(明治時代)日本の超能力者

 

(神から勝手に聞かされた話)

 

過去に起きたスピリチュアル事件が今回も関係する。

 

長南年恵(おさなみとしえ)

高橋 貞子(たかはし さだこ)

御船 千鶴子(みふね ちづこ)

長尾 郁子(ながお いくこ)

 

長南年恵、成人してからも肉体的、精神的に少女のようであったという。

 

・高橋 貞子『リング』シリーズに登場する架空の人物・山村貞子の名の由来[4]、または山村貞子のモデルとの説もある[1][5]。

 

・千鶴子・郁子に至っては、死してなお実家が批判にさらされる始末であった。

 

 

→「上野千鶴子は御船千鶴子の生まれ変わり。フェミニズムの追求で男嫌いになる。長尾郁子の生まれ変わりにお前は出会っていたよ。そのように神は使う。」

 

 

→実際にあったことが映画化されている神関係の映画「エミリーローズ」「リング貞子」など。

ここまでされて生まれ変わりがあるのは何故ですか?

 

***

 

20150503 山形新聞 より

 

 

 

*長南年恵(おさなみとしえ)

1863126日(文久31026日)、1907年(明治40年)1029日)死亡。

羽前国庄内高畑(現在の山形県鶴岡市日吉町[2])に、庄内藩士の長女として生まれる。20歳のころまでの経歴は不詳だが、1874年(明治7年)に鶴岡に小学校が開校した際には入学出来ず、子守奉公をしていたところ、次第に予言めいた言葉を口走る様になり、噂を聞きつけた住民の相談に乗るうち、奉公先から巫女として開業することを薦められたという説がある[2]。弟の長南雄吉は、大阪浦江にあった大日本蓄電池株式会社の専務取締役で、雄吉が見た年恵の20歳以後の超常現象などの記録を、後年、心霊研究家の浅野和三郎がまとめて発表している[3]。

 

成人してからも肉体的、精神的に少女のようであったという。また身辺には頻繁に神仏が現れ、会話をしたり、舞を舞っていた。

 

#トリック #現人神 #実在した生き神様 

#不食 #公開実験

 

 

*御船 千鶴子(みふね ちづこ)

1886年(明治19年)717 - 1911年(明治44年)119日)は、透視能力を持つ超能力者として福来友吉博士に紹介された日本の女性。

 

繊細な感受性と豊かな情緒性を持っていたと言われる。また、観音菩薩を篤く信仰していたが、悲観的な感情にとらわれる面もあったという。

 

千鶴子の透視能力を確信した福来は、この実験結果を心理学会で発表した[1]。これにより、「透視」という言葉が新聞で大きく取り上げられ、真贋論争を含め大きな話題となった。千鶴子のもとには透視の依頼が殺到したほか、長尾郁子をはじめとした「千里眼」の持ち主を名乗る人々が続々と現れた。

 

そんな中、長尾郁子の念写を非難する記事を見て失望と怒りを感じた千鶴子は、清原に「どこまで研究しても駄目です」と言い放ったとされ[1]、1911年(明治44年)118日には重クロム酸カリで服毒自殺を図り、翌日未明に24歳で死亡した。

 

 

*長尾 郁子(ながお いくこ)

1871年[1] - 1911226日[2])は、透視能力と念写能力を持つ超能力者として福来友吉に紹介された日本の女性である。千里眼事件として報じられた人物の一人。

観音信仰が篤く、御船千鶴子に関する報道に刺激されて精神統一して修練を積み、透視ができるようになったという。

長尾郁子の超能力を疑う学者の中から一方的に「透視と念写は全くの詐欺である」旨の見解を報道陣に発表した。

これにより、長尾郁子側は以後の実験を全く拒否し、2ヶ月後に急性肺炎で急逝した[4]。

 

 

*千里眼事件(せんりがんじけん)は、明治末(1900年代から1910年代初頭まで)の日本で、当時の社会状況・学術状況を背景として起きた、超心理学に関する公開実験や真偽論争などの一連の騒動である。千里眼・念写の能力を持つと称する御船千鶴子や長尾郁子らが、東京帝国大学の福来友吉や京都帝国大学の今村新吉らの一部の学者とともに巻き起こした。

研究者達は「千里眼は科学に非(あら)ず」という見解を公表した。この一方的な終結宣言によって事件は、幕引きを迎えることとなった。

千鶴子が脚光を浴びた後に日本各地に出現した「千里眼」能力者たちも、手品・ペテン師であるというレッテルを貼られ、一転して世の非難の的となった。千鶴子・郁子に至っては、死してなお実家が批判にさらされる始末であった。

 

 

*高橋 貞子(たかはし さだこ)

1886年〈明治19年〉[2][3][* 1] - ?)は、日本の明治時代から大正時代にかけての人物。岡山県和気郡和気町出身[2]。超心理学者である福来友吉に、透視・念写能力を持つ超能力者として協力し、超能力実験の被験者となった人物である。

 

『リング』シリーズに登場する架空の人物・山村貞子の名の由来[4]、または山村貞子のモデルとの説もある[1][5]。明治末期に超能力者とされた御船千鶴子、長尾郁子らと並んで紹介されることも多いが、2人と比較すると生涯についての資料に乏しく、謎が多い[6]。

 

幼少時より無口で、静かな場所でもの思いにふけることを好んだ[8]。他人に対しては不愛想である一方で、困っている人には手を差し伸べずにはいられない、同情心の深い性格であった[7][9]。感受性が強く、気持ちの起伏によって吐血、発熱、痙攣といった生理的な変調をきたす一面もあった[8]。また、父が日蓮宗の熱心な信者だった影響で、貞子もまた日蓮宗への篤い信仰心を抱いていた[8]。

 

貞子の夫・高橋宮二は超心理学の専門家ではなかったが、独自に精神修養のための呼吸法を研究しており、貞子も彼に倣ってこれを実践しているうちに、精神統一の方法を学んだ。宮二はこれを通じ、貞子に霊的能力があると感じたという[8]。

 

宮二が貞子の能力に気づいたのは、奇しくも長尾郁子の初の念写実験が行われた1910年(明治43年)1112日とされ、夫妻は当時、東京府豊多摩郡千駄ヶ谷町(現・東京都渋谷区千駄ヶ谷)で生活していた。福来の著書『透視と念写』によれば同日、貞子は宮二に、自分の手にした火箸がひとりでに火鉢の上を動いて「清」の字を記したと告げた。宮二はウィジャボードを試したところ、「貞子は清原千鶴子(御船千鶴子のこと、清原は千鶴子の義兄の姓)のように千里先を見通す」と出た。これにより宮二は貞子に透視実験の提案をした[10]。同月より、字を書いた紙や物を箱に入れて透視するという方法で、20回以上にわたって実験が行われた。この経緯は福来の『透視と念写』にまとめられており、貞子はことごとく透視を成功させたとある[8][11]。

 

貞子は精神統一の後、あたかも別の人格が宿ったかのような言動で透視や念写を行った。これが御船千鶴子や長尾郁子と異なる大きな特徴であり[1][12]、福来はこの別人格を「霊格」と呼んだ[13]。

 

1913年(大正2年)32日の最初の実験では、高橋宅の近くの医師の家で、久保良英、後藤牧太、桑田芳蔵、今村力三郎らの同席のもと、福来が持参して隠し持っていた写真乾板に念写を行うことが試みられた[14][15]。しかし、福来は12枚の大きな乾板を用意したにも関わらず、貞子は「昨夜の夢で乾板が5枚と知っている」「5枚の小さな乾板」と、違うことを言った[15][16]。念写の結果も、福来の乾板へは成功せず、すでに医師宅にあった別の乾板に感光していた[15]。福来は、貞子の能力は福来の方ではなく、その医師宅の乾板の方へ向かったものとも解釈したが[16]、この実験に学術的価値はないと認めざるを得ず[17][18]、第1回実験は失敗と見なされた[19][20]。

 

翌月の427日には第2回実験が、福来の自宅で行われた[19][21]。福来は新品の乾板12枚から3枚を抜き出し、紙で何重にも包み、さらにボール箱に入れて封をして用意し、信頼のおける書生に監視させておいた[18][22]。夜6時頃に貞子が福来宅を訪れ、「妙法」の2字を念写する旨を告げた[22]。夜8時半頃より、久保と高橋穣(心理学者)が立ち会いのもとで、実験が始められた[18][23]。この結果、3枚の乾板の内の1枚に「妙法」の2字が感光していた[23][24]。

 

510日には、第3回実験が行われた[25]。貞子はこの3日前に頭痛を患い、福来より催眠術による治療を受けており、その催眠状態において「次の実験では『天』の字と自分の指3本を念写する」と告げていた[25][26]。実験当日、福来は前回同様に、新品の乾板を包装した上に封をして用意しており、久保、後藤、桑田、井上哲次郎、筧克彦が立ち会った[26]。この実験では、貞子が前もって告げていた「天」の1字と自分の指3本の他、「金」の字や、丸い形、サンゴ礁、小さな丸い点の感光が確認された[27][28]。福来が貞子に、前もって宣言した内容以外の感光内容について尋ねると、貞子はその記憶はまったくないとのことであった[28]。福来は、長尾郁子の実験でも同様のことがあったため、貞子の潜在観念が念写に現れたものと解釈した[28]。

 

福来はこれらの実験結果をもって、貞子の透視や念写能力を事実と確信するに至った[29][30]。宮二は福来を深く信頼し、貞子を学会研究のために献上することを宣言した[28][31]。

 

これらの貞子の実験結果は、福来により御船千鶴子、長尾郁子の実験結果と前述の彼の著書『透視と念写』(1913年)として出版されたが、逆にこれは「迷信を増長させる」として、多くの学者たちの反発と批判を招いた。福来はさらに貞子の実験に立ち会う学者を求めたものの、これ以降、学者陣は福来に関心を示すことはなくなった[32]。かつて福来の超能力実験に懐疑的だった物理学者の山川健次郎らへの再挑戦として、公の場で貞子の超能力実験を行うことも試みられたが、立ち会う者は皆無であり、この試みも失敗に終わった[33][34]。

 

やがて福来が休職命令を受けると、貞子たちは自分たちの実験が福来に害をおよぼしたとして責任を感じ、福来への詫びのけじめとして夫妻ともども東京を去り、1915年(大正4年)に、郷里の岡山へ転居した[12][32]。こうして貞子は公の場で能力を披露することのないまま、念写実験を終えることとなった。

 

宮二によれば、岡山での貞子は心霊治療を行っており、周囲から熱心な支持が得られ、希望があれば渡航して治療していたとされる[35]。こうした治療行為は、1925年(大正14年)まで続けられていた[7]。宮二が1933年(昭和8年)に出版した『千里眼問題の真相』によれば、貞子は同1933年頃まで岡山にいたことが記録されているが、その後の記録は未確認であり、晩年の様子や没年も定かではない[36]。

 

 

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0.

自分の手にした火箸がひとりでに火鉢の上を動いて「清」の字を記したと告げた。

 

1.

福来は12枚の大きな乾板を用意したにも関わらず、貞子は「昨夜の夢で乾板が5枚と知っている」「5枚の小さな乾板」と、違うことを言った[15][16]。念写の結果も、福来の乾板へは成功せず、すでに医師宅にあった別の乾板に感光していた[15]。

1回実験は失敗と見なされた[19][20]。

 

2.

福来は新品の乾板12枚から3枚を抜き出し、3枚の乾板の内の1枚に「妙法」の2字が感光していた[23][24]。

 

3.

「天」の1字と自分の指3本の他、「金」の字や、丸い形、サンゴ礁、小さな丸い点の感光が確認された[27][28]。6

 

 

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12 3 5 

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