元ウィーン・フィルの首席クラリネット奏者だったペーター・シュミードルさんがお亡くなりになったそうです。
シュミードルさんとの最初の思い出は、僕の若かりし頃、モーツァルトのクラリネット協奏曲をN響室内合奏団で伴奏した時のことです。その時、ソロを吹かれたシュミードルさんの歌い回しが、あまりにも変幻自在だったので、我々一同、伴奏するのに大変苦労致しました。ここで大人の事情が全く見えていない僕は「なんか伴奏しにくくない?」等と大きな声で言ってしまいそうだったのですが、周りの年上の方々が妙に寡黙に伴奏されている姿に「はっ」として、なんだかよく分からないけど、黙って目の前の音符を一生懸命に弾こうと思ったものです。
あの時のシュミードルさんは、若者にはよく分からない、偉くて遠い存在でした。
その偉くて遠い存在だったシュミードルさんが、突然近い存在となったのは、ピアニストの星野英子さんからのご紹介で、ツェムリンスキーのクラリネット三重奏をご一緒する事になったあたりからでしょうか。
実際にご一緒すると、正直で信頼感のあるお人柄。とてもヨーロッパ音楽界で名声、政治的腕力の頂点にいらっしゃった方とは思えない、飾り気がなく実直な太ったおじさんだったのです。
この時、共演させて頂いたツェムリンスキーのクラリネット・トリオ、僕は初めてでしたが、シュミードルさんも、あまり吹かれたことがないのか、リハーサルの時に不慣れな場面を通過するのに手こずる事もありました。そんな時、シュミードルさんは、小手先の器用さとはおよそ縁遠い、どっかと地べたに腰を据えてレンガを1つずつ積み上げていくかのような方法で問題を解決されていくのです。その何の魔法もなく、ただただ不器用に、しかし確実に問題に取り組まれていくお姿が、今でも僕の目に焼き付いております。
また別の機会には、ベートーヴェンのクラリネット三重奏曲「街の歌」をご一緒させて頂きました。その第2楽章はアダージョ。とても遅く演奏するべしと記されている訳ですが、昨今の流行りとして、あまりに遅く演奏するのは、感情に浸り過ぎで知性に欠けているようで恥ずかしい、今は感情楽章でも深入りせずサクサクと演奏するのがカッコイイみたいな空気感があるような気がします。遅い楽章を本当は本能の赴くままに演奏したいのに、抑制の効いたIQの高い演奏家ぶらないと世の中から取り残されるという気持ちが、僕も含めて演奏家の心のどこかにあるのではないでしょうか。
ところがシュミードルさんの取られたテンポは、朱肉のたっぷり付いたでっかいハンコを、真っ白な半紙にドスンとつくがごとし!
ああ、これだ。「流行」が全力をあげてもシュミードルさんに何かを伝える事が出来ていない。
IQ?人の目?そんな事は私には分からない。私は自分の信ずる事をするだけだ、とシュミードルさんがその演奏を通じて言外におっしゃっていると、その時、僕は感じたのでした。
ところで、ある日のリハーサルが終わった時、シュミードルさんは僕におっしゃいました。
「あなたは、とても良い。しかしまだまだ良くなれる」
これは褒め言葉のようでいて、まだ足りないという叱咤でもあるお言葉です。
どうしたら良いでしょう?
昔のマルダイハムのコマーシャルに似せるなら
「不器用でもよい、ゆっくり育って欲しい」
シュミードルさんが亡くなり、こんな言葉が、より鮮明になったような気がしている今日この頃です。
