3. 2 第二の係争点:唯名論—Sticking Point #2: Nominalim

「事実」「実在的」「真」「知識」といった意味論的に高いレベルにある語、つまりここでいうエレベーター語は、世界そのものについてわれわれが語っている事柄を分析したり説明したりするために用いられる。それゆえ、これらの存在物は、世界の中に存在している事柄とは根本的に異なる。これらの語を使用して、哲学者はある種の空騒ぎを続けてきた(19世紀初頭から1930年代までの認識論(「認識」を主題とする)、近年の意味論(「真理」を扱う))。ここでは、そのような議論を繰り返すことはせず、今まで用いられてきたエレベーター語に手を加え、それらを変えながら提示する。

「事実」についての議論:「(科学的)事実の構成」(ラトゥールとウールガー『実験室の生活』)
ラトゥールの事実に関する議論を検討しながら、ハッキングはその構成主義的主張が何を意味するのかを次のように提示する。
・ラトゥールの事実についての議論では、事実が存在しないとか、実在なるものが存在しないなどといった主張がなされているのではない。そこで主張されるのは、単に「あるものが「そこにあるということ」が、科学の活動の帰結であり、その原因ではない」ということ、そして「実在はなぜある言明が事実となるかを説明するためには使用できない」ということである。
・つまり、構成主義は、ある人がpを受け入れる/信じるようになった理由や原因を、pが真であるからである、とか、事実に対応しているからである、とか、端的に事実であるからである、ということにより説明することができないことを主張する。
・従って、この主張は事実や真理なるものがないといった主張ではなく、ごく当たり前の主張であって、それ自体では挑発的でも何でもない。構成主義の文字通りの主張やその背後の批判的精神に反感を抱く人でも、科学的命題の「真理」がなぜ人びとがそれを主張したり信じたり、同意しているのかについての「説明」にはならないことに同意することにはやぶさかでもないだろう。

《唯名論》
では、第二の係争点はどこにあるのか?ハッキングは、科学者と構成主義者の意見の相違が、思考と世界の関係についての2つの形而上学的見解の間で繰り広げられてきた論争、すなわち「唯名論」をめぐる議論にあるという。

・だが、唯名論をめぐる議論の現代版では、唯名論に反対する立場は伝統的な議論で「実在論」として呼ばれていたものではない。ハッキングは実在論の代わりに「構造内在主義」という名称を用いる。

・両陣営の対立の構図は次のようなものである
a. 構造内在主義(inherent-structurism):
世界は一定の構造を内在させつつわれわれに現象しており、その構造を発見することが科学者の役目であると信じる。科学者はこの構造に則って世界を記述し、この記述はもちろん誤りうるが、少なくとも世界が記述されているような仕方で構造化されている可能性は常に捨てきれない。いずれにせよ、自然探求の目的は世界に関する事実を見出すことにある。そして事実は、われわれがそれをいかに記述しようとも厳然と存在し、一定の仕方で並べられている。

b. 唯名論:
世界はすぐれて自律的で独自な存在であり、その真のあり方はわれわれの想像を超えている。われわれが構造と呼ぶものは、世界それ自身のうちに備わったものではない。そのような世界を前にして、われわれはそれについての自分自身のささやかな像を描こうとしているに過ぎず、そこで描かれる構造は、すべてわれわれの世界像の中でのみ成り立つものに過ぎない。そしてこのような世界像は、様々な限界を抱えている(ex. 世界についての予測や理論が誤りうる)。しかし、それでも、その誤りをはっきりと認める必要がある。

《係争点》
・唯名論者は、われわれの持つ経験と、われわれと世界との相互作用に対してのみ真である=それらのみをうまく説明してくれる世界像や理論だけを求める。科学的な唯名論者の場合には、なぜ実験装置がうまく働かないかをきちんと説明すること、つまり物質的世界が示す「抵抗」に、暫定的にではなく「順応」することが求められる。
・また、唯名論者は、反実在論者と同定できない。唯名論的主張は、理論的な科学により要請される観察不可能な存在者の存在を疑ったり、その存在を知ることができないと考える反実在論的主張よりもずっと過激である。観察可能かどうかといったことは唯名論者にとっては問題ではなく、電子であれ、もみの葉の針に関してであれ、それらを世界の内在的な構造の現れと見なす立場から注意深く距離をとろうとする。