class="article-body"> 小林秀雄と山城むつみ氏がともに重視しているのが、セミョーノフ練兵場におけるドストエフスキー自身の疑似死刑体験である。小林氏はドストエフスキーに成り代わってそのことを書き記している。
私のような経験をしてきたものの眼には、〔死に臨んだ〕「ある一点」から逆に歩いたことのある男の眼には、不幸なことだが、人生には荒唐無稽なことしか起こってはいないのだ。 (小林秀雄「「白痴」についてⅡ」p-204)
山城氏は同じ個所について次のように記している。
ある日、突然の赦免によって「ある一点」から「生」に向かって歩くことを命じられ、歩き始めたその逆方向の「生」から振り返ってみたとすれば、どうか。…「ある一点」は、小林に「死」ではなく、もはや逆向きに、したがって「荒唐無稽」なものとしてであるが、「生」を強いるようになったということだ。(山城むつみ『小林秀雄とその戦争の時』197)
もし『白痴』の中でムイシュキンが語る死刑囚のような体験をしたような人がいたとしても、そのことで直ちに「生」が「荒唐無稽」なものとして立ち現れるものだろうか。荒唐無稽なものとして現れる人生とは、はじめから荒唐無稽だった人生だけである。実際の人生には、もちろん荒唐無稽なことも、そうでないこともころがっている。一見重要に思われたことが荒唐無稽なことに一変したり、その逆の反転も起こるかもしれないが、決してすべてが荒唐無稽になりはしない。
さまざまの経験によって人生観が変わることもときにはあるだろうが、どんな一見些細な経験でも、その意味では人生観を変えたり変えなかったりするものである。自分の死に隣接する経験だけが、何か特に大きな真実を啓示するものであるはずがない。
これらはおおむね、「死への先駆的覚悟」が「本来的実存」の有り方を啓示するという、ハイデガーばりのはったりにすぎない。「死」などを議論に持ち出すことで思考停止をうながす恫喝を狙っているのかもしれないが、そんなことでおろおろするのは未熟な連中だけである。死を覚悟した深刻ぶった顔が、人生について深淵な洞察に至るという必然性もない。
山城氏は、特に「白痴についてⅡ」に見られる小林秀雄のこのような見方に、小林以上の力点を置く。山城氏の論点で面白いのは、小林秀雄の『白痴』論が、小林自身の中国戦線での体験と重ねられて理解されているところだ。山城氏は、小林の従軍記事を丁寧に掘り起こし、その体験が、その時期の小林のドストエフスキー論にどのような影響を及ぼしているかを、丁寧に跡付けていく。
南京大虐殺のすぐ後に取材で当地を訪れていた小林は、そこで「戦地」と「内地」に空気の違いに気づいて戸惑っている。「戦地」では「慰安所」も「略奪」も日常茶飯事のように行われるが、それは「内地」の感覚では理解できない。内地での掟や秩序の裂け目から、とてつもないリアルなものが現れていると感じられるのである。
「戦地」という非日常では、たまたま殺す立場に立つか、殺さずに済むかは、ほんのちょっとした偶然によって決まる。この戦争体験が小林秀雄のドストエフスキー論に色濃く反映していると、山城氏は強く主張する。
〔『カラマーゾフの兄弟』において、ミーチャが父を殺そうとした瞬間について、小林秀雄は書いている。〕ドストエフスキーは「『神様があのとき僕を守って下すったんだろう』と後になってからミイチャは自分で言った」とはっきり書いている…殺すも殺さぬも物のはずみであった。…
重要なのはミーチャの実際の行動ではなく、「魂の問題」だと小林は言うのだ。それに強く同調しながら山城氏も次のように記している。
ミーチャは殺さなかった。ラスコリニコフは殺した。だが、「殺すも殺さぬも物のはずみであった」のだ。柄谷行人が「事変」下の小林秀雄を「関係の絶対性」(吉本隆明)に結びつけて記していたように、善であれ悪であれ、或る瞬間において「何かをやり、あるいは何かをやらないということはまったく等価である」(「心理を超えたものの影」)。
(同p-100~101)
山城氏によれば、ドストエフスキーの主人公たちの内面に介入するどうしようもない「歴史の必然性」が、ある人を殺すことへ、他の人をたまたま殺さないことへと決定した運命のようなものを、戦争経験を介して小林があらためて実感することとなった。それが彼のドストエフスキー論に一段と深い陰影を与えているのだ。
私はといえば、このような考えに強い違和感を持つ。
果たして、殺すも殺さぬもまったく等価であろうか?
殺す立場、殺すかもしれなかったが実際には殺さなかった立場から見れば、彼ら自身の内面に即して考えれば、あるいはまったく等価かもしれない。しかし、結果は大違いである。特に殺される側からは、この差は大きい。
この差を捨象することは、結果責任と隣人とを捨象することである。すべてを内面の問題、心情の問題とすることである。
満洲事変を起こした時、関東軍の責任者にもそれなりの理屈はあったのであろう。もちろん、満洲・朝鮮の「権益」と出費を計算して、「小日本主義」を唱えた石橋湛山の慧眼にはとても及ばないものとはいえ、日独伊三国同盟締結を決断した松岡洋介にも、それなりの計算はあった。歴史のその時点で、どちらかの決断が正しいかを「客観的観点」から判断することはできなかった。
松岡の判断は、松岡の視点からのみ正当化できたものであり、石橋の判断がよって立つ視点をそこから理解できたわけではない。石橋の見方は、単にそう見ることができるという単なる可能性の一つなどではなく、それ自体が既に大きな決断の結果なのである。したがって、二つの可能性をともに見通す観点が、決断に先立って存在するわけではない。
ある決断が切り開く可能性があり、その意味で「事前と事後の間には時間の結び目が断たれる瞬間が必ずあり、誰もがその死角を、見る前に跳ぶのだ。」(p-130)という山城氏の指摘は正しい。
しかしだからといって、「何もかも正しかった」ということにはならない。
「何もかも正しかったと彼は考える。何もかも正しかった事が、どうしてこんなに悩ましく苦しいことなのだろうか。」こうラスコリニコフの心事を注釈する小林の言葉は、そのまま敗戦後の小林自身の心事を注釈している。(山城p-130)
ある時点では、善であるとも悪であるとも言えなかったことが、後の時点から遡及して罪であったものとして断罪されるのである。それこそが罪の本質である。したがって、「何もかも正しかった」ことには断じてならない。アダムの罪は神の掟を破ったことにあるのではない、と私が主張したのはその意味であった(「アダムの罪」7月29日参照)。
山城氏は、1946年1月の「コメディ・リテレール」での小林の「放言」に言及している(山城p-130)。
…大事変が終わったときには必ずもしかくかくだったら事変は起こらなかったろう…という議論が起こる。…どうも僕にはそんなお目出度い歴史観は持てないよ。僕は歴史の必然性というものをもっと恐ろしいものと考えている。
このような深淵そうな言葉が、我々の中のいかなる琴線をふるわせがちなのか、よくよく考えてみるべきである。私はかつてヘロドトスの一節について書いたことがある。それを再びここで引用しておこう。
クセルクセスに率いられたペルシアの大軍がまさにギリシア諸都市に襲いかかろうとしたとき、アテナイ人の使者に対してデルフォイの神殿から下された神託は、恐るべきものであった。
…(そなたらの町は)頭も胴体も無事にはすまぬ、足のつま先、また手も胴も余すところなく滅びゆく…(ヘロドトス『歴史』岩波文庫版下巻p-89)
アテナイからの使者たちは、これを聞いてそのまま引き下がったであろうか。否、「神よ、…われらの祖国に関してもっとよいお告げをお授け下さい。さもなくば、我らは社殿を去らず、生命を終わるまでこの場に留まりましょう」といって、神に抗弁したのである。それに対し二度目に与えられたアポロンのお告げは、謎めいたほのめかしに満ち、同じように不吉なものではあったが、前の神託よりはまだしも穏やかであったので、使者はそれを持ち帰ったと記されている。
それをもとにして、英雄テミストクレスがいかなる奇策を弄してアテナイ人を説得したか、住み慣れたポリスを捨てて全市民が艦船に乗船して戦うという、文字通り背水の陣を布く決断に、いかに彼らが雄々しく耐えたか、また当然あり得る恐怖と動揺の波、そのつどそれを切り抜けるテミストクレスの手腕など、手に汗を握るヘロドトスの迫真の記述をここでは省かざるを得ない。しかしとどのつまりは、ギリシア人の決死の情熱は天祐を呼び込むのである。彼らは、宿命に唯々諾々としたがうような無気力な人間ではなかった。
それに対し、ペルシア軍はどうであったか?サラミスの海戦に敗れた後も未だ兵力の上で優勢であったペルシア軍の士気は、プラタイアでの決戦を前に、もはや高くはなかった。決戦前後の宴会で、招かれていた地元の名士テルサンドロスに向かって、ペルシアの一人の貴族が語ったと言われている。
「あなたと私とは食卓をともにし、また一緒に献酒もした縁があるので、記念の意味で私の考えをお話ししておきたいと思う。それによってあなたがこれから起こるべきことをあらかじめ知り、有利な身の振り方をなさることができればよいと願うからだ。あなたはここに食事しているペルシア人たち、また我々が河岸に野営させて残してきた軍勢をご覧であろう。それがしばらくすれば、あなたの眼に映るのはこれら総勢のうち生き残った僅かばかりの人間だけになってしまうのだ。」
そう言うとともにそのペルシア人はさめざめと泣いたという。テルサンドロスはこの言葉に驚いて、
「それならばそのことをマルドニオス〔指揮官〕はじめ彼に次いで要路にあるペルシア人の方々にお話になるべきではないのですか。」
と彼に言うと、ペルシア人が言うには、
「異国の方よ、神意によっておこるべき運命にあることは、人間の手で進路をそらせる方策はない。信ずべきことを口にしても、誰ひとり耳を貸そうとはせぬ。ペルシア人の中にも、今私が申し上げたようなことを認識しているものは決して少なくはない。しかし我々はみな「アナンケ(必然)」の力に金縛りにされ、成り行きに従っているにすぎぬのだ。この世で何が悲しいと言って、自分がいろいろのことを知りながら、無力のためにそれをどうにもできぬことほど悲しいことはない。」(同p-246)
ここにはギリシア人と対照的な形で、ペルシア人の運命感が印象的に描かれている。個々人が巨大な組織や官僚機構の中の歯車としてしか機能せず、どこで決定されたのかもわからないような「決定」がいつの間にか動かしがたい宿命的な「趨勢」となってしまうのであり、みすみすそれが愚かで破滅的と分かっていても、個人ではどうすることもできない――このような宿命的諦観ほど我々になじみ深いものがあろうか。(拙著『哲学史の読み方』p-110)
実際、「事態がこうなってしまった以上は、いかんともしがたい」ということが、何度歴史の節目でつぶやかれたことであろう? 満洲事変が勃発した時点、国際連盟で日本が孤立した時点、ハル・ノートが突き付けられた時点、…どの時点でも、なお多くの現実的な可能性が残っていたのである。それを、アナンケとしか見ないのは、もちろん知的怠惰であるが、それだけではない。
そのような見方が身に着いた習慣になっているのは、官僚機構の「エリート」にとって、そのような見方をした方が、かかる社会では自己保身につながるからにすぎない。蟻の巣においては蟻の一員として振る舞う方が身のためだというわけだ。「歴史の必然性の恐ろしさ」などという、さも大げさなこけをどしは、単に己れの卑小さを覆い隠すイチジクの葉でしかないのだ。かくてついに蟻たちの帝国は瓦解した!
「もし、かくかくだったら…」という非現実話法の仮定は、歴史への問いにとって不可避のものである。それは過去の事実において、何が不可避の本質であり、何がそこにおいて条件づけられた偶然的なものなのか、を分析することである。事象を合理的(概念的)に理解することは、それをかかる構造的可能性の中に見ることである。すべてをただ、なるようにしかならないものと見ることは、概念的(弁証法的)理解の放棄に等しい。(ちなみに、このようなことは、ベルクソンの哲学にその典型を見出す。)
もともと、政治を弁証法的なもの(言論によって多様に語られ得るもの)と見ていなければ、歴史について議論しようというインセンティヴは生まれない。政治を多様な可能性のアートと見るからこそ、したがって多様な意見がそれについて交錯し得る弁証法的なものと見るからこそ、歴史をも様々の可能性の錯綜と見ることができるのである。「歴史の必然」という見方は、弁証法の欠如の現れなのだ。
丁度囲碁で、対戦後の検討会で「有り得た可能性」が検討されるようなものである。それは、「ああすれば、こうなっただろうに…」の複雑な総体からなるが、決して実際の対戦と無関係な可能性が検討されるわけではない(そのような場合、「それも一局の碁」として検討は打ち切られる)。
小林秀雄には、ペルシア人と同じく、政治を可能性のアートと見る視点がなかったのである。(つづく)
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视频: 小林幸子 - もしかして…