が概念化される仕方が変わったこと
  が、その関係の変化をもたらしたということもあるのである。
  
  このような「Xの社会的構成」というフレーズにおける構成物Xとして、さまざまなレベル
  の存在物が多重的に言及されているというケースは他にもたくさんある。

  ex. ジェンダーについての議論
   構成物:「ジェンダー化された人間」という観念、ジェンダー別に分類された人間自身、
        言語、制度、身体、そしてとりわけ「女性であるという経験」。
   これらの多様なタイプの構成作用の絡み合いと相互作用がジェンダー研究の重要な関心

 

1. 15 Why What? First Sinner, Myself

多くの論者がXという一つの言葉を用いて、ある種に属する対象と、その種そのもの、つまり、その下でそれらの対象が考えられている観念をともに意味しているとすると、なぜ、対象と観念を区別しなければならないのか?という疑問が生じる。
 その理由としてハッキングがあげるのが、対象と観念の混同は、社会的構成についての議論の論点を隠蔽する、というものである。概念とプラクティス(慣習)と人びとは互いに相互作用を及ぼし合っており、それこそが社会的構成について語る際の最大の論点である。対象と観念という根本的に異なるカテゴリーの混同は、この論点を隠蔽する[29]。


1. 16 Why What? Second Sinner, Stanley Fish

構成物としての対象と観念の混同はS.フィッシュの議論にも帰属されうる。フィッシュは、クォークが社会的構成物であると社会構成主義者が主張しているとしても、その主張はクォークが実在しているという考えと両立可能であることを指摘しようとした。つまり、あるものが社会的構成物であり、かつ同時に実在物であることが可能であると論じ、構成主義と科学者の間の論争の調停を図ったのである。
 フィッシュの懐柔策で隠されていたサイエンス・ウォーズの一つの重要な論点は、科学理論が偶然的か必然的かに関する(構成主義者と科学者との)見解の相違である。ハッキングはこの論点を覆うのではなく、構成主義と反構成主義の見解の対立がどのようにして生じているのか、さらにはそれがこの先、互いに一致することがないのはなぜかについてのよりよい理解を得ようとする
〔従来の論争点をずらし真の論争点を明確にし、その上である論点については両者の対立を調停し、別の論点に関してはその対立が原理的に解消できないことを示す(訳:p.343)〕

1. 17 Interactions

対象と観念の相互作用
:子どもの視聴者の例で見たように、子どもの視聴者という観念と子ども視聴者、人間を分類する仕方と分類される当の人間は相互作用を及ぼし合う。そのような相互作用はなぜ生じるのか?あらゆる理由がある。まず、一定の種として分類されることで、人びとは、おそらく、自分自身をその種の人間としてみなすようになったり、あるいはその分類自体を拒否することがある。われわれのすべての行為は一定の記述のもとにあり、われわれに選択可能な行為は、全くの形式的な仕方で利用可能な記述の仕方に依存している。さらに分類は、たんに言語上の操作ではなく、さまざまな制度、プラクティス、そして、他の事物や人びととの物質的な相互作用の中で遂行される。
 つまり、相互作用は、明らかに社会的な多くの要素と明らかに物質的な多くの要素を含んだマトリクスのなかで生じる。だが、初めにその理由を述べたように、人びとが彼らについて言われることや考えられること、行われることを意識しうることも疑いようがない事実である[31-2]。ここで。「相互作用種」という概念が新たに提示される。

「相互作用的な種」
:人は自らを女性難民のようなある種の人間であることを学びその種にふさわしい行為をしようとすることがありうる(またその分類を拒絶することもありうる)。確かにそれは人びとが彼らについての観念に意識的であることを含むが、個人の意識を強調し過ぎるものではない。女性難民は集団の一部として、そのように分類されることで女性難民の特徴についての意識が形成されていると言える。
 以上から、一種の分類法としての「女性難民」を「相互作用的な種」と呼ぶことができる。分類法としての種は、その種に属する事物、この場合には個々の女性を含む女性難民という人びとと相互作用を及ぼし合うためである。これらの人びとは、彼らの分類の仕方を自覚するようになり、それに合わせて行為を変えて行くだろう。対して、クォークという観念ないし分類法は、事物としてのクォークと相互作用を及ぼすことはなく、クォークと分類されただけで何らかの影響を被ることもないため、相互作用的な種ではない。
 
・女性難民とクォークの間の区別には多くの問題点を指摘することができるが、にもかかわらず、この区別は基礎的なものとして維持されねばならない。
:たとえば、自然科学と社会科学の根本的な相違もこの区別の一つの現れとして見なせる。後者における分類は相互作用的であるが、前者の分類や概念はそうではない。

・してみると、自然科学における構成主義に関する問題が生じる仕方が、人間に関わる事柄についての構成にまつわる問題のそれと異なることは別に驚くべきことではない。そこで、以下では二つの別個の問題群を立てる。すなわち、(1)偶然性や形而上学や安定性をめぐる問題群と、(2)生物学的でもあるが、何より相互作用に関わる問題群である。


1. 18 Two Question Areas

科学史を顧みると、少なくともしばらくの間、その後の研究の基盤として役割を果たした、研究に求められる一定の基準、確立された事実、発見された対象、確実な法則にはこと欠かない。それに対し、自然科学についての社会構成主義は、さまざまな成功をおさめてきた科学のどの分野も、それが実際に発展してきた仕方で発展しなければならない必然性がなかったと主張するだろう[32-3]。だが、このような構成主義の主張は、それに対し懐疑的な人びとにとって最低限理解可能なものとするためにどのようにして表現することができるのか?

(1)偶然性、形而上学、安定性をめぐる問題群
第一の係争点は、偶然性に関する(科学のある分野の発展が偶然的なものだったか否か)。第二のそれは、より形而上学的な係争点である。

 ・構成主義
 :「分類とは世界のあり方により決められているのではなく、世界を表象する便利なやり方に
   過ぎない」。世界はそうやうやすと事実として切り取られることはない。事実はわれわれ
   が世界を表象する方法の帰結である。
  →一種の唯名論
    
 ・反構成主義:世界はそれ自身に備わった構造をもち、われわれはそれを発見する

第三の係争点は安定性に関する問題である。
  マクスウェル方程式、熱力学の第二法則、光の速度、ドロマイトのような物質は安定的
  なものと言えるが、科学者は、それらが安定しているのがそれを支持する証拠が十分に
  あるためであると考える。対して、構成主義者は、安定性が問題となっている科学の
  公式見解には含まれない、何らかの外在的な要因の結果であると見なす。
  →このような見解の相違が、科学の安定性の内在的説明と外在的説明との対立をもたらす

これらの係争点は、それぞれ、根本的な意見の対立の基礎となる。また、互いに論理的に独立である。(「事実」「真理」「実在」といったエレベーター語や「客観性」「相対主義」という概念を用いることなく表現できる


・相互作用に関わる問題群
二番めの問題群は自然科学において生じるというよりも、人間に関わる事柄において生じる。人間の一定の種類の構成が問題となるとき、それらの種が適用される人びとがその観念(分類)と相互作用するなかで影響を被ることが指摘されたが、ハッキングはこのような一連の出来事の結果として生ずる強い相互作用を「人間の種類に関するループ効果」として提示する。たとえば、ある種の人びとが、自分自身について抱いている信念の影響を受けて、自らのあり方を変えることにより、かつてはその人びとについて正しかった事柄が、いまや偽となることも十分にありうる[34]。この種のループ効果はいたるところに見出せる—「天才」「デブ」「太り過ぎ」「拒食症」。そこで語られているのは、おそらく、「天才」「拒食症」といった観念、その観念のもとで考えられる個々人、その観念と個々人との相互作用、さらにはその相互作用に含まれる社会的なプラクティス(慣習)や制度からなる多種多様なものとしての、マトリクスである