Chap 2 Too Many Metaphors
「構成」という語の魅力の一つがディカルな政治的態度を連想させる点にあったことは確かだろう。その意味で「構成」という語は、それを発することにより政治的なコミットメントを宣言することでもある。だが、この立場表明に関して、次の二つのことが容易に忘れられている。
第一に、社会的構成に関する議論の大半が、おそらく100年ほど前に始まった社会問題へのアカデミックなアプローチの仕方をそのまま受け継いでいることである。そのアプローチの仕方とは社会構成主義が否定しようとしたシカゴ学派をうみだしたものであり、問題は、社会構成主義が自らが批判しようとしたはずの当の言説の一部となっていることにある。第二に、構成主義者たちは、社会問題の分析に過度に集中しすぎるために、視野狭窄に陥っていることである。
〔以下でハッキングが行うのは、構成という隠喩の守備範囲を限定していくこと〕
2. 1 プロセスとプロダクト—Process and Product—
「構成」という語で何が意味されているか?
( i ) ある状態へ至るまでの道筋や過程(プロセス)
( ii ) その結果(プロダクト)
( iii ) 解釈(construal)
解釈、プロセスとしての構成、プロダクトとしての構成は互いに避け難く結びついているが、これらを区別しないなら、誤解をうみだす用法に陥る(ex. 聾唖についての解釈の構成(Lane 1975))。
2. 2 「社会的」は余計か—Is "Social" Redundant?—
社会的に構成されると言われる事柄のほとんどは、もしそれが本当に構成されているなら、「社会的に」構成されるしかなかっただろうものである(ex. ジェンダー)。してみると、「社会的」という形容詞は不必要であり、もし用いるなら強調や他との違いを際立たせるために用いられるべきであるということになるだろう。
2. 3 カントの館—Kant's House—
とはいえ、構成の形容詞として「社会的」という語を用いることは、いかなる場合も意味がないということではない。とくにさまざまな構成主義から区別するにあたっては、「社会的」という形容詞の使用は意味がある。
・「構成主義」の学派にはさまざまなものがあるが、社会的構成主義を含め、すべての構成主義はカントから由来にしているように思える。カント以降、構成というメタファーは互いに異なる多くのラディカルな哲学的理論を表現するために用いられるようになった。それら全ての理論は、「構成」という概念と何らかの「批判」的見解との結びつきを保持するという点で、カントと立場をともにしている。
・以下のようなさまざまな「構成主義」を「カントの館」に林立する棟として提示することができる。
a. バートランド・ラッセルの論理的構成
b. 論理実証主義
c. 経験的心理学における構成物の妥当性
d. ネルソン・グッドマンの構成主義的態度
e. 数学における構成主義
f. 道徳論
:上述の様々な構成主義的主張は、それぞれ従来の主張や立場への批判的見解と結び付けられている。構成主義は懐疑主義的な態度を共通にもつ。また、構成主義は人間中心主義的でもある。
さらに、「社会的」という形容詞をこれらの構成主義のなかに導入することで、さらなるテーマが特定される。つまり、社会的構成主義者らは、これらの構成物(ex. 理論的存在者、数学的対象、実験で用いられる指標、世界)が不可避的に社会的な産物であることを主張するのである[47]。
"Constructionalism"
:ハッキングはこれらの構成主義群(カントの館に立ち並ぶさまざまな棟)をコンストラクショ“ナ”リズム(constructionalism)と名付ける—ラッセル、カルナップ、グッドマン、クワイン、さらに彼らの共同研究者と継承者らが関わった哲学的プロジェクト。
・コンストラクショナリズムの目的は、多様な存在者(entities)、概念、世界が何らかの意味で他の別の材料から構成されたものであることを証明し、その構成のされ方を具体的に示すことにある。コンストラクショナリストらは、構成が人びとの共同作業により行われるものであることを指摘するが、構成の歴史的または社会的な出来事やプロセスを研究していない。
・彼らが構成物に対して抱いている基本的直観は懐疑的なものであるが、しかし、完全に懐疑的というわけではない。構成物が実在しないとか、われわれがそれらの存在を信じる根拠がないという言い方はしない[47-8]。反対に、コンストラクショナリストらは構成物の存在を信じるための立派な根拠をわれわれは持っており、しかし、分析を経て、われわれの信念の内容は異なる姿を見せることを指摘する。
→つまり、コンストラクショナリズムのポイントは、構成物の言説のレベルにおける変化にある。
"Constructivism"
:ハッキングはコンストラクティヴィズム(一連の心の働きにより対象が構成されて初めて、その対象の存在を主張することが許されると主張する)という名称を数学研究だけに限定する。それにより数学的対象や定理といった数学的事実を社会的構成物とするコンストラクショナリズムとの混同を防ぐことができる。
"Constructionism"〔本書で言う「構成主義」〕
:社会的構成物に対する近年の熱狂は、カントの館の数ある棟のうちのあくまで一つの建物の中で起っている現象であり、数学の領域における構成主義(constructivism)がその領域で保持されることを許すために、あえてコンストラクショニズムという名称を用いる。それゆえ、コンストラクショニズム(「社会的」ということを文脈に応じ強調する必要がある場合には「社会的コンストラクショニズム」)という語を採用することで、現存の何らかの存在者や事実を存在せしめ、確立することに一役買っている、ないしはそのような存在や確立をもたらしている、一定の歴史的状況の中に埋め込まれた、現実の社会的な相互作用や因果的な経緯を明らかにし分析することを目指す、さまざまな社会学的・歴史的・哲学的プロジェクトを指示する。
社会的構成主義で採用される旧来の図式
コンストラクティヴィスト、コンストラクショニスト、コンストラクショナリストは、それぞれ異なる知的空間の中で生きているが、これらの三つの立場からは「物事は見かけどおりではない」という共通の主張を読みとることができる。そこには、人びとが実在していると思っている物事がじつは見せかけだけの存在であることを暴くという偶像破壊的な問題意識が含まれている。つまり、すべての構成物主義者たちは、プラトンにより設定され、カントにより明確な形式を与えられた現れ(appearance)と実在(reality)の二元論にどっぷりと浸かっている。社会的構成主義者らは実際、旧来的な図式の中に留まる。
2. 4 築く・部品を組み立てる—Building, or Assembling from Parts—
「構成」という語は社会的構成主義の著作においてあまりに多用されてきたため、隠喩としての新鮮味が失われてしまった。構成というメタファーが、「築く」「組み立てる」といった字義通りの意味の一つを保持していると主張できれば、この隠喩は新鮮味を取り戻すことができる。原義に近い「構成」の概念では、構成物と呼ばれるものは、後の段階が前の段階の産物の上に、あるいはその産物を材料として築かれて行くというように、いくつかの明確な段階を踏んで構成された/されている物として扱われる。構成物は歴史を持っており、その歴史は単なる歴史ではなく「築く」歴史でなければならない[50]。
「構成」:部分としての要素を組織的に配列させて全体を作ること。
全体は部分の総和以上のもので、組織的な配列、すなわち構造を持つ
(→構成物は常に単なる部分の総和以上のもの)
ex.「心理学における被験者」の社会的構成(K. ダンジガー)
・4つの別個な種類のものの構成...概念や観念、プラクティス、一連の知識、個人そのもの
・どのようにして様々な部分が順に組み立てられてより大きな構造を成すようになるかについての歴史の提示(ex. 実験心理学の歴史):問題を特にテクニック、制度、問題がより以前のステップを使いながら築かれるとともに、後のテクニック、制度、問題を生み出すさらなる段階を形作る、一連の歴史的過程として構成を論じる。
2. 5 暴露する—Unmasking—
「暴露する」(仮面をはがす)という別の隠喩は、論理実証主義と同時代の、構成主義のよく知られた先駆者にさかのぼる。
cf. K. マンハイムによる「暴露」の使用
暴露という観点から特にイデオロギー全体を考える(局所的な暴露も視野に入れる)。
さらにそれは一種の機能主義を念頭におくものであり、主張や思考の真偽を問題と
するのでなく、それが果たしている機能を問題とする。イデオロギーはそれにより
得られる機能や利益を示すことにより仮面をはがされて正体を明らかにされる。
・否認(refuting)と暴露(unmasking)の区別
( i ) 否認:ある主張を否認することは、それが偽であることを示すことにより、主張
それ自体のレベル、つまり真偽のレベルで働く。
( ii )暴露:暴露することは、その主張の超理論的な機能を示すことにより、その主張を
弱めることである[56]。
この区別は鋭いものではないが、純粋に暴露するだけのケースと、暴露し否認することを組み合わせたケースを区別しないなら、構成の隠喩はかなり弱まってしまう(暴露+否認≠構成主義)。
2. 6 人間に関する事柄—Human Affairs—
・構成主義者は権力や管理の問題に多大な関心を抱いている。暴露することの目的は、いかに知識のカテゴリーが権力関係のなかで用いられるかを示すことによって、抑圧されている人びとを開放することである。もちろん、構成主義的研究においては、権力は単に上から働くものではない。暴露の目的の一つは、聾唖者や女性難民の人びとが自らに当てはめられている分類を自覚することによって、自身の運命を自分たちでコントロールできるようにすることである。
「人間の種類」(human kinds)
:人の種類、行為の種類、行動の種類を指示する用語。人間の種類の重要な特徴は、人間の種類がそこに分類された人に影響を及ぼすとともに、そこに分類された人が今度は逆に自ら行動を起こし分類に影響を及ぼすことができる点にある—「人間の種類に関するループ効果」/相互作用的な種類。
基本的なアイディア(注1):人は自分のことを意識する(self-conscious)
人は自分が何であるかを知ることができる(...self-knowledge)
......道徳的で自律した行為者
自然科学に適用される構成主義は、第一に形而上学的・認識論的立場であり、実在や推論についての見解に関わる。一方、構成主義が人文社会科学に適用される場合には、道徳的問題への関心が第一のものとなるに違いない。しかし、多くの構成主義者が道徳的関心により動かされているにも拘らず、社会構成についての語りは、ややもすれば道徳的問題からわれわれの注意を逸らそうとする傾向がある。その原因の一つは、ある構成主義者に見られるように、臆病なあまり、道徳性の観念そのものが可能だと認めないことにある。
2. 7 自然科学—The Natural Sciences—
〔Chap 3への接続〕
・自然科学に関する構成主義と反構成主義の対立(/サイエンス・ウォーズ)
構成主義:不敬なる形而上学と理性への憤怒
「世界は唯一の仕方で前もって構造化されているわけではない」
(唯名論/非実在論)
...政治的・批判的であるが、部分的には形而上学的立場をとる
反構成主義:理性への啓蒙主義的な信仰
「科学は世界に存在する事実を発見するものである」という科学観
...世界は諸々の事実へと前もって構造化されているという形而上学的見解
注1: 道徳性に関する議論につなげなくても、エッセンスは提示可能だと思う。
しかも、シカゴ派的な発想で。
>self-consciou & self-knowledge
自己についての意識と他者から見た自己についての知
「構成」という語の魅力の一つがディカルな政治的態度を連想させる点にあったことは確かだろう。その意味で「構成」という語は、それを発することにより政治的なコミットメントを宣言することでもある。だが、この立場表明に関して、次の二つのことが容易に忘れられている。
第一に、社会的構成に関する議論の大半が、おそらく100年ほど前に始まった社会問題へのアカデミックなアプローチの仕方をそのまま受け継いでいることである。そのアプローチの仕方とは社会構成主義が否定しようとしたシカゴ学派をうみだしたものであり、問題は、社会構成主義が自らが批判しようとしたはずの当の言説の一部となっていることにある。第二に、構成主義者たちは、社会問題の分析に過度に集中しすぎるために、視野狭窄に陥っていることである。
〔以下でハッキングが行うのは、構成という隠喩の守備範囲を限定していくこと〕
2. 1 プロセスとプロダクト—Process and Product—
「構成」という語で何が意味されているか?
( i ) ある状態へ至るまでの道筋や過程(プロセス)
( ii ) その結果(プロダクト)
( iii ) 解釈(construal)
解釈、プロセスとしての構成、プロダクトとしての構成は互いに避け難く結びついているが、これらを区別しないなら、誤解をうみだす用法に陥る(ex. 聾唖についての解釈の構成(Lane 1975))。
2. 2 「社会的」は余計か—Is "Social" Redundant?—
社会的に構成されると言われる事柄のほとんどは、もしそれが本当に構成されているなら、「社会的に」構成されるしかなかっただろうものである(ex. ジェンダー)。してみると、「社会的」という形容詞は不必要であり、もし用いるなら強調や他との違いを際立たせるために用いられるべきであるということになるだろう。
2. 3 カントの館—Kant's House—
とはいえ、構成の形容詞として「社会的」という語を用いることは、いかなる場合も意味がないということではない。とくにさまざまな構成主義から区別するにあたっては、「社会的」という形容詞の使用は意味がある。
・「構成主義」の学派にはさまざまなものがあるが、社会的構成主義を含め、すべての構成主義はカントから由来にしているように思える。カント以降、構成というメタファーは互いに異なる多くのラディカルな哲学的理論を表現するために用いられるようになった。それら全ての理論は、「構成」という概念と何らかの「批判」的見解との結びつきを保持するという点で、カントと立場をともにしている。
・以下のようなさまざまな「構成主義」を「カントの館」に林立する棟として提示することができる。
a. バートランド・ラッセルの論理的構成
b. 論理実証主義
c. 経験的心理学における構成物の妥当性
d. ネルソン・グッドマンの構成主義的態度
e. 数学における構成主義
f. 道徳論
:上述の様々な構成主義的主張は、それぞれ従来の主張や立場への批判的見解と結び付けられている。構成主義は懐疑主義的な態度を共通にもつ。また、構成主義は人間中心主義的でもある。
さらに、「社会的」という形容詞をこれらの構成主義のなかに導入することで、さらなるテーマが特定される。つまり、社会的構成主義者らは、これらの構成物(ex. 理論的存在者、数学的対象、実験で用いられる指標、世界)が不可避的に社会的な産物であることを主張するのである[47]。
"Constructionalism"
:ハッキングはこれらの構成主義群(カントの館に立ち並ぶさまざまな棟)をコンストラクショ“ナ”リズム(constructionalism)と名付ける—ラッセル、カルナップ、グッドマン、クワイン、さらに彼らの共同研究者と継承者らが関わった哲学的プロジェクト。
・コンストラクショナリズムの目的は、多様な存在者(entities)、概念、世界が何らかの意味で他の別の材料から構成されたものであることを証明し、その構成のされ方を具体的に示すことにある。コンストラクショナリストらは、構成が人びとの共同作業により行われるものであることを指摘するが、構成の歴史的または社会的な出来事やプロセスを研究していない。
・彼らが構成物に対して抱いている基本的直観は懐疑的なものであるが、しかし、完全に懐疑的というわけではない。構成物が実在しないとか、われわれがそれらの存在を信じる根拠がないという言い方はしない[47-8]。反対に、コンストラクショナリストらは構成物の存在を信じるための立派な根拠をわれわれは持っており、しかし、分析を経て、われわれの信念の内容は異なる姿を見せることを指摘する。
→つまり、コンストラクショナリズムのポイントは、構成物の言説のレベルにおける変化にある。
"Constructivism"
:ハッキングはコンストラクティヴィズム(一連の心の働きにより対象が構成されて初めて、その対象の存在を主張することが許されると主張する)という名称を数学研究だけに限定する。それにより数学的対象や定理といった数学的事実を社会的構成物とするコンストラクショナリズムとの混同を防ぐことができる。
"Constructionism"〔本書で言う「構成主義」〕
:社会的構成物に対する近年の熱狂は、カントの館の数ある棟のうちのあくまで一つの建物の中で起っている現象であり、数学の領域における構成主義(constructivism)がその領域で保持されることを許すために、あえてコンストラクショニズムという名称を用いる。それゆえ、コンストラクショニズム(「社会的」ということを文脈に応じ強調する必要がある場合には「社会的コンストラクショニズム」)という語を採用することで、現存の何らかの存在者や事実を存在せしめ、確立することに一役買っている、ないしはそのような存在や確立をもたらしている、一定の歴史的状況の中に埋め込まれた、現実の社会的な相互作用や因果的な経緯を明らかにし分析することを目指す、さまざまな社会学的・歴史的・哲学的プロジェクトを指示する。
社会的構成主義で採用される旧来の図式
コンストラクティヴィスト、コンストラクショニスト、コンストラクショナリストは、それぞれ異なる知的空間の中で生きているが、これらの三つの立場からは「物事は見かけどおりではない」という共通の主張を読みとることができる。そこには、人びとが実在していると思っている物事がじつは見せかけだけの存在であることを暴くという偶像破壊的な問題意識が含まれている。つまり、すべての構成物主義者たちは、プラトンにより設定され、カントにより明確な形式を与えられた現れ(appearance)と実在(reality)の二元論にどっぷりと浸かっている。社会的構成主義者らは実際、旧来的な図式の中に留まる。
2. 4 築く・部品を組み立てる—Building, or Assembling from Parts—
「構成」という語は社会的構成主義の著作においてあまりに多用されてきたため、隠喩としての新鮮味が失われてしまった。構成というメタファーが、「築く」「組み立てる」といった字義通りの意味の一つを保持していると主張できれば、この隠喩は新鮮味を取り戻すことができる。原義に近い「構成」の概念では、構成物と呼ばれるものは、後の段階が前の段階の産物の上に、あるいはその産物を材料として築かれて行くというように、いくつかの明確な段階を踏んで構成された/されている物として扱われる。構成物は歴史を持っており、その歴史は単なる歴史ではなく「築く」歴史でなければならない[50]。
「構成」:部分としての要素を組織的に配列させて全体を作ること。
全体は部分の総和以上のもので、組織的な配列、すなわち構造を持つ
(→構成物は常に単なる部分の総和以上のもの)
ex.「心理学における被験者」の社会的構成(K. ダンジガー)
・4つの別個な種類のものの構成...概念や観念、プラクティス、一連の知識、個人そのもの
・どのようにして様々な部分が順に組み立てられてより大きな構造を成すようになるかについての歴史の提示(ex. 実験心理学の歴史):問題を特にテクニック、制度、問題がより以前のステップを使いながら築かれるとともに、後のテクニック、制度、問題を生み出すさらなる段階を形作る、一連の歴史的過程として構成を論じる。
2. 5 暴露する—Unmasking—
「暴露する」(仮面をはがす)という別の隠喩は、論理実証主義と同時代の、構成主義のよく知られた先駆者にさかのぼる。
cf. K. マンハイムによる「暴露」の使用
暴露という観点から特にイデオロギー全体を考える(局所的な暴露も視野に入れる)。
さらにそれは一種の機能主義を念頭におくものであり、主張や思考の真偽を問題と
するのでなく、それが果たしている機能を問題とする。イデオロギーはそれにより
得られる機能や利益を示すことにより仮面をはがされて正体を明らかにされる。
・否認(refuting)と暴露(unmasking)の区別
( i ) 否認:ある主張を否認することは、それが偽であることを示すことにより、主張
それ自体のレベル、つまり真偽のレベルで働く。
( ii )暴露:暴露することは、その主張の超理論的な機能を示すことにより、その主張を
弱めることである[56]。
この区別は鋭いものではないが、純粋に暴露するだけのケースと、暴露し否認することを組み合わせたケースを区別しないなら、構成の隠喩はかなり弱まってしまう(暴露+否認≠構成主義)。
2. 6 人間に関する事柄—Human Affairs—
・構成主義者は権力や管理の問題に多大な関心を抱いている。暴露することの目的は、いかに知識のカテゴリーが権力関係のなかで用いられるかを示すことによって、抑圧されている人びとを開放することである。もちろん、構成主義的研究においては、権力は単に上から働くものではない。暴露の目的の一つは、聾唖者や女性難民の人びとが自らに当てはめられている分類を自覚することによって、自身の運命を自分たちでコントロールできるようにすることである。
「人間の種類」(human kinds)
:人の種類、行為の種類、行動の種類を指示する用語。人間の種類の重要な特徴は、人間の種類がそこに分類された人に影響を及ぼすとともに、そこに分類された人が今度は逆に自ら行動を起こし分類に影響を及ぼすことができる点にある—「人間の種類に関するループ効果」/相互作用的な種類。
基本的なアイディア(注1):人は自分のことを意識する(self-conscious)
人は自分が何であるかを知ることができる(...self-knowledge)
......道徳的で自律した行為者
自然科学に適用される構成主義は、第一に形而上学的・認識論的立場であり、実在や推論についての見解に関わる。一方、構成主義が人文社会科学に適用される場合には、道徳的問題への関心が第一のものとなるに違いない。しかし、多くの構成主義者が道徳的関心により動かされているにも拘らず、社会構成についての語りは、ややもすれば道徳的問題からわれわれの注意を逸らそうとする傾向がある。その原因の一つは、ある構成主義者に見られるように、臆病なあまり、道徳性の観念そのものが可能だと認めないことにある。
2. 7 自然科学—The Natural Sciences—
〔Chap 3への接続〕
・自然科学に関する構成主義と反構成主義の対立(/サイエンス・ウォーズ)
構成主義:不敬なる形而上学と理性への憤怒
「世界は唯一の仕方で前もって構造化されているわけではない」
(唯名論/非実在論)
...政治的・批判的であるが、部分的には形而上学的立場をとる
反構成主義:理性への啓蒙主義的な信仰
「科学は世界に存在する事実を発見するものである」という科学観
...世界は諸々の事実へと前もって構造化されているという形而上学的見解
注1: 道徳性に関する議論につなげなくても、エッセンスは提示可能だと思う。
しかも、シカゴ派的な発想で。
>self-consciou & self-knowledge
自己についての意識と他者から見た自己についての知