生きていたという証みたいなものを異常に欲していた時期があった。

高校生の時。なんに対しても上から物を見て斜に構え何に対しても

噛み付いていた気がする。

 

持論の優位性、正当性を論じる為に相手の話は馬耳東風。

  

それから何年かたった今受け入れてから拒否をするという

術を学んだ。そのおかげで色々な人と知り合えた気がする。

 

たぶん本質は何も変わってないんだろうけどね。

 

丸くなったって言われるのがすごくいやだった時期もあったけど

その言葉を成長なのかなと置き換えることが頭の中で変換する事が

できるようになりました。

 

 

音楽というツールを用いて人生の足跡を記録していくその当時何を

考えていたのか何を思っていたのか誰を想っていたのか詩を見れば

すぐに分かるってすばらしい事ある意味日記みたいなもの。

 

平衡感覚を失った魚は内臓が破れて死んでしまう。

未来を想う詩人は死という未来に取り付かれている。

自殺志願者から他殺志願者への移行、扉にかかっている鍵を開ける

勇気はありません。見たくない自分がたぶんそこには座っているから

こっちを睨んでいるから。

太陽が二つに割れる瞬間を光に世界が覆われる瞬間を最低で最高な世界の終わりを

見てみたいと想うのは僕だけじゃない筈。

 

ありふれた思考回路をひけらかす自意識過剰な人間です。