Chap 3. What About the Natural Sciences?

本章では「社会的構成」というフレーズにより現代的なものとして仕立てられた、自然科学に対する根本的な見解の相違、すなわち「係争点」を明らかにする。反科学陣営が抱く怒りも、科学者が追求するイメージ(科学観)も科学に関する構成主義についての明確な理解をもたらすもでのはなく、初めに、この二つの陣営を隔てるいくつかの基本的な哲学上の問題をしっかりと把捉しなければならない[63]。

・「活動」と「真理」の区別の導入
科学は社会的活動であり、その文脈のなかで理解されるべきであるという主張を認めつつ、活動と真理の集まりを区別する。社会学者にとっては科学のプロセス=科学的活動こそが研究の主要な対象となるべきことであり、他方、科学者にとっては最も議論を呼ぶ哲学的問題は、プロダクトないし真理の集まりとしての科学である[67]。
 活動と真理の区別の導入により、ハッキングは、対立する論者(実在論者と構成主義者)の間に解消できない相違点を発見することを目指す。サイエンス・ウォーズを引き起こしているのはこの解消不可能な相違(以下の3つの係争点)であり、それゆえにこの対立は政治的ないし社会的要因以外にも古くからの哲学的見解の相違に根ざしていると言える


3. 1 第一の係争点:偶然性—Sticking Point #1: Contingencyー

基礎的な物質とされるクォークの社会的構成を主張するピカリングの著作を素材に、構成主義と科学者(実在論者)の係争点を明らかにする。

・ピカリングの構成主義的主張(『クォークを構成する』)
構成物とされるのは対象としてのクォークではなく、クォークという観念である。その上で、ピカリングの構成主義的主張は「クォークの観念の出現は不可避的なものではなかった」というものである。この主張によりピカリングが意図しているのは、クォークなる観念を必要としない、現在の高エネルギー物理学と同じように基礎的で同じように成功をおさめている、別の想像上の科学を考えてみることである。つまり、ピカリングの構成主義的主張は全体として次のことを含意する。

現実とは異なるオルタナティブな、そして「成功している」科学がどのような場合でも存在しうる

  「成功している(successful)」とは?
   cf. ラカトシュ「前進的(/退行的)プログラム」
   新たな理論が古い理論でカバーできなかった新たな予測を行う一方で、事実により
   確証されていたそれ以前の予測のほとんどを保持し続けている場合、研究プログラ
   ムは経験的に前進的である。また、その理論がより多くの現象をより単純に説明し
   てくれるような理論構造を伴う概念をコンスタントに生み出している場合、それは
   概念的に前進的である。そして、理論がより多くの技術革新をもたらすなら、
   技術的に前進的であると言える。

現実とは異なるオルタナティヴな物理学とは、量子力学の標準モデルに等しい内容を一切持たず、それでも現在の高エネルギー物理学と同じだけ前進的な研究プログラムである。そのようなプログラムは、クォークなる観念をもたないが、ある種の宇宙論を備え、それにより宇宙の起源を説明しつつ、現行のものとは異なる世界観をうみだす。

・上述のような見解は、科学者たちからみると馬鹿げたものに映るだろう。ここで実質的な係争点が顕在化されることになる。初めに指摘できるのは、係争点とは、(クォークなる対象の)実在や真理、他のエレベーター語に関する意見の相違ではない、ということである。

では、係争点はどこにあるのか。ピカリングは「真理」の概念に変えて、「抵抗(resistance)」と「順応(accomodation)」という2つの言葉を使用している。ハッキングはこれらの概念と、P. デュエムの理論とピカリングの議論の対照をもとにピカリング流の構築主義的主張における「偶然性」の概念化の特徴を提示する。

・抵抗と順応
ピカリングはこれらの言葉で、理論と実験、実験で用いられる器具や道具などの科学的活動を支える物質的基盤としての装置との間に成り立つ複雑な(弁証法的な)関係を描く。まず、研究上の要請から作られた道具や装置(これらは通常思い通りには動かない)が実験の現場でうまく作動しない状況のことを(世界の)「抵抗」と呼ぶ。そして科学者はこの抵抗に「順応」するために、理論を見直したり、実験装置の作動の仕方についての信念を変えたり、装置自体を調整したりする。
 この結果として、うまくいけば、理論と実験装置に関する考え、さらには装置それ自体といった要因が互いにしっくりと噛み合う(フィットする)ことになる。

・頑健な噛み合わせ(robust fit)
P. デュエムの理論とピカリングの議論を比較してみよう。デュエムの見解では、理論に反する観察が得られるとしても自動的に理論的な推測が反証されたことにはならない。なぜなら、「実験装置がいかに働くか」についての補助仮説と一緒に主張されて初めて、理論的モデルから導かれる推測と現実の観察が一致しないと言えるためである。確かに否定的な実験結果が得られるなら、何らかの修正が必要となるが、それは主要な理論を変更することによっても、装置についての補助仮説を変更することによっても可能であり、さらにピカリングによるならば、その装置を作り直すという選択もありうる[71-2]。異なる理論、実験結果の解釈や分析の仕方(現象論)、装置についての補助仮説(図式モデル)、装置との関係が(一時的に)均衡状態にあるとき、頑健な噛み合わせがあると言う。

〔ハッキングの言葉を借りれば、さまざまなレベルにある存在物—理論、図式モデル、装置、観察データなど—の間の相互調整がピカリングの構成主義が以下のような偶然性を考える上での立脚点となっている〕

偶然性がここで、科学者と構成主義の実質的係争点として提示される。そこでハッキングは偶然性について2つのポイントを指摘する。

( i ) 偶然性は「前もって決まっていないこと」を意味する。
ピカリングは現行の物理学(高エネルギー物理学)の研究プログラムと同じくらい成功をおさめ、異なる理論、現象の解釈や分析の仕方、装置についての補助仮説をもち、それらの間の一連の頑健な噛み合わせについてもクォーク理論とは異なりながら、しかも前進的な頑健な噛み合わせをもつような研究プログラムが存在しえた、と主張する。
・「順応」と「抵抗」のプロセスの結果は前もって決定されない。また、多様な要素/存在物間の一定の頑健な噛み合わせもまた、それが実験という活動を通して達成される以前には、その噛み合わせがどのようなものとなるのかが一切決まっていない。
・それらは、世界のあり方、科学者の社会的慣習、利害、ネットワーク、資質、いずれのものによっても予め決定されない。

( ii ) 偶然性は「不完全決定性」を意味しない。
ピカリングの見解は、クワインの「経験による理論の不完全決定性」とは区別されねばならない。
・クワインの場合、偶然性は論理的に(/原理的に)可能な事態に留まる。つまり、どのような経験の一定の集まりが与えられても、その経験が無数の互いに両立不可能な理論と論理的に両立可能なという事態に着目した。
・ピカリングは、論理的な事態を扱うのでなく、上述した意味で、研究のどの段階でも次に何が起るのかが前もって決定されないことを主張する。実験結果をうけてなされるべきことは一つの理論の「選択」ではなく、理論や装置、装置の働きについての説明に干渉し、それを調整することである。

このように、たとえ実際にはたった一つの頑健な噛み合わせしか思いつかれなかったとしても、他の多くの頑健な噛み合わせが常に可能であったはずだ、というのが構成主義者の見解である。それゆえ、実際に得られた現実の噛み合わせは偶然的なものにすぎない。しかしそれは、科学者の集団的な意思決定により世界についての一つの説明を恣意的に選択したことを意味しない(×恣意性)。

《係争点》
偶然性テーゼは2つの主張からなる。

( a ) 物理学の理論は、現在の理論がたどってきた道筋とは違う仕方で(たとえばクォーク理論を含まない仕方で)発展することが可能であった。そして、現在の理論がそれ自身の詳細な成功の基準に照らしておさめていると認定されているのと同程度の成功を、オルタナティブな物理学も細部まで調整された自らの成功の基準にてらしておさめていると見なし得る。

( b ) この想像上のオルタナティブな物理学は、現行の物理理論とどのような意味でも等値ではない。

一方、物理学者はこれらの主張を真向から否定する。物理学者は、クォークであれ、何であれ、何らかの事柄が明白に偶然的ではなく、物理学が進歩し続ける限り、それは不可避的に理論に登場し続けると言うだろう。構成主義はそれに対し、何らかの事柄が、現行の物理学(さらには同様の成功をおさめる理論にとって)不可欠の事柄ではないとさらなる偶然性テーゼを投げ返す。物理学者は、物理学が必然的に進歩し続けるとは考えていない。ただ、もし物理学が進歩し、成功を収め続けるなら、それはこれまでと同じ仕方で進歩せざるを得なかったと主張しているのである。

偶然性テーゼは、「不可避性」についての上述の物理学者の主張とは対立するが、どのような形而上学ともそれは両立可能である(ex. 科学的実在論をめぐる多様な陣営とも両立する)。また、それは、たとえば物理学者や科学者に帰されるかもしれない「世界の絶対的な概念理解」についての見解や、物理科学研究が究極の唯一の世界観へ収束するという見解と抵触しない。なぜなら、噛み合わせの結果、ある一つの解答への収束が起った(起る)としても、現実の科学理論について事実のあり方からしてこれしかありえないという意味での必然性は成り立たないためである。