すっかり旅客線化した山手貨物線。湘南新宿ラインや埼京線電車とともに東海道線特急も利用。元をたどれば ライナー列車により開拓されたルート (恵比寿ー渋谷間、写真:久保田 敦)

鉄道ジャーナル社の協力を得て、『鉄道ジャーナル』2022年3月号「湘南新宿ラインの20年」を再構成した記事を掲載します。 【写真を見る】いつの間にかもう20歳になっていた湘南新宿ライン  「十年ひと昔」と言う。現代の時の流れはもっと速い。そのような中で2001年12月1日のダイヤ改正で誕生した「湘南新宿ライン」は、昨年12月にちょうど20周年を迎えた。今の大学生は開業時を知らず、物心ついたときには存在していたわけだ。それほどの時間が経過した。

 

 ■「東横特急」に対する当初案は185系快速

 湘南新宿ライン誕生の経緯を紐解くと、2つの流れがある。まず1つは、新宿以南の話である。

  東急が工期25年の巨大プロジェクトとして行った目黒線改良、東横線複々線化工事の中で田園調布―武蔵小杉間が複々線となったのは1999年。これを受けて2001年3月から「東横特急」を運行開始する。この情報をつかんだJR東日本が発想したのが、新宿―横浜間の速達輸送である。当時、東海道・横須賀線沿線から渋谷方面へのJR利用者は、かねて東急の運賃の安さから相当数が横浜で東横線に乗り換えていた。

 東横特急ができれば、さらなる逸走が起きる。そこで対抗手段としてJRは、「新宿」をターゲットに新ルートの列車を企画したのである。もっとも、その段階ではまだ専用の設備とか車両、さらに乗務員等の人員増も手当てされないため、最初は185系付属編成5両で日中1時間ごとに横浜―新宿間快速を走らせる案から検討が始まった。横浜方面の東海道線から新宿に直通する列車として、すでに通勤ライナー(湘南新宿ライナー)があった。

 一方、東京圏北側では埼京線の混雑が首都圏ワーストクラスに激化していた。そこで貨物線を活用して1988年から東北・高崎線(宇都宮線の愛称はまだない)中距離電車を池袋へと入れ、日中にも両線から毎時1本ずつ運転して利便を図っていた。そうした中、営団地下鉄(現東京メトロ)では副都心線として開業する13号線が建設され、将来は東急東横線と直通する計画であることから、「西山手構想」と呼ばれた並行区間の強化策を実行することとした。

 この両者を一体化して生まれたのが湘南新宿ラインである。横浜―渋谷間26分の東横特急に対して横浜―新宿間を30分で結ぶため、横須賀線を走っても「あくまで東海道線」であるとして東海道線直通の快速は新川崎・西大井を通過とした。

  さらに横浜駅は東京方に横須賀線から東海道線への渡り線があったが、うねうねと渡って速度制限が厳しいため、そこを使うと新宿―横浜間30分とならない。そこでこちらは逆に、東海道線電車ながら横須賀線ホームへの到着を許容した。

 これらの措置により、当時の報道資料には「横浜―新宿間データイム最速29分(現行より11分短縮)」とあり、事務的な発表だがどこか誇らしげに映る。  ただ、そうした押しの強さの一方で、当時の池袋駅は埼京線と山手貨物線上のホームが別で、その合流(新宿方)は平面交差。新宿駅も15両編成の中距離電車に対応するホームが3・4番線だけという状況だった。そのため、N′EXに臨時列車も活用する都心区間では、新たな列車を組み込める余裕はさほどなかった。

 そこで現れた当初の姿は、既存の宇都宮線・高崎線毎時各1本の電車を南側へ直通させ、それだけではさすがに少ないので、新宿―横須賀間の列車を加えて1時間計3本とした。だが運転間隔は20分均等ではなく、15分間隔が2本続いて30分空くパターンだった。運転時間帯は朝~夕ではあるが、通勤ピーク時は1時間20本の埼京線が最優先で、そこにどうにか中距離電車2本を挟む既存ダイヤで限界だった。そのようなことで日中中心の計25往復とされた。現在の60往復を超える規模との差は明らかだ。

 

■「1」の取得をめぐる攻防も逸話に  この時の列車番号付番にまつわる話は有名で、東京を貫通するため北か南のどちらかで通常の「下りが奇数」の原則と逆になる。新宿や大崎で番号を変えると管理上厄介であるし、当時の大崎は通過であり、番号を変える操作のためには運転停車が必要だ。そこで南北の輸送担当で1の取得をめぐる攻防となり、結局、末尾のアルファベットでEを北行、Yを南行とし、4桁数字の末尾は全列車を0にそろえて“引き分け”にした(下1桁を除く3桁数字で区別)。

 ところがその顛末にもかかわらず、その後に上野東京ラインができた際にEを上野東京ライン、Yを湘南新宿ラインと系統別に振り分け、京浜東北線に倣い奇数が南行、偶数が北行となった。なぜ別のアルファベットで区別しなかった? と思うところだが、システム上、同一指令内では同じ記号は使えない制約の下、A・B・Cは京浜東北線、Dは気動車、Fは横須賀線や相模線…、Iは1に似ている、Nは列車ダイヤ図の中でMと間違いやすいなどと除外してゆくと、結局EとYを使うしかなく、苦労のエピソードは過去のものとなった。

 発着駅も今ほどの統一感はなく、少ない本数の中にも宇都宮線が小金井・宇都宮・大宮・黒磯、高崎線が籠原・高崎、東海道線は平塚・国府津・小田原、横須賀線は大船・逗子・久里浜と、まさにさまざま。駅の案内掲示類も駆け出しのうちは不十分で、今なら車両のLEDも路線名と行先を交互に表示できるが、方向幕ではそうはいかない。LEDでさえ文字数に限りがあったから、最初は「湘南新宿ライン」の名さえ出せなかったと聞く。

 車両は直通に115系・211系・E231系、新宿折り返し列車に215系・E217系。国鉄型にJR最新型、ダブルデッカーと、バラエティ豊かと言えば聞こえはよいが、まさしく寄せ集められた。215系とE217系以外の、直通を担うメインの車両は北側の所属で、それらは当時、グリーン車を連結していなかった。

  この百花繚乱ぶりには各種エピソードがある。215系は、これ以前、東海道線の快速「アクティー」に使われていたが2階建て車両で2ドア車のため乗降に手間取り、しばしば遅れを出していたことに加え、その2階建ての人気から特急「踊り子」の乗客を食ってしまう傾向があった。そこで転用となった。215系は編成数が少ないので、補うために運転系統上で適した基地からE217系を引っ張り出した。

 また、115系とE231系は小山電車区(当時)の所属、211系は新前橋電車区(同)。当時、車両基地ごとに所属車種を統一して効率化を図る観点から、そのように分けられていた。115系の起用はE231系への置き換え過程での産物だったが、その湘南色の電車が横須賀線に入るのだから、鉄道ファンには注目された。一方、211系も含めて編成中にグリーン車がない点は東海道・横須賀線各駅では異分子であり、各駅ではその旨の案内を繰り返していた。

 

■「とにかく走らせる」でまずスタート  ところで、現在まで脈々と続く直通の運転系統は、じつはこの車種の関係で決まった。新前橋は211系だから、同じく211系が集中配置されている田町電車区(まさしく現在再開発中の品川の基地)が受け持つ東海道線と相性がよい。一方、宇都宮線系統のE231系は、すでにE217系で4ドア化され、車両技術面でも新世代同士となるため横須賀線と相性が合う。いざというの時の対応が容易なわけである。

 “しっちゃかめっちゃか”といった言葉が浮かぶのは新宿駅の光景も同じだった。現在、N′EXや朝晩の通勤特急、東武線直通特急が使用している5・6番線はもともと甲州街道陸橋架け替えに合わせた構内配線改良の際の仮ホームとして設けられたもので、湘南新宿ライン開業時は存在していない。だから、N′EXや通勤特急前身のライナーは埼京線や湘南新宿ラインと同居しており、しかも駅改良工事は始まっていたから、雑然とした上にあちらこちらへ折り返す列車で、混沌の極みだった。とにかく走らせる。走らせて需要が伸びれば車両にも設備にも投資できる。そうすれば整理された形になってゆくーー。そんなスタートだった。

 翌2002年3月、土休日の夕~夜間に3往復増発。その一部はホリデー快速に充当した215系の回送列車を営業化したもので、なおも“あり合わせ”ながら早速の増強である。このとき、小田急は「湘南急行」の運転を開始した。現在の快速急行につながる列車で、ライバルが増えた。  次が同年12月。東京臨海高速鉄道りんかい線が全線開業を迎えてホームが新設された大崎駅に乗り入れ、同時に埼京線も大崎へ延伸、相互直通運転を始めた。このとき湘南新宿ラインは、平日は朝2往復と夕~夜間11往復を増発して38往復、土休日も12往復増発して37往復となった。新宿駅の1・2番線ホームが15両対応に延伸され、線路4本を使えるようになったためだ。しかし、池袋の平面交差と新宿駅池袋方の交差支障が未解決のためピークの状況は変わらず、増発は南側中心だった。だが、夜が充実したことで本格的に通勤客が顧客になり、休日利用が平日に勝るという当初の特徴は都市通勤鉄道らしい姿に変わった。

 

■グリーン車も組み込み平日は64往復に成長  そして2004年10月16日、湘南新宿ラインは「完成形」と言うべき姿となる。運転時間帯がほぼ終日に広がり、基本とする日中の運転は高崎線~東海道線系統、宇都宮線~横須賀線系統とも毎時2本の計4本とされ、1往復増とともに新宿折り返しのイレギュラーを解消した。車両は両系統とも4ドアのE231系に統一。そして、全列車にグリーン車を組み込んだ。平日の総数は38往復から64往復、土休日は37往復から62往復へと7割近い増発ぶりだ。その後も1往復、また1往復と増発を重ねている。

 大宮―赤羽間と大崎―小田原間では保安設備の工事が完成し、時速95~110kmから120kmへ速度向上が図られた。高崎線~東海道線系統では日中時間帯に特別快速を新設して、「新宿―横浜間27分」と打ち上げた。新たな大崎停車でこの時分を実現するため、特快は恵比寿を通過する。  この改正では朝ピーク時の増発も特筆される。池袋―新宿間は計22本で限界とされていたが、これに湘南新宿ライン4本が加えられ、1時間に26本となった。約2分40秒間隔から同2分20秒間隔への変化である。

 このダイヤを可能にした改良こそ、湘南新宿ライン、ひいては首都圏JRの複雑化した直通運転発展の象徴である。  その第一は、池袋駅改良工事の完成だ。それまでの路線別のホーム、新宿方の平面交差(埼京線南行と湘南新宿ライン北行が交差)の姿から、方向別ホーム、大塚方の立体交差(埼京線南行が湘南新宿ライン上下線を乗り越し)化によって交差支障のロスが解消した。その背景には、埼京線板橋まで設定されていた貨物輸送がある。1999年に貨物の営業区間として廃止されたことを前提に、電車専用の急勾配を許容した交差が可能になった。

 同時に新宿駅でも構内改良が進展し、以前は交差支障が生じていたホーム(3・4番線池袋方)で同時発着が可能となった。ごちゃ混ぜだった折り返し運転列車の着線が整理された。  いまではすっかり当たり前の景色になったが、湘南新宿ライン後の20年で首都圏の鉄道輸送の有り様が大きく変わったし、都市の機能にも少なからず影響を及ぼしてきた。それを思うと、思いつきのようなことで始まったプロジェクトを大きく結実させた地道な努力に感じ入る次第だ。

 

鉄道ジャーナル編集部