センチュリー21土屋商事の

店長をしております

矢部和美と申します♪


私は、『宅地建物取引主任者』

という資格がある事は、

高校生の時に知りました。

実は、母が取得しようと

していました。




母は毎日必死で勉強をしていました。

なぜその資格を取りたいのか

私には分かりませんでした。




ただ残念ながら、、

大分の祖父が病に倒れ、

母が付き添う事になり

タイミングを逸した様でした。




私は元々芝居で食べて行きたいと

本気で思っていました。

高校卒業後、東京で姉と暮らしながら

アルバイトと東京の劇団に通う日々。




そんな時に、交通事故に遭い、

その治療に専念する為、

地元に帰り、高校時代に作った

アマチュア劇団に戻りました。




東京でのアルバイトは

病院の受付でした。

それで興味を持ち医療事務資格を取得、

地元病院の受付で働くことになります。




この場所で、人と接する、

人から話を聞くということを学びます。




そうしてしばらくは自分の劇団と

仕事を両立する形でした。

それでも、芝居関係で身を立てたい

という気持ちが抑えきれず・・・




病院を辞め今度は青山の

舞台屋さんに勤めます。

ここは男所帯の会社で、

いわゆる大道具屋さんです。




イベント、芝居、バレエ等々

舞台のみならず、

イベントブースの設営などを

行なう会社でした。




その会社の社長のサポートとして

仕事をしました。

これが面白かった!

大道具に本格的に目覚めた時期です。





小さな芸能プロダクションの事務所に

間借りをしていましたので、

事務関係は青山で、

倉庫や作業場は足立区。





ここでずっと働きたい!

と思っていましたが、泊り込みで

真夜中に設営するなど

女子の仕事としてはハードでしたので、

同居する母から猛烈な反対に合いました。




かと言って、

母をひとり残して引越しも出来ず

自分の劇団の事もありましたし

東京に住まいを移すことは断念、

こちらも辞めることになりました。





時代は、パソコン普及一歩手前

ワープロ時代。

ワープロを使いこなしたくて

派遣会社に入り、秘書の仕事と

ワープロを学び派遣されました。





配属先は、富●通の宇宙開発事業部!

聞こえは良いのですが、

仕事は何とも単調なものでした。





印刷されている書類を1枚受け取り、

ワープロで全く同じ物を入力する。

その繰り返し。





どちらかというと、

忙しく動き回る方が好きな私は

フラストレーションが溜まり、

またしても転職です。




次に就職したのは、求人広告の営業。

これは新聞折り込み広告でみつけました。

男の世界だったのを

女子の営業を育てたい!という記事。




ここで一般的な営業をしました。

飛び込みを1日、朝から晩まで、

断られても、また向かいます。

営業の厳しさと根性を学びました。




大変ではありましたが、

先輩からも良くしてもらい

それなりに楽しく仕事をしていましたが

ここに来て、

古傷である交通事故の後遺症が出ます。




これまた途中で断念です。

ここまで来ると、

『私の天職はなんじゃらほい』となります(笑)

次こそは長く続けられる仕事。

その時出会ったのが不動産業でした。




その会社は横浜関内。

賃貸専門の不動産業です。

社長は女性で、パワフルな人でした。

メインは大手サブリース会社の賃貸仲介。




個人の大家さんもいくつか有り、

賃貸管理もしていました。

私の知らない世界、不動産業。




ただ、この会社は

一般的な不動産屋のイメージとは

全く別物でした。




賃貸専門ではありますが、

この職場で不動産業に対する興味が沸きます。

こんなに賃貸ってトラブル起きるもの?

と言う風に、今では当たり前の内容も

当時は、本当に驚いたものです。




そんな中で、入居者の方や大家さんから

お礼を言われ感謝された時の嬉しさ、

トラブルを解決までに持っていく難しさ

そして達成感を感じます。




元々、家とかアパートとか、

物件を見るのは大好きだったので

楽しい仕事でした。

契約もほぼ一人でこなしていました。




私の今の契約スタイルは

この時に培われた物ですが、

社長の契約の仕方から学んだので

若干丁寧すぎて時間がかかります(汗)




最初に身についた事って

なかなか抜けないものです^_^;

この職場で、不動産業についての基礎が

出来上がった感じでした。




就職して8年、丁度結婚した頃、

取引先の大手サブリース会社が

物件の巡回をする管理人を探しており、

社長とも相談し会社を退職、

個人で仕事を請け負う生活が始まります。





1ヶ月間で、約70棟を巡回。

夏などは草むしりもしたり

敷地内清掃をしたり

共用灯の交換をしたり・・・




これまた順調に行くかと思いきや

大手サブリース会社がリゾートに手を出し

失敗、吸収合併を余儀なくされ

ある日、月も半ばに連絡があり、

月末で契約終了となってしまいました。




こりゃいけないと

取り敢えずの仕事をみつけます。

湘南国際村の福祉研修施設の

事務アルバイトと

ケーキ屋さんのアルバイト掛け持ちです。




湘南国際村の方は、福祉資格取得の

福祉研修で全国から人が集まります。

その資料準備、お茶の準備、片付けなど、

裏方仕事でした。




劇団での裏方と似ているところもあり

ここでの仕事も順調でした。

この場所で資料準備

パソコン操作を学びました。




しかし、福祉研修アルバイトの契約は1年。

ケーキ屋さんだけではどうにもならないので

どうしようかな~?




と、思っている時に姉のツテで、

横須賀の八百屋さんの組合に

就職することになりました。




実はこの時、

福祉研修施設の上席の方が

私の事を気に入って下さって、

契約社員として来ませんかと

誘って下さいました。




本当は、その話を受けたかったのですが、

でも、先に八百屋さんの組合に

就職することが決まったばかり。




姉の紹介から断るわけにも行かず、

迷いに迷った末、

後ろ髪をひかれながらお断りし、

八百屋の組合事務として働き出します。




これが実は、

運命の分かれ道だったんです!

何故なら、八百屋の組合に就職しなければ

土屋商事とは巡り合わなかった!

ということなんですね~(^^)




補足しますと・・・

土屋商事は元々八百屋さんです。

私が勤めた八百屋組合の組合員さんでした。

スーパーから不動産業に転向し始めた頃ですね。




こうして、土屋商事に巡り合い

幾つも経験した仕事の中でも

気になっていた不動産業に

従事することになりました。




その昔、母が断念した

『宅地建物取引主任者』

私がリベンジすることになるなんて!




3回目の受験でようやく取得。

合格したことを母に報告すると

本当に嬉しそうでした。




受験勉強は大変でしたが、

取得した今では、頑張ってよかったと

思いますし、何より自信になります。




昨年、宅地建物取引士と呼び名が変り、

資格の格上げをされた時には

本当に取得して良かったと思いました。




土屋商事に就職して

早6年半。

土屋商事も横浜関内の不動産屋同様、

一般の不動産屋さんとは別物です。




賃貸管理として入り、

賃貸営業をし、

売買営業に転向。




と言っても、そこは土屋商事!

みんなで協力しあうので、

役決めは大きく分かれていますが、

細かい部分は何でもやります。




私の仕事の歴史は様々な職種、

色々な経験がありましたが、

今では、土屋商事で生かすため

長い修行をしていたのかなと思います。




全てが無駄ではなく、

全てが今の仕事にも生かされます。

何より、趣味として続けた芝居の

今のポジション「舞台監督」は

相通ずるものがあります。





物事を進めて行く、

人と人を繋ぐパイプライン、

トラブルが起きる、

トラブル解決の為に奔走する、




そして、幕が降りる。

関わったお客様から

「ありがとう」

といわれるのは、

終演後の拍手にも似て嬉しいものです。




だからこそ、

続けられるのだと思います。

私の仕事は、あくまでも裏方。

縁の下の力持ちって、

すっごくカッコいい。




地味だけど、すごく重要な仕事。

その為に学び続けなければと思います。

全てが学びであり、無駄なことはない。




不動産屋のこの10年は

色々な意味で激変したと言われています。

消えて行く不動産屋も少なくありません。

多分これからも変わり続けます。




日々の変化に対応出来る柔軟性、

プロの「誇り」は持ったとしても

「奢り」は持たぬこと。

そして、

お客様の立場に立つことを忘れない。




土屋商事が今もこうして発展して行けるのは

社員一同がおのずとこの方針を

心の中に持っているからです。




まだまだこれからも

私の『土屋商事』時代は

激動の時代として刻まれて行きます。