中村教授だと思っていたが、たまたま今朝の日刊工業新聞

のコラムに赤崎勇教授の著書の話題が出ていて急ぎ検索。

こんな日記を見つけたので抜粋して転載。

LEDの信号機設置は名古屋が最初だそうです。しかし、色々

政治的な動き、制約もあって、東京都などの普及の速度は

この時点では今いちとか。その後はどうなのだろうか?


CHASUKEの部屋にようこそ

http://www.geocities.jp/chasukechan/

-日記帳(N0.1623)2006年05月27日-

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青色LEDは、中村修二・米UCSB教授と彼がかって勤務し

青色LEDを実用化した日亜化学がある徳島が発祥地とばかり

思っておりました。ところが、窒化ガリウム(GaN)の結晶化に

関する技術を開発し世界初の高輝度青色LED実現したのは

赤崎勇名城大教授であり、青色LEDに関する限りその発祥地

は徳島でなく名古屋であることが判った。

赤崎勇名城大教授は、名大との関係が深く1952年に京大

理学部化学科を卒業後、富士通(当時は神戸工業)に就職

したものの退職して1959年に名大助手となり助教授になった

のに何故か再び民間の松下電器に途中入社して同社東京

研究所基礎研究室長を勤め、また再び1981年に名大に戻り

1992年まで同大学で半導体工学、LEDの研究開発を教授と

して担当した後、現在、名城大学特任教授、名古屋大学

特別教授として研究開発を継続するという変わった経歴を

持つ異色の研究者でもあります。

このことは、中村修二・米UCSB教授が1992年に武田賞を

赤崎勇名城大教授、天野浩城大教授とともに受賞された折の

記念講演の中で、「・・・私が(GaN系LEDを)始めたのは1989年

です。赤崎先生や天野先生はもう昔からやられておられる。

赤崎先生は70年代からされていますし、天野先生は80年代の

最初からやっている。で、私は新入りです。・・・」と述べていること

からも学会でも認知されている公然の事実と考えていいようです。

しかし、2001年8月、中村教授は日亜化学在職中に会社名義で

取得した、窒化物半導体結晶膜の成長方法に関する特許を

自分に帰属することとそれが認められない場合は譲渡対価を

求める訴訟を東京地裁に起こしました。被告の日亜化学は

この特許は現在は利用されない無効特許として争い、2002年

9月の一審の中間判決で特許は被告会社に帰属すべきとの

判決がなされ、その後2003年1月30日、発明の譲渡対価について

被告会社に対し約200億円の支払いを命じる判決がなされました。

一方、トヨタ自動車の系列会社の豊田合成は当時、名大在職中

の赤崎教授の指導を受けてGaN系の青色LEDを製造販売した

ところ、1998年6月に日亜化学が同社特許に抵触するとして

東京地裁に提訴し、両社間で激しい特許紛争が6年以上に

渡って続きましたが、2002年9月に両社は青色LEDに代表される

III族窒化物半導体の技術に関してお互いに差し止め請求や

損害賠償請求をしないこと、お互いに保有する特許に関して

損害賠償金の支払い義務や自社製品の製造・販売の中止義務

を負わないことでお互いに共栄共存を図ることを骨子とした

前向きの和解を成立させております。

----ここまで引用