心にある光 | 春昼閑話

心にある光

sistermoon
Brother Sun Sister Moonパンフ表紙


たまには(偽)善人モードで。

クリスマスが迫ってきた。
多くの日本人はクリスマスの本来の意味を
さほど意識せずこの日を過ごすのであろう。

イエス生誕の日。
今と変わらず民族同士の対立や
権力党争にあけくれる世。
救世主が現れるという知らせをうけ
星を道しるべに三人の賢者が
イエスの所へ祝福に訪れる日。

悲しい事件が絶えない昨今、罪を犯さなくとも、
殺伐とした心が自分の中にも潜んでいないだろうか。
信じるものが違えども
平和の祈りこそ、今必要な時代ではないのかと思う。

12/14『覚書』を書いてから
『Brother Sun Sister Moon』 を
改めて見てみたくなってきた。
フランチェスコが戦争から帰還したのち、
平和とは何かを考え悟っていった過程を描いている。
風のそよぎ、花や小鳥・・・自然を愛した純真な
若き聖フランチェスコを描いた心洗われる映画だ。
自然の前では、着飾ったりカッコをつけたり
そんなものは意味などなさない。
世俗にある欲望や虚栄心を捨て去った心は清らかだ。

 まぁ、彼の生き方は、私にはとうてい無理だし
 やりすぎだけれど
 今よりきっともっと締め付けの多かった時代、
 極端に走りたい気持ちもなんとなくわかる。
 現代はそうそう「聖人」なんてぽこぽこ出現しないだろう。
 としたら、聖人となったマザーテレサは偉大だ。
  ※もちろん地道に活動している人だって沢山いるし、
  カトリックの世界で聖人認定された人だけが凄い、
  という意味ではない。

そしてこの、アッシジの聖フランチェスコの『平和の祈り』は
学生時代、暗唱できるほど繰返し唱え(させられ)た
美しい祈りの言葉だ。(最後の2行は宗教臭いが…)

 ああ主よ
 われをして御身の平和の道具とならしめたまえ
 われをして憎しみあるところに愛をもたらしめたまえ
 争いあるところに許しを
 分裂あるところに一致を
 疑いあるところに信仰を
 誤りあるところに真理を
 絶望あるところに希望を
 悲しみあるところによろこびを
 闇あるところに光をもたらしめたまえ

 ああ主よ
 われをして慰めらるることを求めずして慰むることを求めしめ
 理解さるることよりも理解することを
 愛さるることよりも愛することを求めしめたまえ

 そは われらは自ら与うるがゆえに受け
 許すがゆえに許され
 おのが身をすてて死するが故に
 永遠の生命を得るものなればなり アーメン 


祈れば何でも解決するという表面的な解釈は他力本願であって
根本からズレていると思うが(8/30『ヤイロの娘と…』)
私の勝手な祈りについての解釈は
「主」とは自分の内面にある光であり
それと対話することによって、心が平安になったり
自戒したり、また希望をもつ手段なのだと思う。
「ああ主よ」の部分を「私の良心よ」に置き換えればいい。
美しい文章を自分で自分に読んできかせることに
意味が出て来ると思っている。
それは般若心経でも、心をうたれる詩でもよいのだ。

「神様なんていないよ」と思っている人間でも
自分の心のどこかには「良心」がひそんでいるだろう。
ささくれだった私の心にも、少しの光があると信じて。