Chap 5 Kind-Making: The Case of Child Abuse
本章では児童虐待を例として、その実在と社会的構成を同時に主張することこれまで述べてきた、さまざまなタイプの要素が絡まり合ったマトリクスのなかで観念が形成されるという話に実質的な意味を与えることが目指される[127]。
有意な種類
ハッキングは「種類の制作」の発想をグッドマンの世界制作の議論に負っている。グッドマンは「帰納法の新しい謎」で、個別事例に関する証拠を基礎に何らかの一般的な結論に到達する際、われわれが同じ推論のルールを用いながら、しかし、別の分類を用いて反対の結論に達することが可能であることを示した[128]。そこで、有意な種類の選択と編成について次のように述べた。
「進化する伝統に影響を受けながら有意な(レリバントな)種類を編成し選び出すことがなければ、種類の編成が正しいとか間違っているとか、帰納推理が妥当であるとかないとか、サンプリングが公平であるとかないとか、サンプルに斉一性があるとかないとか、そういったことは成り立たない」(Goodman 1978:138-9)[129]。
選択と編成は、コミュニティの中で分類が前もって作られ、普及されていることを推論の前提とするために社会的構成の概念と近似的である。そして、グッドマンによるなら、種類の編成は世界をも決定する。しかし、ハッキングが以下でしようとすることは、グッドマンが「実践との合致」「進化する伝統による影響」を指摘しつつも論じなかった実践や進化の具体的な相について「児童虐待」を例にその複雑な過程を論じることとともに、種類を制作することにより世界を制作するというグッドマンの見解を、種類の制作の帰結として過去の経験が(再記述ではなく)作り直されることを示すために適用することである。
「もし新しい種類が選択されたなら、過去も新しい世界の中に現れることができる、とグッドマンなら言っただろう。過去の人生の出来事もいまや新しい種類に属する出来事として、つまりその出来事が経験されたり、その行為が遂行されたりした時には概念化されていなかったかもしれない種類に属するものとして、見ることができる。経験したことは新しい仕方で想起され、その当時には考えられていたはずのない語によって考えられるようになる。経験は再記述されるだけではない。経験は再び感じ取られるのである」[130]
・人間の制作
いくつかの相互作用する種類とたいていの無反応の種類との間には、評価に関わるか否かという相違点がある。社会科学に出てくる種類の多くは逸脱の種類であり、価値を背負った種類、道徳的な区分を提示することが多い。このことから、社会科学的な分類が、われわれの個人的価値に関するわれわれ自身の評価、つまり、われわれが属する道徳的な人間の種類に関するわれわれ自身の評価を分類が変える、と言える。この意味で、相互作用する種類は「人間の制作」に関わる。
なぜこの種類なのか
「児童虐待」を取りあげる理由は何か。「児童虐待」は、際立って特殊で、最新で、人間の行動の種類としての「児童虐待」とその相関である「児童を虐待する加害者」「虐待された子ども」を含む混み入った概念である。この事例を選択するのは次の理由による[132]。
①児童虐待は変化や概念的な転換を繰り返してきた、最新の生き生きとした種類であるため。
②児童虐待は分類として選択されることが、法律や民生委員の業務、家族の管理や子どもの生活、人びとの行為、過去、その表象の仕方に影響を与えてきた「有意な」種類であるため。
③児童虐待が科学的概念として提出され、今なお科学的概念として使用されているため。
④児童虐待の観念が無垢な子どもを害するという観念として強い意味で道徳に関わっているため。
新しい有意な種類の発展過程のスケッチ
新しい有意な種類として、児童虐待はどのように発展してきたか。
( i ) 残虐行為:「児童虐待」(1960s)はそれ以前からあった「子どもへの残虐行為」の単なる別名ではない。前者は、社会階級の問題と分離され、危険という語彙と結びつき、医学的問題として処理され、性的問題と関連づけられてきた。
( ii ) 性:児童虐待の概念は性的虐待と結びつき再形成・拡張された。それは、60年代に周縁的なものとされていた性の問題の顕在化の動きと連動している。
( iii ) 解放:児童虐待の問題の発見は、不名誉な経験の告白など、以上なまでの解放をもたらした。告白、告発(フェミニストの運動に起源をもつ)とキリスト教的象徴的表現形式との強力関係が見られる。児童虐待と近親相姦が関連づけられたことで、児童虐待は多くの種類のさまざまな行為をだんだんとカバーするまでに拡張してきたある種類の行為である。
( iv ) 計算:児童虐待の統計学的な把捉。対象の理論依存性
( v ) 輸出:児童虐待の印象的な随伴現象としての、他の国への布教的要素(ex. 国際的な反児童虐待運動)
( vi ) 客観性:児童虐待の「科学的」証拠として合意される基準の欠如。客観性の性的児童虐待の領域への導入(ex. 安全地命令、肛門拡張検査)。
( vii ) 形象的要素:新しい種類が有意な種類として選択される方法はしばしば、「発話のフィギュア」と呼ばれる比喩的表現を含む。児童虐待は、性的、身体暴力的、心理的という小区分を持ち、ある一種類の行動だけを選出するのでなく、多くのさまざまな種類を結集するメタファとして役立った。児童虐待をはじめ、どのラベルが定着するかは、ラベルに内在する価値によるのでなく、利害関心からそのラベルを支持しようとする関心集団のネットワークによっている。また、換喩により、他の発話のフィギュアが、有意なものとして選出された新しい種類として働き始める(ex. 近親相姦)。
( viii ) 線引き:子どもに対する性的害悪のすべてが児童虐待と見なされたわけではなく、そこでは線引きがなされている。例えば、子どものポルノグラフィーは、アメリカの自画像である家族の危機の一部と見なされ悪質なタイプの児童虐待と見なされるが、児童買春、家族の外側での子どもや青少年の有害な性行為は児童虐待の典型には含まれない。
過去の世界に新しい種類の発展は何をなしたか
上でスケッチした新しい有意な種類の発展は、われわれの世界に対して何をもたらしているのか。まず、過去の世界に対して、その発展が何を行ったのかを検討する[155]。
児童虐待のような新たな概念枠は歴史を書き変えるときに使われるだろう。では、児童虐待の観念は、われわれの現在の悪行のレパートリーについての観念をほとんど持たなかった過去を再記述するなかで、どの程度まで使用することができるのか。児童虐待の観念は因果関係についての、そして道徳についての現代の推測の網にとらわれているために、遠く離れた過去の出来事を無分別に記述するときにこの観念を用いることは意味をなさない[157]。ハッキングは、カルタゴ人が組織的に「児童虐待」をなしていたと言えるか、と問い、2つの歴史的枠組によって検討する。子どもに関する2つの相対する意見についての古典的言明はその枠組を提示する。
(a)「われわれ自身について、人間であることについての概念が変化する」
(b)「人間という種の本性において、人間は児童虐待する種類である」
(a)の枠組では、問題となっている過去のある時点には、子どもの観念の多くが存在せず、虐待の観念についてもほとんど何もなかったため、現在の意味で子どもに危害を加えていたということはなく、それは概念上不可能なものと言える。(b)の枠組では、児童虐待は人間にとって普遍的で、すべての時代のすべての人間にあてはまるものとして説明される。
しかし、ハッキングは、過去についての記述がより重大な問題となるものとして、われわれ自身についての現在の見方に大きな影響を及ぼす歴史上の人物(ex. フロイト)への個人的告発を例をあげる。そこで、ある歴史的時点(ex.1900年頃のウィーン)において多くの児童虐待があったが、その分類、すなわち現在の“われわれの”分類(ex. 人間の種類であり科学的種類でもある児童虐待)はいまだ存在していなかった、と主張する[160]。
新しい世界
「児童虐待」という種類は、これまでとは異なる世界を作り出してきた—児童虐待についての教育の普及、テレビや映画での普及、虐殺者の支援と告白のためのグループの存在、被害者が助け合う運動、都市計画etc.—。児童虐待という種類の進化には、ループ効果を観察することができる。それはラベリング理論に沿った思考をわれわれに促す。つまり、「人びとは、そのようにラベルを貼られることにより、自分を児童虐待者として見なすようになる」というように。しかし、ハッキングはここで、ループ効果よりも遥かに難しい「自己知」の概念を、児童虐待という種類の発展に適用する[161]。
《新しい種類は世界にどのように影響を与えるか—自己知—》
児童虐待という新しい種類が作られることで何が起ったのか。何万人もの女性が自分が性的虐待を受けた経験があると見なすようになった。このような過去の経験に対する新しい種類の適用をめぐりいくつかの解釈がありうる。ここで2つの極端な選択肢をあげることができる[161]。
(A)われわれの意識が、ある出来事を児童虐待であると見ることができるまで今や
高められたとしても、その出来事は常に児童虐待である—たとえ、その出来事
が起きた当時にはそのような意図や虐待されたという経験がなかったとしても。
(B)同じような行為を今繰り返したならば悪いということになるだろうが、その当時
はその出来事は悪事ではなかった。
どちらが正しいかは、普及率の問題に関わるが、より重要なことは、個々人が今や、個人的リアリティの問題に対処しなければならないということである[162]。
そこで、ハッキングは、自分が性的虐待を受けていたと見なすようになっている女性に何が起きているのかを問う。それに対するハッキングの解答は、恐ろしい私的な秘密を隠していた女性たちがそれを話すことができるようになり、解放感を味わっているというものでも、意識の表面にそれが再び浮上してきて重圧を感じているというものでもない。そのように分類されることで女性たちは、「新しい世界に入る」、つまり、「その人がまったく知らなかった仕方でその人自身がその中で形作られるような世界に入る」というものである[ibid.]。
すなわち、分類されることで女性たちは新しい概念を獲得し、その概念の観点から自らを理解し、過去の経験を再分類し、経験し直す。それは意識の高まりにより、過去の経験を解釈し直すことではなく、意識自体の変化により行われる。新しい有意な種類・分類は、分類される人びとに、彼らの意識や観点自体を作り直し、過去を再び経験し直すことを可能にする*。ハッキングによると、これは、世界が種類により構成されているというグッドマンの格言の最も強力で興味を引く適用として提示される。
********
〔メモ〕2つの選択肢とハッキングの主張について
(A)認識や意識の仕方はどうあれ、存在の仕方は決まっているという意味で実在論的
(B)(A)に対抗する選択肢として提示されるが、構成主義的な見解に近い
...児童虐待についての現在の認識を起点に、過去の出来事について主張する?
←「同じ」ような行為として児童虐待が同定される可能性を示唆するため
これに対して、ハッキング—グッドマンの主張は、現在の認識、観点自体の形成を指示する。それにより、また、過去の出来事が「その人がまったく知らなかった仕方で」(因果的に)関連づけられることを示唆する。
本章では児童虐待を例として、その実在と社会的構成を同時に主張することこれまで述べてきた、さまざまなタイプの要素が絡まり合ったマトリクスのなかで観念が形成されるという話に実質的な意味を与えることが目指される[127]。
有意な種類
ハッキングは「種類の制作」の発想をグッドマンの世界制作の議論に負っている。グッドマンは「帰納法の新しい謎」で、個別事例に関する証拠を基礎に何らかの一般的な結論に到達する際、われわれが同じ推論のルールを用いながら、しかし、別の分類を用いて反対の結論に達することが可能であることを示した[128]。そこで、有意な種類の選択と編成について次のように述べた。
「進化する伝統に影響を受けながら有意な(レリバントな)種類を編成し選び出すことがなければ、種類の編成が正しいとか間違っているとか、帰納推理が妥当であるとかないとか、サンプリングが公平であるとかないとか、サンプルに斉一性があるとかないとか、そういったことは成り立たない」(Goodman 1978:138-9)[129]。
選択と編成は、コミュニティの中で分類が前もって作られ、普及されていることを推論の前提とするために社会的構成の概念と近似的である。そして、グッドマンによるなら、種類の編成は世界をも決定する。しかし、ハッキングが以下でしようとすることは、グッドマンが「実践との合致」「進化する伝統による影響」を指摘しつつも論じなかった実践や進化の具体的な相について「児童虐待」を例にその複雑な過程を論じることとともに、種類を制作することにより世界を制作するというグッドマンの見解を、種類の制作の帰結として過去の経験が(再記述ではなく)作り直されることを示すために適用することである。
「もし新しい種類が選択されたなら、過去も新しい世界の中に現れることができる、とグッドマンなら言っただろう。過去の人生の出来事もいまや新しい種類に属する出来事として、つまりその出来事が経験されたり、その行為が遂行されたりした時には概念化されていなかったかもしれない種類に属するものとして、見ることができる。経験したことは新しい仕方で想起され、その当時には考えられていたはずのない語によって考えられるようになる。経験は再記述されるだけではない。経験は再び感じ取られるのである」[130]
・人間の制作
いくつかの相互作用する種類とたいていの無反応の種類との間には、評価に関わるか否かという相違点がある。社会科学に出てくる種類の多くは逸脱の種類であり、価値を背負った種類、道徳的な区分を提示することが多い。このことから、社会科学的な分類が、われわれの個人的価値に関するわれわれ自身の評価、つまり、われわれが属する道徳的な人間の種類に関するわれわれ自身の評価を分類が変える、と言える。この意味で、相互作用する種類は「人間の制作」に関わる。
なぜこの種類なのか
「児童虐待」を取りあげる理由は何か。「児童虐待」は、際立って特殊で、最新で、人間の行動の種類としての「児童虐待」とその相関である「児童を虐待する加害者」「虐待された子ども」を含む混み入った概念である。この事例を選択するのは次の理由による[132]。
①児童虐待は変化や概念的な転換を繰り返してきた、最新の生き生きとした種類であるため。
②児童虐待は分類として選択されることが、法律や民生委員の業務、家族の管理や子どもの生活、人びとの行為、過去、その表象の仕方に影響を与えてきた「有意な」種類であるため。
③児童虐待が科学的概念として提出され、今なお科学的概念として使用されているため。
④児童虐待の観念が無垢な子どもを害するという観念として強い意味で道徳に関わっているため。
新しい有意な種類の発展過程のスケッチ
新しい有意な種類として、児童虐待はどのように発展してきたか。
( i ) 残虐行為:「児童虐待」(1960s)はそれ以前からあった「子どもへの残虐行為」の単なる別名ではない。前者は、社会階級の問題と分離され、危険という語彙と結びつき、医学的問題として処理され、性的問題と関連づけられてきた。
( ii ) 性:児童虐待の概念は性的虐待と結びつき再形成・拡張された。それは、60年代に周縁的なものとされていた性の問題の顕在化の動きと連動している。
( iii ) 解放:児童虐待の問題の発見は、不名誉な経験の告白など、以上なまでの解放をもたらした。告白、告発(フェミニストの運動に起源をもつ)とキリスト教的象徴的表現形式との強力関係が見られる。児童虐待と近親相姦が関連づけられたことで、児童虐待は多くの種類のさまざまな行為をだんだんとカバーするまでに拡張してきたある種類の行為である。
( iv ) 計算:児童虐待の統計学的な把捉。対象の理論依存性
( v ) 輸出:児童虐待の印象的な随伴現象としての、他の国への布教的要素(ex. 国際的な反児童虐待運動)
( vi ) 客観性:児童虐待の「科学的」証拠として合意される基準の欠如。客観性の性的児童虐待の領域への導入(ex. 安全地命令、肛門拡張検査)。
( vii ) 形象的要素:新しい種類が有意な種類として選択される方法はしばしば、「発話のフィギュア」と呼ばれる比喩的表現を含む。児童虐待は、性的、身体暴力的、心理的という小区分を持ち、ある一種類の行動だけを選出するのでなく、多くのさまざまな種類を結集するメタファとして役立った。児童虐待をはじめ、どのラベルが定着するかは、ラベルに内在する価値によるのでなく、利害関心からそのラベルを支持しようとする関心集団のネットワークによっている。また、換喩により、他の発話のフィギュアが、有意なものとして選出された新しい種類として働き始める(ex. 近親相姦)。
( viii ) 線引き:子どもに対する性的害悪のすべてが児童虐待と見なされたわけではなく、そこでは線引きがなされている。例えば、子どものポルノグラフィーは、アメリカの自画像である家族の危機の一部と見なされ悪質なタイプの児童虐待と見なされるが、児童買春、家族の外側での子どもや青少年の有害な性行為は児童虐待の典型には含まれない。
過去の世界に新しい種類の発展は何をなしたか
上でスケッチした新しい有意な種類の発展は、われわれの世界に対して何をもたらしているのか。まず、過去の世界に対して、その発展が何を行ったのかを検討する[155]。
児童虐待のような新たな概念枠は歴史を書き変えるときに使われるだろう。では、児童虐待の観念は、われわれの現在の悪行のレパートリーについての観念をほとんど持たなかった過去を再記述するなかで、どの程度まで使用することができるのか。児童虐待の観念は因果関係についての、そして道徳についての現代の推測の網にとらわれているために、遠く離れた過去の出来事を無分別に記述するときにこの観念を用いることは意味をなさない[157]。ハッキングは、カルタゴ人が組織的に「児童虐待」をなしていたと言えるか、と問い、2つの歴史的枠組によって検討する。子どもに関する2つの相対する意見についての古典的言明はその枠組を提示する。
(a)「われわれ自身について、人間であることについての概念が変化する」
(b)「人間という種の本性において、人間は児童虐待する種類である」
(a)の枠組では、問題となっている過去のある時点には、子どもの観念の多くが存在せず、虐待の観念についてもほとんど何もなかったため、現在の意味で子どもに危害を加えていたということはなく、それは概念上不可能なものと言える。(b)の枠組では、児童虐待は人間にとって普遍的で、すべての時代のすべての人間にあてはまるものとして説明される。
しかし、ハッキングは、過去についての記述がより重大な問題となるものとして、われわれ自身についての現在の見方に大きな影響を及ぼす歴史上の人物(ex. フロイト)への個人的告発を例をあげる。そこで、ある歴史的時点(ex.1900年頃のウィーン)において多くの児童虐待があったが、その分類、すなわち現在の“われわれの”分類(ex. 人間の種類であり科学的種類でもある児童虐待)はいまだ存在していなかった、と主張する[160]。
新しい世界
「児童虐待」という種類は、これまでとは異なる世界を作り出してきた—児童虐待についての教育の普及、テレビや映画での普及、虐殺者の支援と告白のためのグループの存在、被害者が助け合う運動、都市計画etc.—。児童虐待という種類の進化には、ループ効果を観察することができる。それはラベリング理論に沿った思考をわれわれに促す。つまり、「人びとは、そのようにラベルを貼られることにより、自分を児童虐待者として見なすようになる」というように。しかし、ハッキングはここで、ループ効果よりも遥かに難しい「自己知」の概念を、児童虐待という種類の発展に適用する[161]。
《新しい種類は世界にどのように影響を与えるか—自己知—》
児童虐待という新しい種類が作られることで何が起ったのか。何万人もの女性が自分が性的虐待を受けた経験があると見なすようになった。このような過去の経験に対する新しい種類の適用をめぐりいくつかの解釈がありうる。ここで2つの極端な選択肢をあげることができる[161]。
(A)われわれの意識が、ある出来事を児童虐待であると見ることができるまで今や
高められたとしても、その出来事は常に児童虐待である—たとえ、その出来事
が起きた当時にはそのような意図や虐待されたという経験がなかったとしても。
(B)同じような行為を今繰り返したならば悪いということになるだろうが、その当時
はその出来事は悪事ではなかった。
どちらが正しいかは、普及率の問題に関わるが、より重要なことは、個々人が今や、個人的リアリティの問題に対処しなければならないということである[162]。
そこで、ハッキングは、自分が性的虐待を受けていたと見なすようになっている女性に何が起きているのかを問う。それに対するハッキングの解答は、恐ろしい私的な秘密を隠していた女性たちがそれを話すことができるようになり、解放感を味わっているというものでも、意識の表面にそれが再び浮上してきて重圧を感じているというものでもない。そのように分類されることで女性たちは、「新しい世界に入る」、つまり、「その人がまったく知らなかった仕方でその人自身がその中で形作られるような世界に入る」というものである[ibid.]。
すなわち、分類されることで女性たちは新しい概念を獲得し、その概念の観点から自らを理解し、過去の経験を再分類し、経験し直す。それは意識の高まりにより、過去の経験を解釈し直すことではなく、意識自体の変化により行われる。新しい有意な種類・分類は、分類される人びとに、彼らの意識や観点自体を作り直し、過去を再び経験し直すことを可能にする*。ハッキングによると、これは、世界が種類により構成されているというグッドマンの格言の最も強力で興味を引く適用として提示される。
********
〔メモ〕2つの選択肢とハッキングの主張について
(A)認識や意識の仕方はどうあれ、存在の仕方は決まっているという意味で実在論的
(B)(A)に対抗する選択肢として提示されるが、構成主義的な見解に近い
...児童虐待についての現在の認識を起点に、過去の出来事について主張する?
←「同じ」ような行為として児童虐待が同定される可能性を示唆するため
これに対して、ハッキング—グッドマンの主張は、現在の認識、観点自体の形成を指示する。それにより、また、過去の出来事が「その人がまったく知らなかった仕方で」(因果的に)関連づけられることを示唆する。